秀吉との天下を争う大戦で、家康と家臣団はどう戦うのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第31回「史上最大の決戦」では、兵を10万にまで膨れ上がらせた秀吉に、家康がどう立ち向かっていくかを決めて戦を始める過程が描かれました。第32回「小牧長久手の激闘」では、秀吉と家康が天下を二分した最大の戦が描かれます。この小牧長久手の戦いについて『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

信長と信長の長男・信忠を失った織田家の後継者は、清洲会議にて、信忠の嫡男である3歳の三法師に決まりました。幼い三法師の後見人となったのが、信長の次男・信雄と三男・信孝です。三法師は安土、信雄は織田家発祥の地である尾張を引き継ぎ、信孝は信長が長らく本拠地とした美濃を手に入れました。

ここで意外なことが起きます。

信孝が岐阜城に三法師を抱え込んだのです。信孝は織田家の権力を握るために三法師を手元に置き続けます。その背後には織田家筆頭家老である柴田勝家がいました。

信雄と通じていた秀吉の奇策

このことに危機感を抱いた秀吉は、奇策に打って出ます。

清洲会議の取り決めを破棄し、気脈を通じていた信雄を暫定の織田家当主とし主従関係を結んだのです。さらに、秀吉・信雄は、この決定をより正当化すべく織田家最大の同盟者である徳川家康を味方につけます。このことは信孝・勝家陣営に大きく響きました。

結局、勝家は賤ヶ岳の戦いで敗れて自害し、信孝も信雄によって自害に追い込まれました。家康が信雄を後継者として認めた理由は定かではありませんが、甲斐・信濃・上野を巡る問題(天正壬午の乱)で、信雄が家康の甲斐・信濃の領有権を認めたことも要因であると思われます。

信孝が自害したことで、信雄は晴れて織田家の盟主として三法師とともに安土城に入ったものの、『どうする家康』第31回「史上最大の決戦」でも描かれていたように、すぐに秀吉によって安土城を退去させられました。

このころ秀吉は大坂城を築城し、その実力をもって事実上の天下人として振る舞い始めます。信雄にしてみれば、秀吉とは主従関係を結んでおり、家臣であるはずの秀吉が自分に命令することに反発を覚えるようになりました。

秀吉は、信雄本人ではなく、その家臣団を掌握することでこの信雄の反発を抑えようとします。津川義冬、岡田重孝、浅井長時ら重臣は秀吉に懐柔され、秀吉に臣従するように信雄を説得しようとしますが、信雄はこの3人を謀殺してしまいました。

若い頃から意にそぐわない者はすぐに殺してきた信雄らしい行動でした。もちろん秀吉はこれに激怒し、信雄を反逆の意図あり(建前上は三法師に対する)として討伐を決定します。信雄はこれに対応すべく家康に助けを求め、家康は秀吉に対して挙兵を決めました。

なぜ家康は秀吉との不利な戦いを始めたのか

この家康の決断にはさまざまな理由がありますが、まず挙げられるのは、一度秀吉は信雄を主君と仰ぎ、家康もこれを認めた経緯からいっても反逆者は秀吉であり、道理としては秀吉に非があるという考え。次に、ここで秀吉を叩いておかないと、いずれ徳川にも災いが降りかかるという自衛の考え。さらには「今なら勝機がある」と家康が考えたことにあると思われます。

家康は信雄と違い、外交能力も優れていました。紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らと連携して秀吉包囲網を形成します。秀吉の勢力圏を囲むような形のこの包囲網は脅威を与えるに十分でしたが、思わぬところからほころびが生じました。

この包囲網の要の一人であった織田家宿老の池田恒興が突如、秀吉側に走り、重要な攻撃拠点の一つだった犬山城を占拠してしまったのです。このため、家康は急遽、清洲城から小牧山城に軍を進めることになりました。

恒興は、秀吉とともに信孝・勝家に対抗するため信雄に臣従を誓っていました。信雄は恒興が信長の側近だったことからも秀吉にくみすることはないと考えていたようですが、秀吉は恒興に尾張一国を与えるという好条件を提示するなどで、陣営に引き込むことに成功します。

家康としては、恒興が秀吉側についてしまったことは計算外でした。

予想以上に開戦が早まることになったのです。

恒興は功を急ぎ、森長可とともに小牧山城への攻勢に出ようとします。家康はこれを迎撃することに成功しましたが(羽黒の戦い)、秀吉自らが3万の兵を率いて小牧山に目がけて進軍を開始。

