殿に名前をもらった時は嬉しかったよ!

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「50代を迎えて、オレの人生は激変した」

 という玉袋筋太郎(56)の著書『美しく枯れる。』(KADOKAWA)が注目を集めている。仕事、家族、友人関係など、大きな変化が訪れる50代からをどう生きるか。玉袋が自身の経験をもとに、美しく枯れるための生き方を説く一冊になっている。浅草キッドの現状、師匠・ビートたけし(77)との関係、出て行ってしまった妻など、初めて明かす秘話も多い。

 前編では本に込めた気持ちや、レギュラー番組への思いを聞いた。後編では芸人・玉袋筋太郎を作った師匠・たけしとの関係などを聞いた。(前後編の後編)

【写真】「これからは殿に頼らず、自力で生きていかないと」と強く思う反面、「やっぱり殿のそばにはいたい」という

よく見ると本当にいい名前

 東京・新宿。2025年2月に営業が終了するアルタビルのすぐ近く。明治38年創業の老舗のうなぎ屋で、たけし軍団の若手への「命名会」が開かれたのは、玉袋が弟子入りして間もない頃だった。そこで相方の水道橋博士や、佐竹チョイナチョイナらの名前が決まっていく。玉袋の時に残っていた芸名は「シロマティ」「蟻の門渡哲也(ありのとわたりてつや)」そして「玉袋筋太郎」。

殿に名前をもらった時は嬉しかったよ!

「殿(ビートたけし)に“どれにする?”と言われて、3つあった芸名の中から迷わずオレは“玉袋筋太郎を頂きます”と答えた。嬉しかったよ。師匠から名前をもらえたんだから。いや、今でも最高の芸名だと思っています、本当に。こんないい芸名ないですよ。NHKさんを評価の基準にしてはいけないけど、今ではこの名前で公共放送にも堂々と出演できるしね」

 かつて、仕事でシンガポールへ行った時のこと。スタッフと一緒に夜の街を歩いていると、「百恵」というスナックがあった。お、ここは日本人ホステスがいるかもしれない! 早速、店に入ると、予想に反してホステスは全員、中国人だった。

「自己紹介ということで、名前を書いたんです。そうしたら、ホステスが『いい名前だ!』って連呼するの。確かによく見ると、勾玉の『玉』、金や食料とか大事なものをしまう『袋』、そして『筋』を通す生き方、さらに男の子の名前としてはポピュラーな『太郎』。いや、いい名前なんだよ、これが(笑)。本にも書いたけど、前に毒蝮三太夫さんとトークショーをしたときに『もうすぐ90歳なのに、仕事が途切れないのは凄いですね』と言ったら蝮さん、『それはオレが毒蝮三太夫だからだ。本名の石井伊吉(いしいいよし)だったらこの年まで売れてないよ』。だから毒蝮の命名者である立川談志師匠に感謝しているって。オレもそうだね。殿には感謝してもしきれないよ」

 玉袋は弟子入り後、相方の水道橋博士と共に、志願して浅草フランス座へ修業に出ている。師匠のたけしも、芸人修業を積んだ場所として知られる。朝9時から夜9時までフランス座で働き、夜は深夜まで「スナック フランス座」でボーイのバイト。それで日給は1000円だった。

「オレは高校の頃から浅草に行ってみたいと思っていた。“ビートたけしの生き様を追いかけたい”という(水道橋)博士の気持ちもあったし。だから浅草に行くことに迷いはなかったんだ。でも、実際に行ってみるとヒドいもんだったな。当時はバブルの絶頂期なのに、とにかく給料が安くてさ。日給1000円なんて、タバコ買って銭湯行ったら、ほとんど残らない。スーパーで駄菓子を買って、ウーロン茶をがぶ飲みして腹を膨らませていました。高校卒業時、オレは体重が80数キロあったんだけど、3か月で58キロまで落ちたからね。ライザップもビックリですよ」

 急にやせたことで体の抵抗力も落ちていたのだろう。何十年と使われていたフランス座の布団で寝ていたため、全身をヒゼンダニに食われた。言わずと知れた、疥癬の病原体である。

「とにかく全身がかゆくて、かきむしっていました。気がつくと、皮膚病の見本みたいになっちゃって。その頃、実家に帰って風呂に入ったんです。久しぶりに息子を見た母親が驚いちゃってね。痩せて、皮膚が荒れ放題。泣きながら『もう辞めてくれ』と言われて。翌日、病院に行ったら『今どき野良犬でもかからない病気だ』と言われて。浅草時代は酷いもんだった。でも、底辺で生活したことはいい経験になったと思う。芸事とはちがうサバイバル術、タフネスさを身に着けたというのかな。泥水をすすったせいで、どこへ行っても水には当たらないぞ、みたいなね」

