小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝に憤り、2001年8月に同神社の狛犬(こまいぬ)の台座に赤いスプレーで「死んでしまえ」と書いて逮捕された中国人の馮錦華元被告が18日までに、香港の鳳凰衛視(フェニックス・テレビ)の取材に応じて、「逮捕時の日本人の礼儀正しさに、驚いた」と述べた。ただし、日本を批判する考えに変化はなく、歴史を反省しない日本を屈服させるためにも中国が盟主となるアジアの構造が必要と主張した。

 中国では、中国都市部で秩序維持を担当する係員である城管隊員が起こす暴力沙汰が大きな問題になっている。馮元被告は、中国の場合、城管隊員はスイカ売りを取り締まる際にも相手を殴りつけると述べた上で、靖国神社でペンキを噴霧して「死んでしまえ」と字を書いた際、「引き倒されることもなかった。殴られることもなかった」と説明。

 逃走を防ぐために身柄を確保されただけで、持っていた袋についても「何が入っていますか。開けて中を見てもよいですか」と質問されて、馮元被告が同意してから中身を確認された。

 ただし、肉体的な暴力は受けなかったが、警察で取り調べの際には「お前ら中国人は最低だ。戦争のときだったら、裁判なしに殺せる」などと怒鳴られたと、馮元被告は主張した。

 その後、弁護士がやってきて、馮元被告のために弁護をした。馮元被告は「考えてみれば、中国で似たような話があったとして、私の立場にたって弁護してくれる中国人の弁護士がいるだろうか」と疑問を示した。

 馮元被告は、「日本人は、私を殺してしまいたいほど恨んでいるだろう」と述べ、日本人の怒りを理解していることを示した。警察署内では年配の警察官がこっそりと、「馮さん。気をつけなさいよ。日本の右翼は怖いよ。ここを出たら、袋に詰められて、海に捨てられてしまうかもしれないよ」と、用心するように忠告したという。

 勾留されている時には「犯罪組織の親分」とも一緒になった。どうしてここに入れられたのかと尋ねられたので、自分は中国人であり、靖国神社でペンキを噴霧したと告げたところ、相手も事件を知っており「よくやった。骨のあるやつだ」、「ここを出たら、オレのところに遊びにこい」などと喜ばれてしまい、電話番号まで教えてもらったという。

 馮元被告は「理屈から言えば、彼は私を攻撃してもおかしくない。しかし、そういうことはなかった」、「日本人はとても不思議だ」と述べた。

 馮元被告は「日本人はよくもなる。悪くもなる。これは民族的な特性だ」との考えを示た。「日本社会は日本人をよく扱う。外国人も非常によく扱う」と論じた上で、「相手が自分より下とみなすと、とたんにひどいことをする。日本人はきれいごとで動く民族ではない」と主張した。

 さらに、日本人は「歴史を反省していない」と主張。「そして、強大な生産力と動員能力、強大な秩序を持っている。これは中国にとって深刻な脅威だ」との見方を示した。馮元被告は帰国後に保釣運動(尖閣諸島を取り戻す運動)に参加したが、“歴史を反省しない日本”に対する危機感を持ったからという。

 ただし、馮元被告は「われわれも歴史を理解していない」と、中国人を批判。「中国では、どれだけのメディアが実際に靖国神社(を取材して、その)写真を撮影しただろうか。靖国神社の関係者に話を聞いただろうか。あの時代の歴史について考えてみただろうか」と指摘した。

 馮元被告は「日本は何かに帰属させねばならない」、「日本は現在、米国に帰属している」と主張。中国はどの分野においても日本に負けるわけにはいかず、「日本を中国に帰属させることができれば、その時には中日友好(日中友好)を叫ぶことができる」と論じた。馮元被告が使った「帰属」との言葉は、「屈服」と理解してよいだろう。

 馮元被告は「中国が日本を含む全アジアを指導するようになれば、われわれは共同でひとつの経済圏、場合によっては文化圏を作ることができる」との考えを示し、「ただし、その前提とは中国が先進性を持つことだ。われわれは科学技術、生産力、文化面で必ず日本を超越しなければなれない。これこそが、われわれが直面する最大の問題台」と主張した。

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◆解説◆

 馮元被告の主張で、警察による容疑者取り扱いや弁護士の制度については、自国の現実との比較の上で、日本社会を比較的客観的に理解していると言える。ところが、日本人の考え方の根底、ひいては「望まれる日中関係」についての見方については、現実と比較しても極めて大きな“飛躍”が生じてしまっている。

