切り通しの中にある山手線目黒駅ホーム。所在地は目黒区ではなく品川区(筆者撮影)

目黒という地名、駅名は江戸の「五色不動」の1つ、目黒不動尊(瀧泉寺)に由来する。ここは古くから広く参拝客を集めており門前町が発達。一種の行楽地としてにぎわっていた。

目黒駅から下る行人坂から目黒川を太鼓橋で渡り、目黒不動尊に至る道筋には、料理屋や土産物店などがぎっしりと並んでいたという。駅の設置も、寺社参拝客より門前町への行楽客が目当てであった節がある。

落語で有名な『目黒のさんま』

落語の人気演目『目黒のさんま』も、この門前町が舞台だ。江戸時代、大田区の馬込付近から世田谷区一円に至る広大な範囲が将軍の鷹狩場となっており、「目黒筋御場」と呼ばれていた。その番人の屋敷があった場所が、目黒区の鷹番だ。そして鷹狩の帰り、将軍は目黒不動尊付近の茶屋で休息しており、これが落語の元になったとする説もある。


目黒の地名の起こりとなった目黒不動尊瀧泉寺(筆者撮影)


目黒駅から目黒不動尊へと下る行人坂(筆者撮影)

現在の山手線の前身である日本鉄道品川線(品川―赤羽間)は1885年3月1日に開業した。同時に営業を開始した駅は渋谷、新宿、板橋だけで、2週間遅れた同年3月15日に目黒と目白が追加された。

その次の品川線の新駅は1901年開業の大崎、恵比寿(貨物駅)と16年も間が空く。現在のように多くの駅が設けられたのは、国有化後、1909年に電化され電車運転が始まってからだ。

当初、駅が少なかったのは、沿線が武蔵野台地上の人口希薄地帯であった事情もあるが、根本的な理由は、品川線が上野―熊谷(―前橋)間の日本鉄道と、新橋―横浜間の官設鉄道の連絡を主目的として建設されたためである。開業初日の渋谷駅の乗降客が皆無だったような例もあり、沿線住民の輸送はほぼ眼中になかっただろう。

そもそも黎明期の鉄道は庶民の収入と比較して運賃が非常に高額だった。1894年に創刊された『汽車汽船旅行案内』によると、新橋―目黒間の運賃は6銭(現在は180円)。1890年代の公務員の初任給が10円ほどとされるから、1円は今の約2万円ほどか。6銭は換算すると1200円。今のように気軽に隣の駅までといった利用は考えづらかったのだ。

ちなみに当時の品川線の旅客列車は9往復だった。そうした歴史的経緯を考慮しないと現状を見誤る。

目黒駅付近のルート

品川線最大の使命は、明治初期の日本のもっとも重要な輸出品であった絹糸を、富岡製糸場に代表される生産地の群馬県から横浜港まで運ぶこと。国策に沿った鉄道なのである。それゆえ、品川―赤羽間を極力、直線かつ急勾配ができないよう建設されている。

起伏が激しい丘陵地を横切ることになったが、費用には糸目をつけず、築堤(恵比寿―渋谷間や高田馬場―目白間など)や切り通し(目白駅付近など)を駆使して、蒸気機関車の大敵である勾配を最大10パーミルに抑えた。


JR目黒駅の東口側には駅ビルアトレを併設(筆者撮影)


本来の目黒への出口として設けられたのは西口(筆者撮影)

目黒駅付近も目黒川沿いに線路を敷いたのでは遠回りになるため、白金台をストレートに横切るルートが取られた。目黒村が鉄道を忌避し反対運動を行ったという説は、裏付ける文献がなく都市伝説の域を出ない。

開業当時は1872年に日本で初めての本格的な鉄道が開業してからすでに10年以上。いつでも汽車見物に出かけられるような場所にある東京近郊の村が、鉄道の絶大な経済的効果を知らないはずがないと考えるほうが自然だ。

