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2024年上半期(1月〜6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年05月20日)******大河ドラマ『どうする家康』『麒麟がくる』などには著名な戦国武将が登場します。しかしその裏に、もっと注目されてもいい<どんマイナー>なご当地武将が多く存在する!と話すのが「れきしクン」こと歴史ナビゲーター・長谷川ヨシテルさん。長谷川さんがそんな彼らの生涯をまとめた著書『どんマイナー武将伝説』のなかから、今回は「みちのくの雄・九戸政実」を紹介します。

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秀吉と戦った最後の戦国大名

「問題です! 豊臣秀吉による天下統一は何年に、何の戦いで成し遂げられた?」

そう聞かれれば「1590年(天正18)の小田原攻め(征伐)!」と答える方がほとんどかと思います。

ところが、実は天下統一したはずの秀吉は、翌1591年(天正19)に東北に大軍を派遣して九戸(くのへ)城(岩手県二戸<にのへ>市)というお城を攻めているんです。この戦いを「九戸政実(まさざね)の乱」と呼び、城将はその名の通り九戸政実です。

教科書には登場しないこの合戦以降、国内では秀吉と争う大名はいなくなっていますので、政実さんは、カッコよく言うと“秀吉と戦った最後の戦国大名”ということになります。

珍しい名字の「九戸」ですが、これは領地だった九戸(岩手県九戸村)という地名に由来するもので、現在の岩手県から青森県にかけて一戸(いちのへ)から九戸までがあり、今も地名として使われています。

この「九戸家」ですが、名門の「南部(なんぶ)家」の分家にあたります。南部家は「三日月の丸くなるまで南部領」(三日月が満月になるまで歩いてもまだ南部領)と歌われたほどの広大な領地を持った東北屈指の大名でした。東北の名産品である南部煎餅や南部鉄器などの名前は、この南部家に由来するものです。

政実さんは『二戸郡誌』などによると1536年(天文5)生まれと考えられるので、織田信長よりも2歳年下、のちに戦う秀吉よりも1歳年上にあたります。

三戸(さんのへ。青森県三戸町)を拠点とした南部家の本家に仕え、1569年(永禄12)には鹿角(かづの。秋田県北東部)に侵攻してきた安東愛季(あんどうちかすえ)を撃退して鹿角を奪還するなど、南部軍の大将を務めるほど武勇に秀でた人物だったようです。

また、室町幕府の将軍家からも一目置かれる存在だったらしく、1563年(永禄6)の幕府に従う家臣や大名の名簿(『永禄六年諸役人附』)にも、本家の当主である南部大膳亮(だいぜんのすけ。晴政)と並んで九戸五郎(おそらく政実さん)の名が記されています。

また『南部史要』(1911年刊行)には、「一万七、八千石の領地があり、家臣の筆頭であるだけでなく、富は宗家を越えていた」と記されています。

南部本家との骨肉の争い

そんな政実さんが“反乱”を起こすキッカケとなったのが、南部本家の御家騒動です。

南部家の24代目にあたる南部晴政には実子がなかったため、従兄弟にあたる南部信直を娘と結婚させて養子に迎え、後継者に指名していました。


『どんマイナー武将伝説』(著:長谷川ヨシテル/柏書房)

ところが、1570年(元亀元)になって南部晴政に実の子(南部晴継)が生まれると、南部晴政は息子を溺愛。その3年後に南部信直に嫁いでいた娘が亡くなると晴政と信直の関係は一気に悪化。

実の子どもに南部家を継がせたいと思った南部晴政は、南部信直を遠ざけるようになり、『八戸家伝記』(元禄年間〈1688〜1704〉成立)によると自ら兵を率いて南部信直を襲撃して殺そうとしたそうです。

そのため、南部信直は自身の危険を感じて、後継者を辞退して領地だった田子(たっこ。青森県田子町)に退いています。

これで御家騒動は収束しそうな気もしますが、1582年(天正10)年に南部晴政が死去して、息子の南部晴継が跡を継いだ直後に問題は再燃。

『公国史』(江戸時代後期の盛岡藩の記録集)などによると、なんと南部晴継は父の葬儀を終えたその帰り道に、何者かに襲撃され暗殺されてしまったというのです。黒幕に政実さんを疑う人が多かったようですが、南部信直も間違いなく怪しいです。

こうして、再び後継者問題が勃発。元後継者だった南部信直に対して、政実さんは自らの弟の九戸実親(さねちか)を推します(史料によっては、政実さん自身が南部本家を継ごうとしたとも)。実は弟の九戸実親も、南部本家から正室を迎えていたんです。

政実さんを支持する南部家の重臣が多かったものの、南部信直を推す北信愛(きたのぶちか。こちらも南部家の分家)の大演説に押し切られて敗北。半ば強引に南部信直が継ぐこととなりました。

この一件に不満を抱いた政実さんは南部本家との対立を深めていき、出陣命令が出ても病気と称して出陣しなかったりと、両者の関係性は悪化の一途を辿りました。

そんな中、1590年(天正18)に「小田原攻め」が起きます。

秀吉は東北の大名たちにも参陣するように命令を出すと、以前から豊臣政権と連絡を取っていた南部信直は秀吉のもとに参陣。戦後に行われた「奥州仕置(おうしゅうしおき)」によって東北の大名たちの領地の配分や改易などが決められ、いわゆる「太閤検地」も行われました。

すると、これに反発した勢力が一斉蜂起。「葛西・大崎一揆」や「和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)一揆」などが立て続けに勃発します。南部信直は新たに与えられた領地で発生した一揆の鎮圧に奔走。そのタイミングを狙って、政実さんが動きます。

翌1591年(天正19)の正月、南部本家への年賀の挨拶を、また病気と称して欠席して、本家との決別を表明。南部信直が一揆に翻弄されている間に味方を募って戦の準備を進め、3月に挙兵します。こうして「九戸政実の乱」が勃発します。

秀吉軍が城を包囲! どうする政実?

