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日産セドリック・シーマ/グロリア・シーマ(1988)

一世を風靡した「シーマ現象」

「シーマ現象」という言葉を生み出したシーマは、今思えばインフィニティの先駆けとなる存在かもしれない。セドリック/グロリアの上級仕様として1988年に販売されたシーマ(Y31)は、一般ユーザーが手にすることのできる最上級の日産車だったのだ。ちなみに、この初代シーマだけは正式名称はセドリック・シーマ、グロリア・シーマで、それぞれの販売系列に合わせたバッジ・エンジニアリングが行なわれていた。

時の日本はバブル経済(1996年〜1991年)真っ只中。オプションをちょっとつけるとあっという間に憂に500万円オーバーしてしまうシーマが飛ぶように売れた。何せ4年間で13万台近いセールスを記録したのだ。特に、1989年に自動車の税制が改正され、3ナンバー車に対する税金が軽くなったことも、この3ナンバー専用のシーマの売上げを後押しした。エンジンは200psを発揮するVD30DEという3ℓV6のNAと、255psを発揮するVG30DETという3ℓV6ターボの2本立てだったが、当然売れたのは高い方、つまりターボ・モデルだった。

さすがに対象年齢は高いクルマだったが、折しもハイソカー・ブーム(死語)もあって、中小企業の社長はみんなシーマに乗るんじゃないかぐらいの勢いを見せた。また、好景気を後押しに、当時の就職は完全な売り手市場。新入社員の有効求人倍率も高く、人気のある企業は初任給もそれなりに高かった。記憶では、某テレビ局の新入社員の最初のボーナスの給料袋が立った(さすがに振込だっただろうけど)ほどだったという。そこで、新入社員が就職と同時にシーマを買ったという話も珍しくはなかった。

とにかく速かった!

当時、日産の報道向け試乗会は確か成田周辺で行われたと記憶しているが、今だから時効だろうけど、常磐自動車同でスロットルを踏んだ途端、あっという間にリミッターが効く速度となり、グググッとスピードの上昇が止まったのを覚えている。今みたいにリミッターも頭が良くなく、結構乱暴な効きだったように記憶している。当時は、まだそんなにスーパーカーのステアリングを握る機会などなく、あったとしても緊張して運転していたため、シーマのように何も意識しなくてもリミッター域にまで達してしまう世界はまさに初体験であった。試乗を終えて戻ってきた時に日産の広報の人が「どうだ、凄かっただろう」とでも言わんばかりにドヤ顔だったのも覚えている。とにかく、アクセルをひとたび踏むと、リアをグッと落として凶暴な加速を示す姿は、これまでの国産サルーンでは味わえないものだった。高速道路でバック・ミラーにシーマの姿を見ると、とりあえず道を譲ったものだ。

今となっては懐かしいピラーレス4ドア・ハードトップ(死語に近い)のスタイル。主にサイド・インパクトに対して剛性が保てないということから、今となってはほとんどその姿を見ることのなくなったピラーレス4ドアだが、当時は、こと日本においては最新の流行だった。そのため、ボディ剛性にはハテナ・マークが付いたものの、あまり当時はそこをついてくるような試乗記はなかった。とにかく、パワフルな和製サルーンに衆目は集まった。また、プラットフォームはY31セドリック/グロリアと同じだったが、電子制御エア・サスペンションを搭載していたのも大きな特徴だった。エア・スプリングはハードとソフトの2段階のバネ定数を持ち、アブソーバはハード、ミディアム、ソフトの3段階の減衰力を持つもので、これを車高、車速をはじめ各種センターから検出されるデータをもとに電子制御するというものだった。その乗り心地は総じてソフトで、さすがに電制エアサスということで、低速域から高速域まで滑らかでスムーズだったことを覚えている。

装備は、当時としては破格で、ドア・ミラー・ワイパー、加湿器(モイスチャー・コントロール)、雨滴感知識間欠ワイパー、シート・ヒーター、フルオート・エアコン、光通信ステアリング、オートライト、4輪アンチスキッド(4WAS)などが付けられていた。また、当時の広報車両にはまだ出始めの自動車電話がセンターコンソールに収めた車両もあったのを覚えている。

とにもかくにも、シーマはバブルを代表するクルマだ。そして、私もバブルを味わわせてもらった人間だ。六本木で朝まで呑んでいたことも多々あったし、朝6時頃になってもゴトー花屋(正式名称はゴトウ花店、現ゴトウフローリスト)の前のタクシー乗り場に長蛇の列が出来ていたのを覚えている(電車の始発はとっくに走っているのに、それでも何故かタクシーだった)。御存知の通り、バブル経済はその後バブル崩壊を迎え、日本経済に大きな打撃を与えることになる。あの時代を再びとは考えたくもないが、何故かすべての人が浮足立っていた時代でもあった。そんな時代に生まれたシーマは、決して時代の隙間に咲いた徒花ではなく、その後の日本のサルーン造りに大きな影響を与えた1台であることは確かだ。

※ 「バック・トゥ1980」では、こんなクルマ取り上げて欲しい、とか、昔、このクルマに乗っていたんだけど当時の評価ってどんなものだったのかなぁ、といったリクエストをお待ちしております。編集部までお寄せください。