国策による鉄道だったからこそ、むしろ買収しにくい集落近くを避け、地元の意向など無視して、早期完成を目指したとしてもおかしくはない。

江戸時代の感覚では「駅近」

今日、目黒駅の所在地は品川区上大崎で、目黒区ではない点が豆知識としてよく披瀝される。目黒村の隣の上大崎村の村域に建設され、そのまま現在まで引き継がれているのだ。

初期の鉄道駅は山手線に限らず、必ずしも駅名と同名の集落に近接した位置に設けられたとは限らなかった。そのあたりも現代の感覚とは違う。原宿、新宿、高田馬場、大塚といった駅も、駅名の由来からかなり離れた場所に設けられたのは、これまで紹介してきたとおり。

江戸時代の感覚が残っていた時代は1里(4km)やそこらまでは十分に徒歩圏内。「駅前のうち」だったのだろう。目黒駅は、たまたま行政区の境が間に引かれたせいで話題となるだけで、目黒村の中心を流れる目黒川沿いまでは、急な坂道ではあるが歩いて十数分。むしろ、昔からの集落に近いとすら言える。


旧目黒村の中央を流れる目黒川と太鼓橋(筆者撮影)


目黒区と品川区の境(筆者撮影)

品川線の駅設置基準は明白で、江戸時代から続く主要道路との交差地点が基本だった。渋谷駅は大山街道、新宿駅は甲州街道と青梅街道、目白駅は清戸道、板橋駅が中山道である。目黒駅も目黒通り(二子街道)と交差する地点にある。古くからにぎわっていた通りだ。


現在の目黒通り(筆者撮影)

ところが品川線が開業した直後の明治20年代の古地図を見ると、現在とは異なる場所に目黒駅があることに気がつく。山手線は目黒―五反田間で首都高速2号目黒線をくぐるが、その少し目黒駅寄りに、徳蔵寺という古地図にもある寺があり、その付近に描かれているのだ。現駅とは500mほど離れている。

目黒駅は移転していた

今は切り通しの中になった目黒駅の西側の脇に、細い道が山手線と並行している。急坂を下ってゆくと、「JR目黒MARCビル」の前にわずかに平坦な区間がある。古地図の記述を信じれば、ここが開業時の目黒駅の跡だ。

そして、現在の目黒駅の場所には、線路予定地を横切っていた水路(三田用水)と目黒通りの下に、120mと短い永峰トンネルが掘削され、線路が通されていた。

旧目黒駅は短命で、開業からわずか5年後の1890年には早くも永峰トンネルの北側へと移された。別の場所で開業した理由は、よくわからない。現在の場所だと勾配を緩め、ホームを設けるために深く広い切り通しにしなければならず、余裕が必要であったが、用地買収がうまくいかなかったのかもしれない。


初代目黒駅跡付近を走る埼京線(筆者撮影)

永峰トンネルは山手線の電車線と貨物線が分離されて、1925年に複々線となった際に崩されて切り通しとなり、現存しない。三田用水はコンクリート製の跨線水路橋に改築され、目黒駅ホームの上を渡したが、これも用水の廃止後に撤去されている。

なお、東急電鉄の前身、目黒蒲田電鉄が目黒―蒲田間を全通させたのは1923年。目黒通りの南側、三田用水をまたぐようにターミナル駅を構えた。


JR東急目黒ビル。この付近を三田用水が流れていた(筆者撮影)

先に開通したのは現在の貨物線

山手線複々線化の際には、電車が走る専用線のほうを増設した。今、恵比寿を出た内回り電車は恵比寿―目黒間にて、埼京線などが走る貨物線を急勾配の線路で越し、反対側へ移る。

力が強い電車専用として建設されたから許されたルートで、品川線としてまず開通したのは、現在の貨物線のほうだとわかる地点の1つだ。目黒駅北側の白金桟道橋の構造からも一目瞭然。現在の山手線をまたぐ部分のほうが勾配の関係で浅く、簡素なデザインなのだ。


山手貨物線の上をまたぎ越す山手線内回り(筆者撮影)


白金桟道橋。現在の山手線が後から増設されたことがよくわかる(筆者撮影)


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(土屋 武之 : 鉄道ジャーナリスト)