こうして、秀吉包囲網を張り戦線を長引かせるという家康の目論みは崩れます。しかし、したたかな家康は、秀吉が着陣すると陣を固めて攻勢を控え、持久戦の構えを取りました。計算外の出来事に直面しても、的確に計画を戻すことに成功したのです。

秀吉にも操れなかった池田恒興

一方、この池田恒興の存在は秀吉にも誤算を与えました。恒興は、家康に敗れた羽黒の戦いでの汚名を晴らすべく、家康の本拠地である三河を奇襲する作戦を提案します。これは「中入り」と呼ばれる、成功確率が低く難易度の高い奇襲作戦です。

秀吉は、家康の野戦における直観力と判断能力の高さを知っていました。姉川の戦い、長篠の戦いでの夜襲など、徳川軍の機動性と練度の高さ、兵の精強さを考えると、恒興の能力ではとても成功しそうにありません。しかしながら、この時期の秀吉は、彼を取り巻く諸将の盟主であっても主君ではなく、まして最近、味方になったばかりの恒興の提案。秀吉は拒絶しにくい状況にあったのです。

秀吉は、恒興に対する不安を奇襲部隊の増強によって補おうと考えます。甥の羽柴秀次を主将とし、なんと2万もの兵をこの作戦に割きます。圧倒的な兵力で、予想される家康の反撃を防ごうとしたのでしょう。

しかし、これだけの大軍を動かしては、徳川方の諜報網にあっという間に引っかかってしまいます。家康はすばやく軍を動かし、奇襲する羽柴別働隊に対して奇襲を掛けるという作戦を取ります。

かつて、同様の作戦で家康は手酷い敗北を味わったことがあります。それは武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いです。このとき信玄は、家康をおびき出すために浜松城をあえて素通りして三河に攻め込む姿勢を見せ、その背後を奇襲しようとした徳川軍を待ち伏せして打ちのめしました。信玄は、家康の手を読みきっていたのです。

今回も形としては三方ヶ原のケースと似ています。

それゆえ、家康は自軍の動きを相手に察知されないように機動します。大軍の羽柴別働隊の背後からの奇襲に成功し、まず秀次本軍を壊滅させました。羽柴軍の迂闊さは、この徳川軍の襲撃に対応できないばかりか、徳川軍来襲の情報を前方の池田・森隊に知らせるのも遅れたところにあらわれています。

結果的に池田・森隊は対応が遅れ、池田恒興、森長可の両将までも討ち取られてしまいました。つまり家康・信雄軍の大勝利です。家康は三方ヶ原の経験を、この大一番で活かしました。同じ策を取りながら大成功を収めたのです。


数々の激戦を乗り越えた徳川軍を無力化する策略が、秀吉にはありました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

秀吉の戦略と信雄の愚かな判断

この敗北は秀吉に大きな衝撃を与えますが、兵力で勝る羽柴方はすぐに体制を整えます。秀吉は小幡城に入った家康・信雄軍を襲撃しようとしますが、家康はすぐに小幡城を出て小牧山城に戻り、守りを固めました。ここで再び両軍は膠着状態となります。

秀吉は、家康・信雄との直接対決での決着を諦め、秀吉包囲網の打破に取り掛かります。しかし、これもなかなか上手くはいきません。秀吉は、ここで信雄に狙いを定めます。信雄の本拠地である伊勢に戦力を集中させました。


九鬼嘉隆、秋山直国を裏切らせ、信雄が殺した3人の重臣たちの一族に反乱を起こさせ、さらには羽柴秀長、蒲生氏郷、藤堂高虎らに攻め込ませました。これに慌てた信雄は、伊勢と伊賀の半分を割譲することで秀吉と講和をします。

愚かなことに、この重要な決定を家康に何の相談もなく勝手に決めてしまったのです。

秀吉は信雄の身勝手な性格を利用し、秀吉包囲網を瓦解させることに成功しました。信雄が秀吉と講和してしまうと、家康が秀吉と争う理由はなくなり、秀吉包囲網の中核が消えてしまいます。

この結果、紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政らは各個撃破され、秀吉の天下は盤石となっていくのです。ある意味、織田信雄こそ秀吉の天下統一の最大の功労者といえるかもしれません。

そして家康にとって秀吉は、もはや抗しがたい脅威となったのです。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)