青木さやかが「親にも娘にも伝えなかった」肺がんの手術後、封印した“ひと言”とは
タレントの青木さやかさんが今年5月、母親との長年にわたる確執などについて綴った『母』(中央公論新社)を出版しました。そこで明かされたのは、青木さんが肺がんを患い、手術を受けていたこと。仕事と育児をしながら、どのようにがんを乗り越えたのか。YouTube『たかまつななチャンネル』で聞きました。
【写真】多くの苦しみを経験しつつも、青木さやかの表情はこんなにも晴れやかに!
「がんの告知」は驚くほど軽かった
――今回、本を出されて、その内容がめちゃくちゃ素敵でした。青木さん、実は肺がんだったと。
青木:肺がんのひとつである『肺腺がん』でした。きっかけは、先輩に誘われて受けた人間ドック。「肺に小さな影があります。大きくなっていくようなら、がんの可能性が高いので、様子を見ましょう」と。結局、5年くらい前に影が大きくなったんです。再検査のあと、診察室に呼ばれて入ったら、先生がこっちも見ないで「ああ、これ、がんですね。どうします?」っていう感じ。軽いでしょ?
――そんな軽い感じで告知されるんですか。
青木:家族が呼ばれて(緊張感の中で伝えられる)というイメージだったけれども、全然違いました。思わず「軽いですね」って言いましたよ。「私、死ぬんでしょうか?」って聞いたら「死ねない、死ねない。頑張っても死ねないよ」と先生はおっしゃって。がんの告知をされるのは、私たちからすると非日常じゃないですか。でも、先生からすると日常的なことなんですね。でも、軽く言われたことで、そのときはあまり深刻にならずに済んだのかもしれないです。
――(頑張っても死ねない、とまで言われるということは)早期に発見できたってことなんですね。
青木:「これがどんどん大きくなってしまうと命を脅かすものになるから、今のうちに取っておいたらどうですか」と言われて、手術をすることにしました。
――自分ががんと聞いて、どう思いましたか?
青木:がんだとわかってから、怖くて1回だけ車の中ですごく泣きました。それきり泣いていないけれど、とにかく怖かった。病室にいるときもすごく怖かった。怖くて怖くて、押しつぶされそうになりました。
――周囲の人には伝えたんですか?
青木:病院から出てすぐに、会社に連絡をしました。ちょうど舞台が入っていたので「舞台が終わったら手術をしたいから、その時期は休ませてほしいです」と伝えました。うちは私と娘の2人暮らしなので、娘の学校にも連絡して、しばらくは娘の父親の家から学校に通うことと、父親が無理なときは、ママ友の家から通わせると担任の先生に伝えました。それから、数人のママ友と保険会社にも連絡した。
娘はまだ小学2年生だったので、がんのことは言いませんでしたが、いずれは伝えようと思っていました。私の親には伝えるつもりがありませんでした。当時は仲がいいというわけではなかったけれども、なぜだか心配は絶対にかけたくなかったので。
――がんのことを周りの人に伝えたときの反応はどうでしたか?
青木:「そうなんだね」って、あえて流してくれる人もいたし、すごく心配してくれる人もいたし、「私もがんだったんだよ、実は」っていう人もいました。そのなかで「私もがんだったのよ。でも大丈夫、絶対に治るから。だから安心しなさい」と言う人がいたんですけど、すごく違和感を覚えたんですよね。
私は「自分ががんだったから、がんの人の気持ちがわかる」ということはないと思っていて。性格も状況も環境も、何もかも違うなかで、同じ病気になったからといって、同じようなことを思い、望むかというと違うと思うので。大丈夫という言葉は、受け入れられなかったですね。
――励まそうとしてくれたのかもしれないですけどね。
青木:結局、誰に何を言われても安心につながらなかったのは、こちらに余裕がないからですよ。自分がいっぱいいっぱいだと、ちょっと嫌なことを言われただけでも、すぐにへこんだり対立したりするけれども、余裕さえあれば全部、受け入れられるでしょ。病気になって余裕がないから相手を受け入れられない状況になってしまった、という感じです。
――手術は大変でしたか?
青木:人によると思うんですけど、私の場合、手術自体は4、5時間だったかな。前日に入院して、肺にカメラを入れて、どこを切り取るかをお医者さんがチェックする。当日は手術室に入って、麻酔をして寝ている状態なので、全然覚えていないです。起きたらICU(集中治療室)にいるっていう感じ。
麻酔薬のせいか、吐き気と熱でつらかったです。2、3日は起きることができなかったんですけど、しばらくすると歩けるようになりました。1週間くらい入院していましたね。
「でも」という言葉がストレスの原因に
――がんになって何がつらかったですか?
