今年8月下旬にケニア1部ナイロビ・シティ・スターズとプロ契約を結んだ草場勇斗【写真:本人提供】

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【海外組アウトサイダー】ケニア1部リーグ初のアジア人選手・草場勇斗

 現在では欧州1部リーグを中心に数多くの日本人が活躍し、日本サッカーの進歩を印象づけている。

 その一方で、海外のほかの地域にも目を向ければ独自の道を切り開こうと奮闘する日本人選手たちの姿が。FOOTBALL ZONEではそんなプレーヤーを「海外組アウトサイダー」としてフォーカス。今回はケニア1部初のアジア人としてプレーするFW草場勇斗に同国挑戦の経緯とこれまでの競技人生を訊いた。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・山内亮治)

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「アジア人初のケニア1部リーグでのプレーヤーになりました!!!!!! あの日憧れた姿ではないですが、もがいて、もがいた先に待っていた、ケニアでのこの景色は、僕の宝物です。ケニアだからこそ、たくさんの問題がありますが、それも乗り越えて、この先の新たな景色を見に行きたいです。点取ります」

 日本人ストライカーの草場勇斗は今年8月24日、ケニア1部ナイロビ・シティ・スターズとの契約に漕ぎ着けた喜びを自身のインスタグラムでこう報告した。そこから遡ること4か月あまり前、22歳で踏み切った初の海外挑戦。アフリカに渡ると、直後に待っていたのは41度の高熱や1か月経っても直らない腹痛といった現地の“洗礼”だった。まずはプレーをしないと何も始まらない――。病院で点滴を打ってなんとか立ち上がり、サッカーができる環境づくりに奔走した。

 とはいえ、初めての海外で知り合いなんて1人もいなければ、現地に自分を紹介してくれるエージェントがあるのかさえ分からない。SNSで「日本人 ケニア サッカー」と検索すると、1つのチームが見つかった。現地でエイズ孤児院を運営する「NPOアフリカ児童教育基金の会(ACEF)」が創設した、当時4部所属のFC ZENSHIN。職員に入団を直談判すると、「うちでプロになるまでプレーしてもらっていい」と快く受け入れてもらえた。

 ゼロがイチになった瞬間。同時にそれは草場にとって新たな“もがき”の始まりでもあった。ただ、これまでのサッカー人生は挫折とそれを乗り越えようとする奮闘の連続だったという。

大学の卒業間際に直面した現実

 4歳の頃に兄の影響でサッカーを始めたという草場。「職業としてのプロサッカー選手」を真剣に考えるきっかけは、中学入学後に兵庫県伊丹市のサッカークラブ・伊丹FCで指導者からかけられた「ここから先は小学生が言っている『プロサッカー選手になりたい』とは違う」という一言だった。「持つべき覚悟の意味が違うのかと腑に落ちると同時に、Jリーグやさらにその先の日本代表入りに向けて自分なりの覚悟が決まりました」と当時の思いを振り返る。

 ただその後、高卒でJリーガーになる夢を追いかけ島根県の強豪・立正大学淞南高校サッカー部の門を叩くも自らが“井の中の蛙”だったと思い知る。2学年上だった梅木翼(レノファ山口FC)の活躍を見て、「こんな化け物がいるんや」と衝撃を受けたという。またトップチームに入るも同級生たちとのFWのポジション争いでも遅れを取り、3年生時になってもインターハイや選手権といった檜舞台で先発の座を掴むことはできず。「良い言い方をすれば、立ち位置的に“スーパーサブ”だった」と草場は苦笑いで語るが、全国で目立った成績を残せず、高校の3年間は不完全燃焼に終った。

 卒業後は桃山学院大学に進学。同大サッカー部でプレーを続けるも、プロ入りの糸口を掴めないまま時間だけが過ぎていった。そして4年生になる直前、キャプテン就任が決まっていたものの退部し、当時は関西社会人リーグ2部の所属だったFC EASY 02明石(現FC BASARA HYOGO)へと移籍。「1%でもプロ入りの可能性を高めようと考え抜いた末の決断」だったそうだ。

 そうして背水の陣で社会人リーグに挑み1シーズンを戦い終えたものの、試合に十分に絡めずJリーグ入りや日本代表というハードルの高さを痛感。昨年の大晦日にnote(メディアプラットフォーム)に「日本代表になるという夢をあきらめて、現実を生きます」と綴り、“夢の終わり”を宣言した。人生を懸けて追いかけ続けた目標を失った当時の心境をこう語る。

「大学卒業というタイミングにもかかわらず自分はプロになれそうにない一方で、Jリーガーになる選手もいる。それだけでなく、周りは就職活動を経て社会人になる。『これが現実か』と悲しさを覚えると同時に、こんな状態でも本当に自分はプロ入りという夢を追い続ける覚悟はあるのかと考えずにはいられませんでしたね」

