撮影:稲澤朝博

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埼玉県の山奥に、自由の森学園という一風変わった中高一貫校があります。ミュージシャン、俳優といった職業につく卒業生が多いことでも知られています。

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以前、ハピママ*の記事『どんな子どもも100%ウケる『えがないえほん』笑い以外の意外な効果も』でご紹介した「えがないえほん」を翻訳した大友剛さんも、この学園のご出身です。

制服もなければ、校則も試験もないという自由の森学園。そんな環境での十代とは、いったいどんなものなのでしょう。

それ以降の人生にどう影響するのか、卒業12期生の田中馨さんと、15期生の松本野々歩さんにインタビューしてきました。

田中馨さんと松本野々歩さんは、チリンとドロンやロバート・バーローなど、ご夫婦で複数のユニット、またソロでも音楽に携わる活動をされています。

田中馨さんはSAKEROCKの元メンバーであり、星野源さんと在学中に音楽活動で絡んでいたこともあります。

なぜ自由の森学園に?

――まず、お話をうかがおうと思った背景について、少しお話させてください。

幼稚園や保育園までは自然の中でのびのびできる環境で育った子どもが、小学校に上がってなかなか適応できない、という話を知り合いから聞いたことがあります。

その子どもは、保育園時代ずっと裸足でいたので、上履きを履くのが嫌で仕方なかったそうです。先生は履かせようとするのですが、逃げたりして。小さなことですが、それって子どもにとってはストレスですよね。

そういうことを積み重ねて、子どもは学校に、そしてゆくゆくは社会に適応していくとも考えられますが、小さい頃に奔放であればあるほど、あとあと苦労するような気がします。

田中馨さん(以後K)「僕たちは、遊びを通して音楽を学ぶ小学生向けのワークショップも行っているんですが、そこで出会った子どもたちが少し大きくなって、久しぶりに会う機会があったんです。

その時に感じたのは、あんなに個性豊かだった子が、あーがんばってるなー、いろいろなものとたたかってるなー、ということでした。

小学生のうちはまだかわいくて、周りと比べて変わっている子でも、みんなといて楽しいな、くらいだと思うんですけど、中学生になると、周りに合わせるためにがんばっちゃうというか」

――小学校と中学校じゃ雰囲気が全然ちがいますよね。制服があったり、校則があったり。自由の森学園は中学からなので、また違った側面があると思うのですが、校則や試験がないというのは、驚きです。

一般的な学校とはまったく異なる価値観に基づいた教育方針なのでは、と想像するのですが、自由な教育とはどんなものなのか、それが、その後の人生にどう影響したと思われるか、などについてお聞きできれば、と思っています。

もともと、お二人はどういった経緯で自由の森学園に入ることになったのでしょうか。

松本野々歩さん(以後N)「私の場合は、私が生まれた年に自由の森学園ができたことを知った両親が、私が中学になったらそこに入れようということを最初から決めていたんです」

K「僕は三人きょうだいの末っ子で、上に姉と兄がいるんですけど、その二人がすでに入っていたので、自分も入ることになるんだろうな、と思っていました」

――小学校の時の友達と別れることはイヤではなかったのでしょうか。

K「多少はありましたけど、強くは反発しなかったですね。姉たちがジモリ(自由の森学園の通称)の友達を家に連れてくることがたまにあったのですが、その人たちがけっこうおもしろくて」

N「ジモリに行く子どものケースって、いくつかあると思うんですが、多いのが、公立の小学校や中学校になじめなくて、親がこの先を考えて入れるケースと、行っていた小学校、中学校は特に関係なく、親がジモリの理念に賛同して入れたいと思うケース。私たちの場合、後者だと思います。二人とも、どちらかと言うと、小学校を楽しんでいた方なので」

――そうなのですね。自由の森学園は、たしか寮があるんですよね?

K「あ、寮に入るのは全員ではないです、僕は寮でしたが」

N「私は通いでした」

――寮だと、毎週末は実家に帰るのですか?

K「僕はほとんど帰らなかったですね」

――へえ、土日もいられるんですね。

教科書のない授業! 自己評価の成績表!

――どんな学園生活だったのでしょうか。

K「僕は、授業を休んで寮の先輩に連れられて裏の山に探検とかに行ってました。(笑) ゴルフ場に忍び込んで大人たちに追いかけられたり…」

――え、進級は大丈夫だったんですか?

K「できましたね…」

N「私の次の代からすごく厳しくなったと聞いていますが、当時は、出席日数と自己評価の通知表で進級できたんです」

――自己評価の通知表とは?! まず、科目は普通の学校と同じものがあるんですか? 国語とか、数学とか・・。

N「はい、それは一応、あります(笑) それぞれの科目について、自分で振り返って評価をするんです」

――それだと評価が甘くなったりしないのでしょうか?

