(イラスト:宮下和)

写真拡大

2024年1月1日、最大震度7を観測した能登半島地震。約300人の死者と、全壊8000棟を超える住家被害となり、発生から半年以上経った今でも、800人を超える人(※2024年8月21日・内閣府発表資料より)が避難所での生活を余儀なくされています。思わぬ災害で、当たり前の日常を奪われたら――。中川美咲さん(仮名・石川県・派遣社員・31歳)は、お正月、お母さんと2人で石川の自宅にて被災。地震から6ヵ月以上経っても二次避難中である現状を綴ります。

* * * * * * *

とてつもなく長く感じて

2024年1月1日、午後4時を少し過ぎたころ、スマホの緊急地震速報が鳴り響きました。「こんな日に地震? でもどうせ大した揺れじゃないって」と母に話しながら、一応灯油ストーブを消し、台所のガスの元栓を閉めました。

「やっぱり、いつもと同じで全然大丈夫だった」。そう居間の椅子に腰を下ろした直後でした。今まで経験したことのない揺れに襲われ、母のもとへ向かおうとするものの立つこともできず、うずくまって耐えるばかり。

大きく波打つような激しい横揺れに、私はタンスが倒れてこないよう両手で必死に押さえることしかできません。

この古い木造家屋は、田んぼを埋め立てた上に建っているので、もしかしたら崩れるのではないかと、怖くてたまりませんでした。

とてつもなく長く感じた揺れが弱まった瞬間に、「外に出よう!」と、縁側のガラス戸を開けて靴も履かずに飛び出しました。1週間前までは除雪車が来るほど積もっていた雪が、能登の冬にしては珍しく続いた快晴で、綺麗になくなっていたことが幸いだったと今にして思います。

その後も大きな余震が続きました。町内の防災無線からは絶えず地震速報の音が鳴り、ひび割れた道路には漏れた水が溢れ出ています。雪がないといっても寒い。家が倒れないことを祈りながら大急ぎで中に戻り、コートと靴、カイロなどをかき集めて外に出ました。

1秒たりともいたくない――。つい10分前まで安心してのんびりと過ごしていた家の中が、そのときは物凄く怖かったのです。

同じように外に出てきた近所の人に、「津波が来るらしい」と伝えられたときは、信じられませんでした。だって、ここから海までは距離がある。とはいっても、車を20分も走らせれば着いてしまう。でも途中に大きな橋もあるし……。

考えている間にも、町内の人たちが車でどこかへ避難していきます。それを見て、車を持っていない私と母は、取り残されてしまうのではないかと猛烈な焦りを感じました。

今だから落ち着いて思い返すことができますが、あのときは選択の連続でした。正解なんて誰もわからないのに、短時間で「最善の道」を選ばなければいけません。次から次へと迫られる決断。しかも自分たちの命がかかっています。一つ一つの選択が重く、心身ともに苦しめられました。

幸い町内の人が車に乗せてくれて避難所に辿り着き、初めての避難生活が始まりました。家は断水していて、何より余震が続くなかで天井が落ちそうな家には怖くて帰れません。

今までの自然災害は自分には関係のない「他人事」になっていたと痛感しました。まさか自分が被災する側になるなんて。地震から6ヵ月以上経った今も、どこか自分が経験したことではないかのように感じてしまいます。

壊れた壁や柱は今も崩れ落ちたまま

避難所で一番疲弊したのは、他人との生活でした。もともと人と接することが苦手な私にとって、知らない人と24時間過ごすこと、気を使って自由にトイレにも行けないことは何よりのストレス。

そして65歳の母のことも心配でした。避難直後、母は家のことばかり考えていたようです。家を出るときに、崩れ落ちた内壁を見たためでしょう。戻って少しだけ様子を見たいとしきりに言うので、よくないと思いつつも叱りつけてしまいました。

しばらくして、家に戻れない私たち親子は、金沢の宿泊施設に移ることに。いわゆる二次避難です。そして現在もまだ宿泊施設のお世話になっています。

地震の数日後になんとか申請した罹災証明書の結果が最近届いたのですが、認定の内容に不服があり二次申請をするつもりです。

しかし再調査の日程を決めるだけで2ヵ月以上はかかるらしく、二次の結果が出るのはもしかすると夏を過ぎるかもしれません。その調査があるため、壊れた壁や柱は直すことができず、今も崩れ落ちて断熱板が見えたままになっています。

あれから半年あまり。私が思うのは、以前の生活には戻れないのだな、ということ。家から歩いて行ける距離にあった唯一のコンビニや、クリーニング屋さん、饅頭店までもが閉店しました。

修理の済んでいない家に、安心して住むことはできません。それでも明日は否応なしに来る。今は避難先の金沢から電車で片道3時間ほどかけて家に戻っては、ひとつずつ片づけて過ごしています。

震災から時間が経ったら、被災者は希望をもって前を向くべきなのでしょうか。現実は、そう簡単にはいきません。明日どこで寝て、何を食べられるのか。一日でも早く家に帰るためには、手続きはどうすればよいのか。そんな「最善の道」をただ探して動いていたら、いつの間にか季節が変わるほど時間が経ってしまいました。

これから先どうするのかもまだ決められていません。ひとまず二次避難先の滞在期限は7月末なので、それまではお世話になろうと思っています。

被災した家は、今は亡き祖父が建てたものです。本当によくぎりぎり倒れないで保ってくれたなと思います。祖父は、家を大事にする人でした。

そんな祖父の笑顔の遺影が、今は人の気配のなくなった部屋にあると思うと、何だか寂しい気持ちになります。

被災地復興に向けての支援・ボランティア

もう震災の前の状態には戻れない。それでも、美咲さんたちは「最善の道」を探して進み続けています。

被災地の方々に向け、私たちは何ができるでしょうか。

内閣府による防災情報のページでは、令和6年能登半島地震被災地への、支援・ボランティアを希望する方への情報を発信しています。

●令和6年能登半島地震 ボランティア・被災地への支援をお考えの方へ
https://www.bousai.go.jp/updates/r60101notojishin/volunteer.html

※婦人公論では「読者体験手記」を随時募集しています。

現在募集中のテーマはこちら

アンケート・投稿欄へ