学法石川高等学校(福島)【後編】
昨夏は初戦敗退するも、悔しさをバネに秋は東北大会出場を果たした学法石川。しかし東北大会でコールド負けを喫し、長い冬を送っている。前編では秋季大会の振り返りを行ったが、後編では「選手たちには大人になってもらいたい」という首脳陣の思い、そして今年にかける意気込みに迫りました。
選手たちを大人にするための取り組み上田 勇仁監督(学法石川高等学校)
上田 勇仁監督は「選手たちを大人にしたい」と話す。この秋、県大会決勝で聖光学院と戦ったが、極端な言い方をすれば、学法石川の選手たちは「俺ら聖光学院と試合してる」という羨望の眼差しだった。「昔は、学法石川のユニホームを見て、うわ〜と思われていたのに、その逆をされた感じです」と語る上田監督。誰もが水色のユニホームに憧れた、そんな時代があった。今も選手たちは誇りを持ってユニホームに袖を通しているだろう。しかし、彼らが小学生の頃から甲子園=聖光学院という中で育っているため、気遅れしてしまう。
選手たちを“大人にする”ための取り組みとして、関東など交通網が発達しているところへ遠征に行った時、電車を使うことがある。普段は自宅や寮から学校とグラウンドを往復するだけの生活。練習試合も、チームのバスに乗ってしまえば、相手校に連れて行ってもらえる。そこで選手たちには相手校への集合時間を伝え、宿舎から電車に乗って移動させる。駅によっては、出口がいくつもあったり、乗り換えが複雑だったりする。どの出口から出たら近いのか。どう乗り換えれば、効率良く移動できるのか。自分で調べることで学ぶことがある。
ある時、こんな感想を書いてきた選手がいた。「小学生が1人で電車に乗っていた」 。確かに、都会では1人で電車に乗り、通学している小学生を見かける。それが、田舎で野球に打ち込む球児にとっては衝撃だったようだ。
この夏には、都市対抗も見せたのだが、埼玉から東京ドームまで電車を使って移動した。それも東京ドームに着くまでに「昼食も済ませる」という課題付きだった。この年末も関東で合宿を行ったが、練習するのは野手で、バッテリーはOBが関わっているイベントのアルバイトをする。その移動はもちろん電車で、選手たちは通勤ラッシュの満員電車を体験することになる。仕事では見ず知らずの人から道を聞かれたり、案内したりする場面が出てくるだろう。それが1つの成長ポイントだと上田監督は考えている。正月休みを挟んで、今度はその逆。バッテリーが練習をし、野手がアルバイトだ。
部活をしながらも社会を感じる経験を積ませている上田監督。こうした取り組みの背景には、上田監督のサラリーマン経験がある。学法石川を卒業後、八戸大(現八戸学院大)に進学。肩を痛めて学生コーチを務めた。将来、指導者を目指していたわけではなく、卒業後は就職した。
同級生の伊東 美明部長は学法石川から帝京大に進学。就職が決まっていたが、母校へ戻ることになった。2010年6月、監督に就任。監督がよく代わり、県大会すら出場できない時もあるなど、チームは安定していなかった。指導者も伊東監督1人の状態。「アメとムチ」ならば、「ムチ」しか与えていない状況だった。「1人でやっていたので、ガチガチにしていました。(選手たちから見れば)“あの人、恐ろしい”という存在にして。だから、ハチャメなことばかりしていましたね」と伊東部長は振り返る。そんな時にフラッと練習に来たのが上田監督だった。
[page_break:信頼関係抜群のスタッフ陣]信頼関係抜群のスタッフ陣伊東 美明部長(学法石川高等学校)
「僕は上田に救ってもらいましたね。彼の一言ですよ。練習に来た時、『お前、これだけの人数をまとめているのすげぇな』って言われて。でも、『(選手たちの)感情はなくなっているよな』っていう話からですね。そこから彼に入ってもらって、何でも打ち明けて。2年間、コーチとして手伝ってもらいました。(上田監督は)一般企業にいたので、マネジメントのいろんなノウハウを持っているんですよ」
13年秋、伊東監督(当時)は、自ら監督を辞した。「自分が監督では生徒たちに申し訳ない」と思っていたという。学校から「監督は誰にするんだ?」と聞かれ、「上田でお願いします」と推薦。上田監督は「部長が伊東ならやります」と返事をしたようで、現体制ができた。スタッフも充実。現在コーチは3名いるが、校長先生の「年上だとやりにくいよね」という計らいもあり、部長、監督の後輩にあたる年代がそろった(1人は現役大学生)。