我慢も悪くない

 本書でも触れているが、50代からの生き方として「がっつくな、よだれをたらせ!」という項目がある。老後が見えてくると人生のゴールや自分に与えられた時間を考えるようになる。そうすると「死ぬ時に後悔しないように」との思いから「今すぐやろう」「やりたいことは何でもやってみる」という考えになりがちだ。

「そうじゃないんだよな、オレの考え方は。やりたいことをなんでもやるのは、身勝手でもあるからね。浅草時代でいえば、当時のオレの友達はみんなバブルを謳歌して、やれプレリュードだ、ソアラだ、フェアレディだって車を乗り回し、楽しんでいた。こっちはダニに食われて貧乏生活だけど、おかげで芸人に必要な“タメ”ができたと思っている。目の前のご馳走にすぐ飛びつんじゃなくて、じっと我慢するのも悪くはないよ。やせ我慢と言われればそれまでだけど、タメを作るのは必要だと思う」

 そんな玉袋が、今、ガマンしていることがいる。他ならぬ、師匠のビートたけしに“会う”ことだ。

「そりゃ、やっぱり殿のそばにいたいですよ。憧れて入門した師匠だし。ただ、弟子の務めというのは、やっぱりきちんと仕事をすることだと思うんだ。仕事も何もしないでフラフラしていたら、師匠に会わせる顔がなくなっちまうからね。幸い、今でもいくつか仕事をさせて頂いているので、師匠孝行ができているとは思うんだけど…」

 と言って、こう続ける。

「付き人だって、運転手だって、殿のそばにいられたら、そりゃもう最高ですよ。オレがよく言うのは『殿は竜宮城』。そばにいる間は、テレビ局のお偉いさんからなにから、みんな『たけしさん、たけしさん』でしょ。そういう環境にいると、カン違いする奴もいるんです。実際、そういう人を見てきたし。でも、そういうヤツは殿のそばを離れた途端、浦島太郎になっちゃうだな。憧れて、好きで好きで弟子になったけど、だからといってずっとそばにいてもダメなんだね。竜宮城にいて浮かれている間に、他の連中に芸事で抜かれてしまう。だからオレと博士は浅草へ行った。殿に対しては、初めて会った時の気持ちを忘れないために、あえて近づかない。それは今も同じだよ。本音? そりゃ会いたいよ。殿のそばにいたい。でも、この距離を保つのも、タメを作るのと一緒だよね」

オジサンは背中で語れ!

 もう一つ、本書で指摘されているのは、「自分の身の丈をわきまえて行動すること。それはそれでカッコいい」というもの。

「履いている下駄を脱ぐと楽になりますよ。でも、若い時って自分を大きく見せようとしてつい下駄を履いちゃうんだよね。無理をしないで、たとえクズでもクズなりに生きていく。でも、実はクズのようでいてクズではない生き方をする――これ、オレのことね(笑)。鎧を脱ぐとでもいうのかな、昔のようにオレが、オレがではないんだよな。楽になるよ、本当に」

 最近のオジサンたちは、新入社員など、若い人を酒席に誘いづらくなっているという。ハラスメントに厳しい時代の流れもあり、楽しく一杯やりながら、というわけにはいかなくなっているという悩みをよく聞く。

「簡単だよ。無理して誘わなくてもいいの。若い人にはね、酒でも仕事でも、オジサンたちが楽しそうにしている背中を見せていれば、『あれ、なんか楽しそうだな』って、向こうから寄ってくるよ。こっちへ来いよ、なんて言わなくていい。自分たちが楽しんでいる姿を見せてあげればいいんだよ」

 若い人への接し方で言うと、玉袋も怒ったり説教したりすることはなくなったという。

「怒るって、オレが怒れる立場じゃないでしょ、この本を読めばわかるけど(笑)。ただ、最近の若い人を見ていると、叱られ上手と褒められ上手がいないな、と思いますね。特にオレは褒められ上手でね。殿や高田文夫先生から何度も『どんどんやれよ、お前ら面白いんだからよ』って褒めてもらって、それが励みになって頑張れたからね。若い子は何で褒めさせてくれないんだ、褒めさせてくれよ、褒めたいんだよオレ……これが正直な気持ちかな」

(文中敬称略)

玉袋筋太郎
1967年、東京都新宿区生まれ。高校卒業後、ビートたけしに弟子入り。1987年、水道橋博士と「浅草キッド」を結成。2020年、独立してフリーに。著書に『粋な男たち』(角川新書)、『スナックの歩き方』(イースト新書Q)など。「町中華で飲ろうぜ」(BS―TBS)、「金曜ワイド ラジオTOKYO えんがわ」(TBSラジオ)などのレギュラーの傍ら、スナック好きが高じて赤坂に「スナック玉ちゃん」を開業。一般社団法人全日本スナック連盟会長。

デイリー新潮編集部