 まず、日本人が「相手が自分より下とみなすと、とたんにひどいことをする。日本人はきれいごとで動く民族ではない」との主張は、かなり極端な見方ではあるが、「相手によって態度を変える」こと自体は、日本人にかぎらずどの国の人でもありえることで、「日本人だけの特徴」とは言えないが、「日本人にもある特徴」という意味ならば、「的外れ」とまでは言えないだろう。

 気になるのは、馮元被告が日本人の中国に対する見方や姿勢を、単純な「力の関係の帰結」に置き換えてしまっていることだ。仮に日本人が特定の国を見下す場合があるとしても、それは「遅れていて弱い」ことが本質的な理由ではなく、「言動が納得できない」、「尊敬できない面が多すぎる」と感じるからではないだろうか。

 事実、中国よりも国力や発展の度合いで遅れていても、日本が「相手を尊重し、善意で接し、その国からも好感をもたれている国」は数多くある。したがって、馮元被告の主張は成立しない。

 たしかに戦前の日本には、「相手を力で屈服させる」方法を選ぶ傾向があった。しかし現在の日本人の多くは、相手を力で屈服させることを第一の選択肢とは考えていない。馮元被告はそのあたりの「今を生きる日本人の考え方の本質」を理解していないと言わざるをえない。

 馮元被告の「日本を中国に帰属させる」論は、さらに歪んだ発想だ。その考えの根底には、「中国こそが本来、アジアの盟主である」という伝統的な“中華意識”があるようだ。

 中華意識の本質にはまず、「上下関係を固定する」ことがある。例えばAとBという異なる文明圏がある場合、「この方面ではAが優れている」、「別の面ではBが優位」という判断はできるだろうが、AとBという2つの文明圏のどちらが上でどちらが下かということは、そう簡単には決められないなずだ。

 しかし、伝統的な「中華思想」には、中国(華人社会)がすべての面で最高な規範であり、周辺社会はすべてにおいて劣っていると、上下を“決めつける”特徴があった。さらにさまざまなカテゴリーにおいて、いったん“確定”された上下関係の変更は「秩序を乱す不正義」と考えられた。

 歴史上、大いに発展した中国文明に周辺地域を圧倒している面が多かったのは事実であり、日本人は大いに尊重し、恩恵を受けた。

 さらに、中華文明を採用する上で「超優等生」であった朝鮮に対しても、日本は江戸時代まで――豊臣政権期などごく一時期を除き――敬意を払った。文化、芸術、工芸などの多くの分野において、日本が朝鮮から受けた恩恵は計り知れないと言ってもよい。日本人も朝鮮人も文化などにおいて「朝鮮が上、日本が下」と認識していた。

 しかし、日本が明治時代、西洋的な近代化にいち早く成功すると、それまで“先進地帯”だった中国や朝鮮などは大きく立ち遅れることになった。国内体制をほぼ整えた明治日本は、帝国主義が正統・正当だった時代において、近隣に「脆弱(ぜいじゃく)」な社会が存在したのでは、国防上の大きな脅威と考えた。

 さらに、その「脆弱な社会」を、自らの利益を第一義に「できるだけ利用しよう」との行動を起こした。現在では決して許されない「侵略」の道を歩んだことは事実だ。

 しかし、第二次世界大戦が終了して日本が方向を180度転換したのちも、周辺地域には「対日不信」が残ることになった。

 それぞれの国における思想の誘導や教育の問題はあるにしても、中国本土や韓国で「反日」が国民の多くに受け入れられる背景には、「本来は自分たちが上だった」という“中華思想の生霊”が見え隠れする。馮元被告の主張の最後の部分は、まさにその「証明」と言えないだろうか。

 また、中国本土や韓国以外の地域では、戦前の日本に対する批判はあったとしても、「熱狂的な反日」は発生していない。日本の統治時代前に、すでに「華人社会」がほぼ成立していた台湾では、大陸から来た華人(中国人)はむしろ「異郷で暮らすようになった新参者」であり、中国大陸から見れば台湾は「遅れた辺境の地」だった。台湾社会で、「本来は、自らが日本より上」との考えに強く染められた人がむしろ少なかったことが、台湾における対日感情の正常さにつながっていると考えられる。

 中国や韓国と日本の間に横たわる問題で、日本の側については、2000年前後にわたって大きな恩恵を施してくれた「歴史的な先進地域」に対する知識と敬意が十分でないために、相手のいらだちをなおさら大きくしがちという問題を指摘することもできる。

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 馮錦華元被告は埼玉県内で会社員として働いていた。裁判で、器物損壊で懲役10カ月、執行猶予3年の判決を言い渡された。実刑判決は免れたが、法務省はビザの延長を認めず、馮元被告は2002年6月までに日本を離れた。(編集担当:如月隼人)