■小林監督が残した実績

言うまでもなく、小林監督が山形で残した実績は文句のつけようがないくらいにすばらしいものだ。

2年続けて中位以下に沈んでいた山形を、08年の就任初年で一気に2位に引き上げた。当時の山形の事業規模は約8億3000万円。J2の当時15クラブのなかでも下から数えたほうが早い低予算だったこともあり、昇格レースではノーマークだった。当のクラブ側も現実的に2年越しの昇格を描き、シーズン前には「常にトップ5に入っている」ことを目標に、まずは昇格可能性を高められる自力を付けようとの意図が見られた。しかし蓋を開けてみれば、序盤こそ中位あたりで上下するも、6月に2位に浮上すると、その後もほぼ2位に定着。首位・広島には勝ち点22差と大きく離されたが、自動昇格圏はがっちりキープした。

これだけの劇的な変化は自然の流れに任せたものではない。狙ったからこそ実現したものだ。要因はいくつかあるが、もっとも大きなものは守備の修正だ。

■徹底した守備戦術の強化

前年まで2シーズン指揮した樋口靖洋監督は、前線からのプレッシングとダイレクトプレーを前面に押し出していた。守備がハマれば会心の勝利にもつながり、被シュート数も少なかったが、高いラインの背後を取られて失点するケースに悩まされていた。そこで小林監督は、ゾーンとマンツーマンの併用でこれを修正。ブロックを形成しながら相手の足元にパスが出たらアプローチし、ボールが離れればポジションに戻る。この習慣づけを行った。と同時に、背後に走られたら必ず誰かが付いて走ることも約束した。

個人戦術においても、シュートコースを塞いでからボールへ詰めるアプローチ法や、特にクロス対応は得失点の大きな割合を占めるだけに、相手の把握のマークの仕方や視野の取り方、ステップの踏み方に至るまで細かく指導した。

攻撃面でも、守備を置かないシャドーの状態で複数の人数での理想的なボールの運び方が徹底された。個人で突破できる存在がいないだけに、理詰めのグループワークでゴール前までボールを運ぶ工夫がパターン化された。フォワードは全体練習後の「小林塾」が定番となっていた。ゴール前で相手を背負いながら足元で受けたときの選択肢を複数持ち、相手の対応に応じてプレーを選び取るトレーニングで、長谷川悠や豊田陽平(現鳥栖)が鍛えられていった。

■J2各クラブに与えた希望

プレーの要求が細かいだけに、当初は選手にも戸惑いもあった。第3節に昇格組の岐阜に3-5の敗戦を喫したのも、未消化な部分が露呈したものだ。しかし、学習能力の高さでミスはその都度修正され、その細かさが実戦で生かされるたびに、チームの安定感として身についていった。

初昇格を果たしたJ1での1年目は、開幕戦で磐田に6-2というまさに歴史的な勝利を収めたが、全体としては劣勢を強いられる試合が多かった。しかし、それもさらに徹底した守備と少ないチャンスをモノにする勝負強さで補い、圧倒的に不利が予想されたシーズンでJ1残留を果たしてみせた。個の総和では太刀打ちできない相手でも、組織として戦うことで差を埋め、千載一遇のチャンスが来るまで耐えに耐え抜く。割り切った戦い方は、ある種の清々しさをサッカーファンに与えた。また、「低予算の山形でもここまでできるのか」と、J2の各クラブに与えた希望もけっして小さくない。

■攻撃へのこだわりも忘れず

ともすれば、小林監督のサッカーには守備的なイメージがつきまとう。しかし、現実は違う。最終節まで優勝争いに絡んだセレッソ大阪監督時代の05年には、守備を整備しつつも西澤明訓や森島寛晃など攻撃力が魅力のチームも率いている。戦力を十分に比較し、戦力的に劣る側が勝利をつかむには、守備力を整備し、相手の長所を消すことが最大の定石。