1995年ミャンマーに単身で入り、人口32万人の地域で医療活動を始めた吉岡秀人氏(写真:NHK番組「最後の講義」)

1995年ミャンマーに単身で入り、人口32万人の地域で、わずか1人の医師として医療活動を始めた吉岡秀人氏。それから25年以上活動を続け、いまでは海外で医療支援ができるスキームを作り、途上国で子どもたちを救い続けています。途上国での医療は決して簡単な道のりではありませんでした。NHKBS1・NHK総合の人気番組「『最後の講義』医師 吉岡秀人」の未放映分も収録した『最後の講義 完全版 吉岡秀人 人のために生きることは自分のために生きること』を一部抜粋し再構成のうえ、本稿では吉岡氏が医師になったきっかけについてご紹介します。

(※吉岡医師の「吉」の字は正しくはツチヨシ)

戦争を引きずっている人たちがいた時代

僕は30歳の時、ミャンマーという国にたった一人で行きました。お金、握りしめて。当時、軍事政権でした。1995年の話ですね。軍事政権かどうかも、行くまでよく知らなかったんです。

国際送金はできませんから、手持ちでお金は持って入らないといけない。次のお金が届くまで、誰かが肉体と一緒に持ち込まないといけないっていう、そんなところに。

僕は1965年生まれです。僕が生まれた頃って、第二次世界大戦終わって20年目じゃないですか。生まれる20年前には、日本って毎日、爆弾が降ってたんですね。大阪の吹田市っていうところで生まれたんですが、吹田市には毎日毎日、爆弾が降ってたわけです。

僕が小さい頃には、アメリカがベトナム戦争をしてた。ベトナムで爆撃をしてたし、それから数年後、カンボジアではポル・ポト政権っていうのが出て、国民の4分の1ぐらい殺したと言われていますね。

僕が生まれた頃、中国は文革が始まった頃ですから。僕がまだ大学生の頃まではですね、韓国だって軍事政権ですよ。韓国の大統領って軍服着てたんですよ。今の韓国から想像できないですね。

世界は真っ二つに割れて、東西冷戦していて、ドイツは東ドイツと西ドイツ、まだ二つだったんです。しかも国境線をまたいで核兵器が向かい合っていた時代。それが僕が生まれ育った時代なんですね。

戦争の状況下にある人とか、あるいは、まだまだ経済が貧しくて苦しかった人たちがたくさんいて。そういう人たちのことを、映像とか新聞とか、そういうものを通して僕は知ることになるんですね。

子どもの頃の話をちょっとすると、吹田市のJRの駅、昔は日本国有鉄道だったんで国鉄の駅ですけど、降りると暗い地下道に出たんですよ。

その地下道、昔のことだから、もうじめじめして薄暗くて、豆球みたいなのが灯ってるだけですよ。雨が降ると流れ込んできて、水びたしになって、くるぶしぐらいまで水につかるような。そんな地下道を改札出て50メートルぐらい歩くと、外に出られたんですね。

この地下道の両脇に、何人もの物乞いの人が座ってたんです。ござ敷いて、缶々を置いてですよ。この人たちがみんな軍服着てた。傷痍軍人の人たちだったんです。で、手足がなかった。そして夜、暗くなると、杖をカッタンカッタンついて、みんな帰っていくんですね。

僕が小さな子どもだった当時、体にそういう障害がある人って、あんまり人前に出てこなかったんですよ。道もよくないし、車椅子もまだ十分いいのがそんなにたくさんあるわけじゃないでしょ。それで、自分の中ではすごく印象深く残ってるんだと思うんです。

その同じ頃ですよ。同じ町で、日本万国博覧会が開かれてたんです。世界中からすごい数の人が来て、日本中からも人が集まって、お祭り騒ぎやっている。その同じ町の駅の前で、25年前に終わった戦争を引きずって生きている人たちがまだいた。これが僕が生きてきた時代背景なんですよ。

わずかな時空のずれが運命を翻弄する

そんな中、ある時ですね、中学生ぐらいだったと思うんですけど、気づいたことがありまして。

「人間っていうのは、わずかな時間と空間のずれで、これほど運命が変わるんだ」と。わずかな時空のずれが、人の運命をこれほど翻弄するんだって思ったんですね。そして「なんと自分は幸運の星の下に生まれてきたんだろう」と。

20年前に生まれてたら毎日、爆撃の危険にさらされてたんですよ。わずか飛行機で1〜2時間の距離にある国で生まれてたら、軍事政権であったり、やはり飢餓であったり、いろんなことに巻き込まれてたと。

たった1〜2時間の距離、20年という時間の差が、僕の今を保証してくれていたんですね。それは僕の力じゃない。わずかな、本当に偶然だったかもしれないですね。

そのことに、はたと気がついた時、なんかもったいないなと思ったんです。こんないい時代に、こんな安全な場所に生まれてきて、こんな生き方してたらもったいないと思い始めたんですね。だけどまあ、人間だから、そう思ってもまたサボるんですよね。

皆さんの中にも、なんか目標がないとか、これからどうやっていったらいいかわからないと思ってる人たち、たくさんいるんじゃないですか。僕も同じですね。もったいないと思っても、何も変わらないんです。で、自分の中にどんな能力が眠っているとか、何ができるとか、まったくわからない。ただ毎日をそれとなく生きていただけだったんですね。

高校生の時は全然勉強してなかったんです。ちょっと言うのが恥ずかしいぐらいなんですけど。高校では1年に1回だけ進路指導があるんですよ。親と2人で面談行くんですけど、担任の教師が、僕は就職すると思ってたんですね。

