日本サッカー協会のハリルホジッチの通訳さんは、なぜ「デュエル」を日本語に訳さず、デュエルとして世の中に送り出したのだろうか。

「今日もデュエルで負けた」とは、試合後の会見でハリルホジッチがよく口にした言い回しだが、ここで使用するデュエルは、日本語に訳せば競り合いだ。それをデュエルとすれば、デュエルは付加価値を含んだ言葉として、世の中に解き放たれる。新語、外来語に弱いのが日本人。デュエル(競り合い)はハリルホジッチが持ち込んだ、新たなサッカー用語として、必要以上にパワーを秘めることになった。

 実際、あちらこちらで耳にした。ハリルホジッチの価値を結果的に高めることに繋がった。解任発表記者会見に臨んだ田嶋会長でさえ、「デュエルという言葉は、まさに日本サッカーに欠けていた……」と、その席上でハリルホジッチの功績を(形式上かもしれないが)讃えていた。しかし、その重要性は何十年前から説かれていた。日本人の指導者によって。

 わかりやすいのは「サッカーは格闘技だ!」。サッカーが技巧的な方向に進み始めると、その反動だろう、格闘技を口にする人が現れる。そして、日本のサッカー界において一定の効果を発揮する。

 とはいえ、賞味期限は短い。息は長く続かない。「やっぱりサッカーは格闘技じゃないし……」となり、格闘技は潜伏を余儀なくされる。そして、何年か後に、頃合いを見計らうように再び姿を現す。このサイクルを繰り返してきた。

 そこにデュエルが登場。ツボにハマったという感じだ。にもかかわらず、初めて伝来したサッカー理論のような新鮮さで受け止められた。年長者であるサッカー協会会長もしかり。日本サッカーの良薬になったと、ありがたがっている。

素振りを見せている--と言いたくなるのは、会長だって、競り合いの重要性について語られことが、今回が初めてではないことぐらい知っているハズなのだ。しかし、この際、デュエルぐらいは讃えておかないと話は丸く収まらない。

そうした背景を知らず、いまだ、こだわりなくデュエルを口にする人に、怪しさを覚えずにはいられない。薄っぺらさを覚えてしまう。

 デュエルで負けた(競り合いに負けた)と嘆くハリルホジッチに、僕は嘆きたくなった。50対50の競り合いは、サッカーにはほぼ存在しない。最初から、有利不利は決まっている。有利な状況で負けたのならともかく、互角か不利な状況で敗れても、当然のことが起きたまでだ。

 その負けは嘆くべき負けなのか。記者会見で怒りたくなるほどの負けは、いくつあったのか。ハリルホジッチの怒りは、多分に感覚的であり感情的。この調子で怒られたのでは、選手はたまったものではない。自分の唱えるサッカーがうまくいかないことのカモフラージュにもなっていた。

 ハリルホジッチの出身地である旧ユーゴは、世界有数の巨人国として知られる。その指導者に、体格に人種的ハンディを抱えた日本人が、その弱点を叱責されるという構図に、やりきれなさを漂わせた。解決策のない叱咤は理不尽そのもの。逃げ場がなくなる。言われっぱなしの状態だ。

 さらに罪深いのは、そうした機会を、ハリルホジッチが意図的に増やそうとしたことだ。ピッチの各所で競り合いが起きそうなサッカーを、体格にハンディを抱えた日本人に要求した。これにハイ! と喜んで答えようとする選手は何人いるだろうか。

前にも述べたが、日本のスポーツ界が見いだした結論は、柔よく剛を制す、だ。柔の立場になりきり、剛に勝つ。そしてサッカーは、他の競技に比べ、そうした思考法が成立しやすい特性がある。ラグビーとは違う。アメリカンフットボールとも違う。アイスホッケーでもない。

 格闘性の低い競技なのだ。小さくてもなんとかなりやすい競技の筆頭。小さいが故の巧緻性を武器にすることができる。キーワードはデュエルではない。

 だが、ハリルホジッチに柔よく剛を制す的気質はなかった。小柄なのに剛の立場で、強者に向かおうとした。「縦に速いサッカー」は、剛を象徴するスタイルだ。

根本的な部分に決定的な相違点を抱えていた。解任やむなしだ。遅すぎる交代であったことは言うまでもない。去って行く人を悪く言いたくないが、この際、言うべきことは言っておかないと、教訓として次に活かされない。

 それにしてもハリルホジッチ招聘に動いた当時の専務理事、原博実氏(現Jリーグバイスチェアマン)と、当時の技術委員長、霜田正浩氏(現、レノファ山口監督)は、いま何を思っているだろうか。ハリルホジッチをどのような監督と見立て、招聘に動いたのか。見込み違いにもほどがある。この解任劇は、まさに協会の問題なのだけれど、この2人の責任もかなり重い。そしていま、この2人が協会の外にいるという現実もまた問題だ。任命責任のある人が、途中でどこかに去っていく協会の仕組みに難ありと言いたい。