「心のどこかでサッカーの“辞め時”を探していたんです」

 そんな大きな目標を失い喪失感を抱えるなかで、草場は南米アルゼンチンでの挑戦を決意する。しかし、前向きな思いで下した決断ではなかった。

「心のどこかでサッカーの“辞め時”を探していたんです。周りにずっとJリーガーや日本代表を目指すと大きなことを言い続け、社会人サッカーまで挑んだものの上手くいかず……。そんな状態のままサッカーを辞めてしまうことは怖かった。だから、最後は誰が見ても大きな挑戦をした末にキャリアが終われば結果オーライなんじゃないかなって」

 そんなサッカー選手としての死に場所を探していたなか、あることをきっかけにアフリカという選択肢が思い浮かんだ。そして、そのアイデアに憧れの存在が重なった。

「僕はずっと本田圭佑選手から大きな影響を受けてきました。途上国支援をしてきた人物ということもあり、もし自分がアフリカでプロになればサッカー選手の夢だけでなく彼のような社会課題に取り組むアスリート像も叶えられると思ったんです」

 そうして、日本人サッカー選手がいなかったことやアフリカ屈指の経済発展を遂げるポテンシャルに惹かれケニア行きを選択。とはいえ、新たな挑戦は一筋縄では行かず。草場は「今でこそ笑い話ですが」と切り出したうえで、両親からの“猛反対”があったことを明かした。

「絶縁されるんじゃないかってくらい反対されましたね。話し合いをしても平行線を辿るばかりで埒(らち)が明かないと感じたので、家出することにしました。22歳なのに(笑)。荷物をまとめて知り合いの家に転がり込み、1か月ほど出国に向けて準備をしていたある日、両親が自分を見かねてか電話をかけてきてました。そこで僕の意志の固さを理解してくれると同時に、さすがに絶縁だけはしたくないからとケニア行きを認めてくれたんです。今でこそ2人は僕がケニアでプロになれたこと喜んでくれていますよ。また、いろいろと心配や苦労をかけましたが、健康に産んでくれて、愛情を持って育ててくれたことを本当に感謝しています」

ケニアで広がった“サッカー選手になること”の選択肢

 ケニアに渡ってからは夢に邁進。最初の所属先であるFC ZENSHINでは、ゴールへの積極的な姿勢やオフザボールの動きを持ち味に公式戦11試合8ゴールの成績を残した。とはいえ、身体の面だけではなくプレー環境そのものにも苦労が絶えなかったそうだ。

「砂利の駐車場みたいなピッチで試合をすることになった時はびっくりしました。『これ、デスマッチちゃうか』って。こけた選手は血だらけになるんですよ。またピッチだけでなく、八百長とも思える審判の理不尽な判定とも戦わなければいけませんでした。日本では考えられないことばかりなので、キツかったですね」

 そんな環境に慣れながらも、ケニア初となるシーズンを終えた直後には1部でのプロを目指して現所属先の練習に参加。そこでのプレーが関係者の目に留まり見事契約を勝ち取った。

 日本ではプロ入りの夢に破れた一方で、遠いアフリカの地では叶えた草場。「今ならプロに憧れた“あの日の自分”にどのような言葉をかけられるか?」と尋ねてみた。

「今でこそ海外でプレーする選択肢は当たり前になりつつありますが、日本で生まれ育つと国内プロリーグでの活躍が一番の目標というか、固定概念のようになります。ただ、ケニアでプロになっている僕のような自分にしかない選択肢もあるわけで。かつての自分には『サッカー選手をもっと広い意味で捉えていいんだよ』と伝えてあげたいですね」

 今後の最大の目標を「ケニア1部からJ1行き」と草場は語るが、現在のところ登録の関係で試合に出場できないままでいる。それでも「この先のストーリーは自分にしか描けない」と胸を張る男の挑戦は、間違いなく前へと力強く進んでいくことだろう。

(文中敬称略)

[プロフィール]
草場勇斗(くさば・ゆうと)/2001年1月17日生まれ、大阪府出身。ポジションはFWで、ゴール前でのシュートやクロスボールへの入り込みを持ち味とする。伊丹FC、立正大学淞南高校、桃山学院大学、FC EASY 02明石を経て、2023年4月よりケニアでのプレーに挑戦。FC ZENSHIN(4部)でのプレー後、同年8月に練習参加を経て1部ナイロビ・シティ・スターズとの契約を結んだ。(FOOTBALL ZONE編集部・山内亮治 / Ryoji Yamauchi)