それで、受験の資料を用意してなかったんです。なので、僕が大学受けるよって言ったら、1週間後に再度面談になったっていうぐらいのレベル。で、めでたく浪人。

僕は予備校へ入るのもギリギリで、予備校の試験、5回落ちまして。最後の試験が3月30日で、これで受かったんですよ。ようやく4月の初めの入学に間に合ったぐらいのレベルだったんです。僕が予備校に受かった時、同級生たちから「きっとお前の合格点は、1回目から5回目までの合計点だ」って言われたぐらい、勉強してなかったんですよ。

1浪目の途中、ある時、友だちの家へ遊びに行ったんですね。その彼が頭よかったんです。自分は京都大学へ行くと言っていて。僕は勉強全然しないから、もちろん文系ですよ。理科のことなんかまったくわからないし、数学も全然わかんないから。

その彼の家で受験生用の偏差値表みたいなのを、たまたまパラパラ見ていて。彼は医学部のところにピピッと印つけてたんですよね。そこをパタッと開いた時に、「俺でも行けるかもしれない」「俺、医学部行こうかな」って思ったんですよ。いや、本当に見た瞬間にですよ。

うちの親はね、浪人すると、ちょっと精神的におかしくなる子がいるって、いろんなところから吹き込まれてたんで、僕が「医学部へ行く」って言ったらですね、「とうとうきた」と思ったんでしょうね。

友だち2人呼んでお金渡して、「息子がちょっとおかしくなった。これでごはん食べに連れていって、説得してくれ」と。僕は友だち2人に中華料理屋に連れていかれて、2時間ほどごはん食べながら説教されたんです。

でも僕は意思がかたくて。まあ、駆け落ちするカップルみたいなもんですね。追い込まれるとますます頑なになるっていうやつです。偏差値表のページめくった瞬間の、「医学部行きたい」っていうより「医学部へ行ける」って思った感覚っていうのは、とても不思議な感覚ですね。今でも、なぜ思ったかわからない。

でも、そう思った時、自分の中で、子どもの時からの、さっき言ったような情勢のこととか、社会のいろんな難しい問題とか、自分の境遇とかがスパッと重なったんです。「医者になれば、そういう人たちのために働ける」と思ったんですよ。

当時、インターネットも何もないでしょ。世界中で、どこで誰が何をしてるかもまったくわからなかったんですよ。だけど医者になれば、できるじゃないですか。たった一人で出かけていっても。だから、僕の中で一直線につながったんだと思うんですね。

医学部へ行く決断と「感性の声」

そして医学部へ行くっていうふうに決断したんですけど、なんせ一番苦労したのは机に座れなかったこと。子どもの時からADHDって言われてて。小学校の時、母親とか父親が参観日に来ると、「お前はなんでいつも動いてるんだ」とか「なんで机をガタガタさせてるんだ」とかって怒られて。

当時ね、そういう概念が日本にはなかったから、怒られ続けた子ども時代だったんですね。小学校の通信簿には必ず「落ち着きがない」って書かれてたんですよね。

ようやく座れるようになったのが、1浪目の冬ぐらいだったんですね。医学部行くっていっても、まあ、もちろん全然だめですよね。で、2浪するわけです。今度は4回ぐらいで予備校の理系の学科に通りました。

最初の模擬試験は、今でも覚えてるんですけど、英語と数学と国語だけだったんですよ。これが偏差値33、35、38。3つとも30台。そこからのスタートですね。

今になってみれば、なんて言うか、うーん、何でもなかった、普通に生きてたっていうか、勉強もせずダラダラ生きてた一人の人間が、なんかこうカチッとはまり込んだような体験を得て、ここまでたどり着いたという形だと思いますね。

皆さんもきっと、そういう体験を持つことはできるんだろうと思います。それは何か、僕にはわからないですが。皆さんの人生、それぞれだから。

心の声、感性の声を聴く

僕がよくみんなに言うのはね、僕がそう感じたような心の声、感性の声と言っているんですけど、それを聴いたほうがいいよって。今日話すストーリーの中でも、この受験の話だけじゃなくて、僕が感性の声を聴いたような体験は、出てくるとは思うんですけど。

感性の声ってどんな声かと言うと、僕はこういうふうに思ってるんですね。理性の声ってあるじゃないですか。理性の声は、すごく単純化して、乱暴に言うと左脳の声。で、感性の声っていうのが、僕は全脳の声だと思ってる。


それは、僕が生まれた時からずっと、いろんな体験とか知識とかを得て、それを自分の中に積み上げたすべての情報を僕の脳が処理して、そして一瞬に出した答えだと思ってるんです。

だから理性的な声じゃないんですけど、その声に従ってきたっていうのが、僕の人生だったと思っています。そして、これは僕の体験からしか言えませんが、理性の声にずーっと従って生きるより、感性の声に従い続けて生きてきて、僕の人生は、はるかに豊かになったと思っています。

感性の声を聴いて、そのとおりに行動する。そのとおり生きていくことが、その時、皆さんが出会う困難を解決できるかどうかはわからないです。でも、少なくとも僕はこう思ってるんです。それが今、自分に出せるベストの答えだ、というふうに。

この声を信じられるかどうかって、すごく大切だと思ってて。なぜかと言うと、この声は僕の人生の中で一番最後の声じゃないですか。要するに、今の声なんですね。そして、僕の全力で出した答えを、今、信じられなかったら、未来も信じられないだろうなと。

最後の自分が出している答えだから、それは今の答えですね。今を信じられない人に、未来なんか開くことはできないから。それを信じ続ける人間には、おそらく未来が開けていくんだろうな、というふうには思っています。

(吉岡 秀人 : 特定非営利活動法人ジャパンハート最高顧問、小児外科医)