青木:生活面で特につらいのは、仕事ができない時期があることですね。娘がいるし、家賃やいろいろな維持費もあるし、金銭的なことをすごく考えました。しかも、どれくらいで仕事に戻ってこられるかわからない。同じパフォーマンスができるのかもすごく心配。舞台とかドラマとか、今後の仕事を入れるかどうかを自分で判断しなければならないストレスがありました。
――がんの恐怖をどうやって乗り越えたんですか?
青木:乗り越えるというか、つらいな、つらいな、怖いな、つらいな、苦しいな……と思いながら、ずっと暮らしていた感じでしたよ。遊んでいても何も楽しくなかったし、気を紛らわせるということも、私にとってはすごく難しかったですね。ネットで検索して出てくる、同じ病気の方の闘病記なども、私を励ましてくれるものではなかった。
けれど「がんは怖い」とか「がんになったらこうだ」みたいな固定観念を、できるだけなくそうと努力しました。友人の武司さんに言われて印象的だったのが「いろんな人の話を“はい、わかりました”って素直に聞いていたら楽になるよ」というひと言で。ちょっとやってみようかなと思って、そこからすごく変わりました。たとえ私の意見のほうが正しいと思っても、「でも」という言葉を使わなくなりました。
――「でも」って、めちゃくちゃ使ってしまいます。
青木:「でも」って言うと、続けて自分の意見を言わなければならないし、(時には)人と対立することになって、それが大変なストレスだったと今は思います。逆に「はい、わかりました」と言うようになってからは、人間関係のストレスはほとんどなくなりました。相手の思い通りに動くことになるので、すべてうまくいくような気がしています。
――「わかりました」と発したことによって、(例えば、仕事で作りあげるものなどが)自分が思っていたよりクオリティが低かったとしても、それは受け入れられるんですか?
青木:私のこだわりなんて、すごくちっぽけだと思うようになりました。結果的に、自分のこだわりを捨てて完成した作品のクオリティが下がったかというと、下がっていない気がする。こだわりを持って誰かと対立していたことがストレスになって、病気の原因のひとつになっていたかもしれないと思います。
どう生きていくかを考えさせられた
――闘病を経て、心境の変化はありましたか?
青木:病院では4人部屋にいたんですけど、そこで私よりも状態が悪くて大変なはずの人が、どう人と接しているかとか、毎日の生き方を見て、とても勉強になったんですよ。ある女性は、大変な状況にも関わらず、すごく丁寧に暮らしていました。いつも髪をとかしていた。薄く化粧もしていた。先生や看護師さんたちに、いちばんに感謝を伝えていた。私のことも心配してくれた。苦しい顔を見せなかった。そういう人を見ていると、この先の人生をどう生きていくかを考えさせられました。
――周りのサポートでうれしかったことはありますか?
青木:退院後の数日は、もうナースコールもないし、ひとりで動かなければいけないので身体がつらくて大変でした。そのときに、友達が自宅の玄関前まで来て、(ドアノブに)かけておいてくれたおかずやスーパーのお惣菜はありがたかったです。
――私も含めてですけれど、若い人の中には、がんに対して危機意識がない人もいると思います。何か伝えたいことはありますか?
青木:私はがんで苦しんだっていうよりも、病気によっていろいろなものを見せてもらったし、病気に教えてもらうことが多かったと思います。同室の女性や看護師さんたちから、惜しみない優しさをもらって「この看護師さんが来ると不思議と痛みが減るんだよな」ということも経験しました。だから、結局は人と人なんじゃないかと思っていて。がんにならないように生きるというよりは、毎日ベストを尽くして楽しむことが大事なのかなと思います。
――最後に、がんで悩んでいる人にメッセージをいただきたいです。
青木:私は、自分ががんだからといって、がんの人の気持ちがわかるとは思っていなくて。今、がんになっている人の気持ちは本人じゃないとわからないと思うから、実は何も言うことはなくて。私の場合は、「毎日忙しく、楽しく生きていれば、それが明日をつくる」と思ってやっている、という感じです。
――ありがとうございます。青木さんの『母』という新著、病気になって、お母様に対してどう感じたかということなども書かれていますが、家族関係で悩まれている方も多いと思うので、読むとヒントになると思います。ありがとうございました。
(取材・文/お笑いジャーナリスト・たかまつなな)