N「それがけっこうみんな正直に書いていて、“今学期はあまりがんばれなかったので来学期はがんばりたい”と書いたり。あと、“もっとこういう授業をした方がいい”とか意見する子もいて」

――へえー。先生と生徒が対等な感じですね。

N「生徒の質問がきっかけになって、よく授業は脱線していましたね。誰かが質問したら、先生が、じゃあ来週はそのことについてやろうか、なんて言ったりして」

――すごく“自由”な、融通のきく授業ですね!(笑) カリキュラムみたいなものはあるんでしょうか。

K「一応、あったのかもしれません。たぶん国とか教育委員会から、“この部分は教えなくてはいけない”みたいな指導はあったと思うんですが、先生も“これが終わったら、アレ、やろうぜ”みたいな感じで」

――“一応”ばっかりですね(笑)

N「教科書も配布されますが、先生がその時の授業内容に合わせたプリントが中心の授業でしたね」

――そっちの方が大変ですよね! すごいなあ。

中学からの寮はおすすめ

――馨さんは中学から寮に入られたということですが、親にとって、中学から子どもを寮に入れる選択というのは、なかなか容易なことではない気がするのですが…。

K「そうですよね。でも、中学から寮に入ること、個人的にはすごくおすすめです。いろいろ公にできないようなことをされたり、したりはあるのですが(笑)」

――中学の頃というとちょうど思春期なので、同居していたら親とぶつかりやすい時期ですよね。寮だと、それが回避できる点はいいと感じます。でも、親に反抗しないとなると、誰に反抗していたんでしょうか? 先生?

K「うーん…」

――たとえば、寮で朝起きないで寝ていたら、先生が起こしに来るとか、寮母さんが“起きなさーい!”と怒る、なんてこともなかったですか?

K「言ってくれてはいたけど、強制ではなかったですね。朝ごはんも食べない事の方が多かったです」

――それじゃあ反抗しようにも、反抗したいと思わないですよね、押さえつけられていないわけですから。

K「そうですね。そう考えると、反抗期ってなかったですね。

中学の三年間は、人間関係の勉強をした感じです。親に対しても、ぶつかることは、ほとんどなかったです。それは、中学からの寮に入れられたおかげだと思っています。

ただ、親と暮らした年数は、中学に入るまでの12年間だけなので、深い話を親とすることってあまりなかったんですよね。それが30歳を過ぎてから、もっと親のことを知りたいっていう想いが出てきたんです。

なので、寮に入ることで不足していた親と過ごす時間は、今になって補えている気がします」

――強制や義務がかぎりなく少ない環境では、ストレスもないということでしょうか。もちろん、思春期なりに自我に目覚めて、自分にいらだつ、ということはあったと思いますが、その矛先が他人に向かなかったんですね。

N「いじめって言葉、当時はなかったよね」

K「そうだね、なかったかもしれない。…まあでも、当時はとんでもないところに来てしまったな、と思うようなこともありましたよ」

――たとえば?

K「パンツ一丁で寒空の下、締め出されたとか(笑) それでも、あとあとなんとかうまく折り合いがつくんですよね」

N「ケンカとかでも、仲裁に入る子がいたりしてね」

K「基本的に中学1年から3年までの寮生4、50人でつくった社会なので、責任が自分らにあることがわかってるんですよね」

N「よく生徒同士で話し合いをさせられるんですよ、寮だとミーティングはしょっちゅうでしたね、先生抜きで」

――たしかに、子どものケンカに大人が入ると面倒になることはありますね。

放課後ライブハウス

――ところで、いちばん好きだった科目はなんでしたか?

N「わたしはやっぱり音楽かな。ジモリって合唱にすごく力を入れていて、音楽の授業は歌しかないんです。一年を通していろんな歌を歌うんですが、学期末や年度末の行事で、合唱をする機会があるので、それに向けてみんなでがんばって練習するのが楽しかったです」

――毎年12月に音楽祭があるんですよね。

N「そうです。それ以外の科目も、なにかに向かって練習する感覚で授業を受けていましたね。そのなにかっていうのが、音楽祭だったり、学習発表会だったり。一般の学校だと、それがテストなのかもしれないですけど」

――馨さんは一番好きな科目は?

K「……」

――…放課後ですか?

K「そうですね(笑)、自分だけじゃないと思うんですけど、大勢がひとつのものに向かおうとすると、なんかそわそわしちゃうんですよね。あまのじゃくとも言いますが、それでもいられる学校だったのでよかったですが」

――たしかに、普通の学校だったら、積極的にやっている子たちからなにか言われそうですよね。
高校もそんな感じだったんですか?

