紀元2065年の世界を描いた未来SF『新未来記』(出所:国立国会図書館)

2018年は明治150年の節目。その年は「慶応4年」として始まり、9月に「明治」に改元、江戸が7月に東京と名を変え、新旧が混在する不思議な年だった。1カ月1章で、戦争や市民の生活を描き、毎日のお天気まで入れた『1868 明治が始まった年への旅』(時事通信社)から、明治元年の意外な真実を紹介しよう。
(注)年齢はすべて数え年です

パリで日本語新聞が刊行された

1868年6月、「パリで日本語の新聞が発行された」ことが日本の新聞の記事で紹介されました。「よのうはさ」というタイトルです。発刊したのはレオン・ド・ロニーというフランス人で、日本を訪問したことはありませんが、日本語が自在。福沢諭吉が訪欧した時も接触し、「ロシアの軍艦が対馬を奪ったというが本当?」などと質問します。福沢が否定すると、そのことをすぐパリの新聞で紹介する。その行動力はすごい。

「よのうはさ」の「発行の趣旨」で、ロニーは「日本人は利発で、アジアの他の国はこれに及ばない」としたうえ、知恵を磨かなければ「下和のあら玉と同じ」、他国のまねばかりでは「くぐまりゆく」……。独特な(?)日本語も交えて、熱く説いています。

「戦争の時、敵味方の区別なくけが人を介抱する赤十字が、スイスで生まれヨーロッパに広がっている」「カラー写真が研究されているが、暗いところに置かないと色が消えてしまう。工夫をして青は色が残るようになった」などの最新ニュースが載っています。購読料は年間30号で「三両一朱」。送金すれば船便で届けるとPRしています。日本人にパリ発の情報をいち早く伝えようとしていたようです。

残念ながらこの新聞は1号限りで終わってしまいましたが、『明治のジャーナリズム精神』(秋山勇造著)は、ロニーと交わった福沢、福地源一郎、栗本鋤雲、成島柳北といった旧幕臣がのちに『時事新報』『東京日日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』を主宰し、日本のジャーナリズムの先導者になったことをとらえ、「因縁ともいうべきものが感じられる」と書いています。

アメリカの南北戦争は明治元年の3年前に終わっています。海の向こうの戦争は1868年の日本にさまざまな影響を及ぼします。

南北戦争で米南部の綿花畑は荒れ果て、世界は「綿花飢饉(ききん)」に陥ります。代用の綿を求めたヨーロッパの紡績業界へ向け、中国やインドの綿が大量に輸出され、アジアでも有数な綿花栽培を誇っていた日本が注目されました。

流転の最強軍艦

一方で、南北戦争で改良された銃や火薬が、戦乱の日本に流入します。明治維新の牽引役となる薩摩藩をはじめとした国内の諸勢力は「綿を売って武器を買った」ことになります。


「明治初年の東京城」(出典:『遷都50年史』/国立国会図書館)

軍備の最大の目玉は南軍がフランスに発注した最強軍艦「ストーンウォール」でした。フランスから納入された時には南北戦争も終わっており不要に。それを幕府が購入し、この年の4月に横浜に入港しました。幕府はこの時すでに大政奉還を終え瓦解しています。軍艦が旧幕府・新政府のいずれの手に渡るかは戊辰戦争の戦況に大きな影響を及ぼす重大問題でした。

各国の公使はこの時、どちらにも味方しない「局外中立」の立場をとっており、結局、最強軍艦は引き渡しが凍結され、塩漬けにされます。

東北、北越の各藩には、皇族の輪王寺宮能久(りんのうじのみやよしひさ)親王を「東武皇帝」に見立てた「北部連邦政府」の構想もありました。当時のアメリカ公使は奥州での戦いを「日本版南北戦争」と位置付けています。戊辰戦争と南北戦争は何かと縁があるようです。

兵器輸入では、外国の武器商人も暗躍します。この年5月、プロイセン出身のヘンリー・スネルが会津若松に屋敷を持ち「平松武兵衛」を名乗ります。会津藩の軍事顧問。縮れた髪を後ろに束ねて月代(さかやき)をそり、羽織袴(はかま)。腰に大小、ピストルもぶら下げていました。碧眼(へきがん)の武士は実戦にも参加しています。

戊辰戦争後の明治2(1869)年、スネルは旧会津藩を中心とした日本人を連れ渡米。アメリカのカリフォルニアに「アズ(会津)ランチ(牧場)」をつくりますが、事業は失敗し、日本人を残してふっつりと失踪しました。

武器商人も軍艦同様、激動する時代の中で流転しました。

この年の閏(うるう)4月、新聞に「200年後の世界を描いた書が翻訳刊行される」という記事が載りました。オランダの科学者、ピーター・ハーティング著のSF『紀元2065年 及び未来の瞥見(べっけん)』。訳したのは近藤真琴。蘭学塾を経営していました。

主人公は、見慣れない都市に立っています。高い塔の上には「紀元2065年1月1日」と書いてあります。

ネット社会を予言したようなくだりも

電信電話が発達し、地球上は十重、二十重にクモの巣のように「索(なわ)」がひかれています。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ……。どこの新聞でも、瞬く間に知ることができる……。こんなネット社会を予言したようなくだりもあります。

都市はガラスのドームで覆われ、冷暖房完備。複数の人工太陽でいつも街は明るい。石炭採掘量が減ったので「電化」しています。「旅の言葉」という万国共通語が使われ、戦争はなくなっています。軍人は舞台の上でしか見られません。

翻訳者の近藤が、各章末にコメントを書いていますが、軍備撤廃については「アジアの形勢に至っては、作者は洞察できないだろう」としています。翻訳者は著者より現実的です。ただ、この年にできていたSFの訳稿が刊行されるのは明治11(1878)年になります。


1868年は、文芸はまだまだ夜明け前。夏目漱石(金之助)はこの年2歳。貧しい古道具屋に里子に出されていました。将来の文豪は、がらくたと一緒に、小さなザルに入れられて四谷の夜店にさらされていました。通りかかった姉が家に連れて帰りますが、金之助は泣き続け、父親は姉をしかりました。

森鷗外(林太郎)は今の島根県津和野町に生まれ、この年7歳。上京するのは4年後です。明治屈指のベストセラー『不如帰』の著者、徳冨蘆花はこの年の10月に誕生。ドストエフスキー『罪と罰』を翻訳する内田魯庵はこの年、閏(うるう)4月に生まれました。

昭和43(1968)年、明治維新百周年の時、日本人は国をあげて、自分たちの祖先(多くは祖父母の時代)の幕末から明治にかけての活躍ぶりを、嬉々(きき)として振り返ったものでした。ところが、それから50年が経過してみると、今度の150周年はおもむきが前回とは大いに異なっていることに気がつきます。明治維新の過ちを書いた本がベストセラーになりました。日本人は素直に、過去を喜んでいません。

日本は、大きな曲がり角に差し掛かっています。明治維新の頃と同様、このままではいけないという状況です。日本の問題を解決するためには、今一度、150年前に起きたことを振り返っておくべきかもしれません。