具志堅用高のプロデビューは1974年。その前年、沖縄・興南高校3年時にインターハイで優勝し、協栄ジムのスカウトを受けてのことであった。
 沖縄がアメリカから日本へ返還されたのは'72年のことだから、もしこれが1年でも遅れていたならば、インターハイの出場もプロデビューもなかった可能性は高い。

 WBA世界ジュニアフライ級王座を獲得したのは'76年。当時の沖縄はまだ“車は右側通行”などアメリカの影響が色濃く残っていて、そんな中での具志堅の活躍は本土と沖縄をつなぐ架け橋ともなった。石垣島出身の具志堅を“日本の英雄”として、皆がそろって応援したのだ。
 世界戦のテレビ中継は軒並み視聴率30%超え。5度目の世界防衛戦となった'78年の対ハイメ・リオス(パナマ)で記録した43.2%は、視聴率が機械によるオンライン調査となった'77年以降のボクシング放送では、今なおトップである(それ以前はアンケートによる調査で、'54年に白井義男の世界挑戦試合で記録した96.1%が最高値)。これは、その後に話題となった辰吉丈一郎vs薬師寺保栄や、内藤大助vs亀田興毅を上回るもので、どれほど具志堅への国民的関心が高かったかが、この点からもうかがえる。
 「あのころは“今夜は具志堅の試合だ”などと日常会話が交わされ、夜の7時には仕事帰りの父親がテレビのまん前に座って家族みんなで応援したものです」(ベテランボクシング記者)

 アフロヘアに口髭という印象的なルックスに加え、そのわかりやすい強さも人気の要因となった。
 「形ばかりの右ジャブを2、3発放つと、そこから一気に踏み込んで左右のラッシュ。腰が入って体重の乗ったパンチは丸太棒で突くような衝撃を感じさせるものでした」(同・記者)

 いったん火が付けば相手が倒れようとおかまいなしにパンチを浴びせ続ける。そんな猪突猛進のスタイルは相手のパンチを食らうことも多かったが、しかし具志堅は一切ひるむ様子を見せることなく、観衆は試合後の腫れ上がったまぶたを見て決して簡単な試合でなかったことに気付かされるのだった。
 「あのころ使用されていたグローブは6オンスで、ガードの隙間から拳をねじ込めるほど小さい(現在は軽量級で8オンス、それ以上は10オンス)。15ラウンド制で試合数自体も多く、そのダメージは現代とは比較になりません」(同)

 そんな過酷な環境にあって、具志堅は次々と日本記録を打ち立てた。
 “9試合目での世界戴冠”は当時の日本最速(現在は井上尚弥の6試合目)。“世界王座6連続KO防衛”は今現在も日本では具志堅のみ。世界戦連続防衛記録も、それまでの輪島功一、小林弘の6度を大きく更新した。
 結果、世界13連続防衛は、今なお女子の小関桃(現在15連続防衛中)にしか破られていない。

 '80年6月1日、高知県民体育館で行われたマルチン・バルガス(チリ)との12度目の防衛戦では、ジュニアフライ級世界王座防衛数の世界記録も塗り替える。8R、バルガスから計3度のダウンを奪いKO勝利を収めた具志堅は、グラブをはめたままの両手でマットを叩き、飛び跳ねて歓びを爆発させたものだった。
 同級は具志堅が王座に就く直前に新設されたため、他の階級よりもやや選手層が薄い面はあったが、それでも当時は10位以内のランカーしか挑戦できないなど対戦相手のレベルは今以上に高かった。
 「国民栄誉賞級の活躍ながら受賞とならなかったのは、所属する協栄ジムのいわゆる“毒入りオレンジ疑惑”の醜聞が流れた影響が大きかった」(スポーツ紙記者)

 直接的に問題とされたのは同ジムの後輩、渡嘉敷勝男の試合に関してではあったが、具志堅の試合でも同様に試合前、対戦相手に下剤や筋弛緩剤を仕込んだ疑いは拭い切れなかった。
 「もしジム側でそういう企てがあったとしても、本人は全く知らぬ中でのことに違いなく、実に残念ではあります」(同・記者)

 ただ、国民栄誉賞受賞となると、今のように気楽にテレビ出演というわけにもいかなかっただろう。
 果たしてどちらが良かったか、人間万事塞翁が馬ということか。