K「そうですね」

――それでも卒業はできるんでしょうか。

K「ジモリって、高校卒業に苦労する人が多いんですよ。出席日数と、課題を提出しないといけなくて。でも僕は、けっこう要領がいいというか、要領のいい奴と友達で、高校三年の初めにはもう卒業できる見込みがついてましたね」

N「そんな人いたの?(笑)」

K「野々歩や姉は、先生と、人としてのいいつながりがあるタイプだったと思うんですが」

N「わたしは行事とかも積極的に参加する方でしたね」

K「僕はちがって、えーと」

N「スケボーばっかりしてたんでしょ(笑) あとバンド」

K「そうそう」

――バンドは校内でしていたんですか?

N「そうです。放課後のライブが盛んで、大きめの教室で、ちょっとした照明や音響も組んで、今日はアコースティックの日とか、日によってプログラムがちがって、エントリーした人が順番に演奏するんです」

――それは学校行事ではなく、生徒による自主発生的な活動なんですか?

N「そうです」

――なるほど、行事には外れちゃうような子たちが中心になって、こっちの方がおもしろい、みたいなノリだったのでしょうか。

K「まさにそうですね」

N「でも、いわゆるバンドっぽい子たちだけがやっていたわけじゃなくて、一見おとなしそうな子たちもかかわっていたり、層は幅広かったです。照明や音響のほかに、チラシも手作りしたり、みんなで写真を撮ったり。ジャンルも、ヒップホップもあれば、ジャズもあったり、たまにクラシックの子もいましたね」

――いろんな役割の人がいたんですね!

N「それに力を入れるあまり、授業中も一応教室にはいるけど、教室の後ろでずっとベースを弾いていたりする同級生とかいましたね(笑)」

――ちなみに、馨さんが卒業後に加入されるSAKEROCKの萌芽みたいなものは、在学中にすでにあったのでしょうか。

K「在学中は、音楽でからんだことのあるのは星野源くんだけで、それもすごく自分たちが中心になっていたわけではなかったですね。源くんとハマケンは、コントライブとかお芝居もやっていましたよ」

卒業後も自由は続く

――卒業後の進路はどんな感じなのでしょうか。

N「本当にさまざまだと思います。大学へ行く人は行きますし。ある意味、時間はあるので、受験する人は学校に頼らず、自分で勉強していましたね。ただ、一般企業に就職する人は少なかった気がします」

――高校にいる間に、進路をどうするのかとか、とりあえず大学は行っておこうかとか、そういう空気はなかったのでしょうか。

N「卒業後のことは卒業したら考えよう、と思っていた人はすごく多いと思います。もちろん、進路について、先生や友達と話したりはしていましたが、卒業後、すぐに動かないと、とは思っていなかったと思います」

K「大学に関しては、なんかジモリって、選択授業があったり、高校から普通の大学みたいな雰囲気があったので、それだったら早く社会に出たいな、と思っていました。知識を深めるとか、自分のいろんな可能性を追求するとか、そういったことは、すでにジモリでやっていて、そこでうまくいかないことも含めて経験しているので」

――俗にいう、将来への不安はなかったんですね。

K「ただ卒業後に、世間とのギャップを”くらう“よ、とも言われていて、僕は大丈夫だったんですが、人によっては、それまでいた世界とのあまりのギャップに、驚くこともあったと思います」

N「わたしはくらいました!(笑) 卒業して初めてのアルバイト先で、敬語が使えないことに気づいて、ものすごくびっくりしたんですね。怒られて…」

――(笑)敬語をそれまで使う必要がなかったんですね。先生にもですか?

N「そうですね。先生のことも、先生とは呼ばないで、あだ名や、呼び捨てで呼んでいました。で、そのまま社会に出て、ギャップにショックを受けたんですけど、そこで、普通の会社に就職しよう、とは思いませんでした(笑)」

――卒業してから音楽の道を歩んでこられたのは、音楽で身を立てるんだ! と一大決心をしたわけではなく、自然な流れだったのかな、という印象です。

K「いや、いまだに音楽で身を立てているというよりは、今は幸いにも音楽に携わらせてもらっている、といった方が正しい気がしますけど(笑) たまたま、一緒に音楽やっている人が、同級生だったりすることも多いですが」

N「ロバート・バーローというユニットでは、5人中4人がジモリ卒業生なんです」

――それはすごいですね。

N「話が早いんだと思います。やりたいことが合致することが多いんじゃないかな」

――ジモリの中に、卒業しても、好きなことをやり続けてもいい空気があったのではないでしょうか。なぜいけないの? というか。だから、ミュージシャンやイラストレーターなど、クリエイティブな職業の人が多いのでしょうね。