そのうちの1人、石名坂 規之コーチは伊東部長、上田監督の1学年後輩で、立正大が明治神宮大会で優勝した時の主将だ。さらに、トレーナーに栄養士も付いている。ちなみに、かつて“怖い存在”を作っていた伊東部長は“ゆるキャラ扱い”だとか。伊東部長にはその方が性に合っているようだ。
上田監督が話す。「僕が野球できるのは、伊東のおかげ。伊東がいたから、ウチの野球部があります。伊東がいなかったら、ウチの野球部、完全に終わっていたと思いますよ。伊東がいなかったら、僕は石川町に戻ってきませんでしたから」
一度、崩れた土台を立て直すことは容易ではない。積み上げたものが崩れる時は一瞬なのに――。上田監督はチームスタッフの話をしている時、「すべてにおいて、今、いい方向に回り始めたと思います。やっとスタートラインに立ったとしか思っていないので」と言った。崩れたものはまた積み上げていけばいいのだ。選手にとっては3年夏というゴールがあるが、チームにとっては終わりなき戦いだ。
「キーマンは僕だと思っています。コーチ陣が頑張ってくれて、選手たちも大人になってきて、強くたくましくなってきている。あとは、上田次第です。選手たちにミーティングで言うんですけどね。『今、不安に思わないと、夏、勝てねぇだろ』って。シーズンに入れば、課題が明確に見えてくるから楽だよね、と。今は試合ができないから見えない敵と戦っていかないといけない。今、不安に思うかどうかだよ、と言うんですけど、それは自分が不安で不安でしょうがないからです」そう言って、上田監督は笑った。
[page_break:18.44mの空間を占領できる男たちになれ]18.44mの空間を占領できる男たちになれ左から鞆谷 翔、北郷 辰憲、小宮山 武(学法石川高等学校)
今、まさに再起をかけてスタートラインに立った学法石川。エース・北郷 辰憲は「聖光学院を倒して、甲子園に出て優勝するために学法石川を選んだ」と言う。埼玉出身の小宮山 武に聖光学院が9年連続で甲子園に出場している現実を問うと、「それは自分たちが変えちゃえばいいんじゃないかなと思います」とあっさり答えた。弱小校から黄金期を作った歴史、伝統はあるが、こうした心意気を持った選手たちが門を叩いてくる。
復活の兆しを見せたこの秋を支えた部員がいると、上田監督は教えてくれた。それが、飯島 飛鳥と大木 綜一郎。「本当に下手くそなんですよ、本当に。でも、2人が練習したり、一番、声を出したりする。しんどい練習の時、周りが2人に癒されています。夏を乗り切ったのはこの2人の力が大きいですね。何かやって、他の選手がワーッて盛り上がるなら面白いじゃないですか。でも、一瞬、変な間があって、みんな失笑するんです。
盛り上がるのは10回に1回くらい。練習を追い込んだ時に1回、脱力させてくれる癒しですね。飯島は県大会で骨折してしばらく松葉杖生活だったのですが、サードコーチャーボックス辺りから声を出して騒いでいるんですよ。全然、的を射たことを言わないんですけどね(笑)。ふと見ると、ピッチャーが走っているのを煽ったりもして」
そんな個性的なメンバーで2016年に目指すのは、99年以来、遠ざかる聖地・甲子園だ。鞆谷 翔が「春は聖光学院に勝って、夏は第一シードとして聖光学院に勝って甲子園に行きたい」と言えば、小宮山も「聖光学院を倒して福島で1番になって、甲子園で活躍したい」と言い切る。
そして、上田監督は今年への思いをこう語った。「今まで、いろいろと試しながら模索しながらきましたが、練習や練習試合から勝負にこだわっていくのが目標ですね。一瞬たりとも勝負を無駄にしない。そして、選手たちには聖光学院を意識させたくないと思っています。聖光学院と言うより、鈴木(拓人)というピッチャーを意識しろ、と。最終的には個人だと思うんです。チームプレーは大切ですが、最終的にはピッチャー対バッター。その結果、内野手、外野手が活きる。一人ひとりが強くなり、1対1の勝負に勝つことですよね。
野球というのは18.44mの空間で決まる部分が多いと思います。ノーアウトランナーなしで迷っているんですよ。打つだけで出ているバッターが平然と見送ったりもする。小洒落た野球をしようとしているけど、野球の楽しさ、勝負の醍醐味って、そうじゃないよねって思うんです。あの空間に強い、18.44mの空間を占領できる男たちになって欲しいなと思います」
人口1万6千人ほどの福島県石川町。この町を再び、野球で熱くさせようと、学法石川の選手、指導者たちは、今日も急勾配な坂と3つのヘアピンカーブを登っていく。
(取材・写真=高橋 昌江)
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