K「そうですね、なかには農業に行く人もいて。農業もクリエイティブですよね」

大人たちとの信頼関係

――先生たちも、そこまで生徒に自由をゆるすからには、よほど生徒たちを信頼していたのでしょうね。普通だったら、将来のために今、がんばることを説く先生の方が多いと思うのですが。

K「そういう空気はまったくなかったですね」

N「そういえば、全然そういう先生はいませんでしたね。今まであたり前のことだと思っていたけど」

――こいつらはまあ大丈夫だろう、という感じだったのでしょうね。

K「(笑)そうですね」

N「生徒の方も、最終的にはこの人(先生)を悲しませたくない、という気持ちがあったのだと思います」

K「これは、僕の父の言葉なんですが、“お前はどうせ30代、40代にはがんばるんだから、今は好きなことをしろ”とよく言われていたんです。

今後、自分がやりたいことをやろうとするときに、立ち向かわなくてはいけないことはいくつもあるし、それをむげにしないでひとつひとつ真面目に取り組めばいい、といった意味だと思うんですが、その言葉があるから、今、困難が起こっても、逃げずに取り組めるんだな、と思うことが最近よくありまして。

たぶん、人としてこいつは安心だって思ってくれていたからこその言葉だと思います。十年後のために今がんばっておけ、とかまったく言わないお父さんでした」

――さすが、中学から子どもをジモリに行かせていただけのことはあるお父様ですね。

N「わたしは馨くんとちがって、中高の時、実家にいたので、親にも世の中の大人にも反発していたんですけど、何人か大好きな学校の先生がいて、その先生たちに会いに行く時間がすごく楽しかったんです。当時の校長先生が大好きで、よく放課後、校長室に入り浸っていました」

――校長室に行くっていうと、普通は怒られるイメージですよね。

N「なにを話すわけでもなくいて、愚痴を言ったり、あっちの愚痴を聞いたりしていました。美術の先生で、すごく破天荒な人だったんですけど、他の大人とはちがう特別な大人でした。友達でもない、でも他の大人たちともちがう、そんな存在。今、わたしたちも音楽の活動を通じて子どもたちに会うことで、そんな存在になれてきているのかな、という気はします。

K「いろんな人間がいるんだよってことは、僕らの普段の活動でも大事にしていることです」

――インタビューの初めの方の話に戻りますが、中学という難しい時期を迎えている子どもたちには、両親以外のいろんな大人に接する機会があればあるほど、生き方の見本になりますよね。今後の活動にも期待しています。今日はどうもありがとうございました。

インタビューを終えて

インタビュー当日は大雪で、帰る頃には本降りになっていたのですが、馨さんと野々歩さんは玄関先まで、筆者とカメラマンを見送ってくださいました。もう家に入られたかな、と振り返るたびにまたお二人の姿が目に入ることを繰り返すこと数回、私たちが角を曲がるまで見送ってくれていたのです。

これには感激しました。こんな見送られ方を親戚以外の人にされたことは、正直初めてでした。

お二人のやさしさも、やりたいことを存分にやることを許された自由の森学園で過ごしたことと、決して無関係ではないと思い、帰途につきました。

【取材協力】
松本野々歩(まつもと ののほ)
「ロバの音楽座」のリーダー。松本雅隆の長女。ロバハウスで、音楽と古楽器に囲まれて育つ。
田中馨と共に、幅広い層に人気のアコースティックバンド「ショピン」の他、音楽、踊り、モノ作りなどを通して ーあそびー を考えるユニット「ロバート・バーロー」のメンバー。
CMソングや、様々なアーティストのコーラス、ワークショップなどの音楽活動の他、
生まれ育ったロバハウスで、自身の企画する音楽イベントも開催している。

田中馨(たなか けい)
元SAKEROCKのベーシスト。現在は自身のプロジェクト「Hei Tanaka」、「ショピン」や「ロバート・バーロー」を軸に「トクマルシューゴ」や「川村亘平斎」をはじめ、数多くのミュージシャンと音楽活動のほか、舞台作品や映像作品などの音楽も担当する。

2015年 東京芸術劇場「気づかいルーシー」、2016年 PARCO劇場「ボクの穴、彼の穴。」、2016年 さいたま芸術劇場「1万人のゴールドシアター」音楽担当。
2016年 Eテレ「いないいないばぁ」楽曲提供(「マックロカゲロン」)。
2018年より、ベネッセ「こどもちゃれんじ」アレンジ、曲提供。