本家をしのぐ力を持っていた政実さんに味方する勢力はかなり多く、南部信直は鎮圧どころか防戦一方。中にはこっそりと政実さんに通じていて寝返る者もいたため、南部信直は滅亡してもおかしくない状況へと追い込まれていきました。

しかし、ここでラスボスが登場します。豊臣秀吉です。

大ピンチとなった南部信直は、自分だけの力では政実さんに勝てないと考え、京都に使者を送って天下人の秀吉を頼ったのです。

東北で反乱が連発していたこともあり、秀吉はすぐさま鎮圧軍の派遣を決定します。

鎮圧軍は豊臣秀次(秀吉の甥)を総大将として、伊達政宗や徳川家康、前田利家、石田三成や大谷吉継など名だたる武将たちが名を連ねています。

6月には各方面から一揆勢の鎮圧が始まり、8月までには「葛西・大崎一揆」と「和賀・稗貫一揆」も鎮められ、ついに九戸城に秀吉軍が迫ります。

9月1日には九戸方の前線拠点である根反(ねそり)城と姉帯(あねたい)城(ともに岩手県一戸町)が秀吉軍の猛攻にあって落城。翌2日に総勢6万5千といわれる秀吉の大軍が九戸城を包囲しました。

この九戸城の攻防戦については『南部根元記』(元禄年間以前に成立)や『九戸軍談記』(1819年〈文政2〉成立)などの軍記物で詳しく描かれています。

それらによると九戸城を攻めた武将には、政実さんの天敵である南部信直をはじめとした津軽為信(つがるためのぶ)や秋田実季(あきたさねすえ)などの東北勢、蝦夷(えぞ。北海道)の松前慶広(まつまえよしひろ)、さらに秀吉の家臣である蒲生氏郷(がもううじさと)や堀尾吉晴(ほりおよしはる)、浅野長政(あさのながまさ)、それに加えて家康家臣の井伊直政(いいなおまさ)という面々だったそうです。

それに対して、九戸城の城兵はわずか5千ほど。それでも九戸城の士気は高く、政実さんは各防衛口に回って細かく指示を出したそうで、秀吉軍が鬨(とき)の声を上げて弓矢や鉄砲、大砲などを撃ち掛けてきても城兵たちは怯むことなく応戦します。

「城中に鉄砲の名手がいるようだ」

兵数に物をいわせて切岸(きりぎし。人工的に削った崖)を登ろうとする秀吉軍に対して弓矢と鉄砲を散々に撃ちまくって、傷を負うことなく敵を撃退。城兵たちはまったく弱気になる気配はありませんでした。

この戦況を見た蒲生氏郷は、「城中に鉄砲の名手がいるようだ」と家臣を呼んで、唐傘(からかさ)を開いて立てさせます。

そして、九戸城に向かって、「源平の合戦では扇子を的に立てたそうだが、今は唐傘を的に立てようと思う。われこそはという者はこれを撃ってみろ」と叫ぶと、九戸城にいた工藤右馬之助(くどううまのすけ。兼綱)という者が名乗りを上げ、100間(約181メートル)ほど離れた唐傘を見事に撃ち抜いて、両軍から大喝采を浴びたといいます。

ちなみに当時の政実さんの姿は、萌黄(もえぎ。黄色みを帯びた緑)の直垂(ひたたれ)に、緋威(ひおどし)の鎧(緋色の糸を使った甲冑)、龍頭(りゅうず)の前立てが付いた兜を被り、“鷲の子”と呼ばれていた3尺5寸(約106センチ)の太刀を身に付け、葦毛(灰色の毛)の馬に乗っていたんだそうです。めっちゃ、カッコよかったでしょうね!

さて、政実さんと城兵だけでなく、政実さんが改築した九戸城も防御力に長けた城郭でした。

三方を川(猫淵川、白鳥川、馬淵川)に囲まれた天然の要害で、切岸はまるで巨大な屏風のように広がり、堀は深くて土塁は高く、頑丈に造られた塀には狭間(さま)を数多く設置して、その上に櫓を構えていたそうです。

『南部根元記』では、「たとえ数千万の軍勢が攻めても、たやすくは落とせないだろう」と“盛り気味”に絶賛されています。さぁ、難攻不落の九戸城を前にどうする秀吉軍!

秀吉の“騙し討ち”に散る

秀吉軍は九戸城のことを“小城”と侮っていたようですが、政実さんの戦術を前に大苦戦。力攻めをして落とそうとしても、ただ無駄に兵を失っていくばかりです。それに加えて、秀吉軍が大軍すぎて兵糧が不足するという事態に陥ってしまいます。

そこで浅野長政は「政実をすかして(騙して)」九戸城を落とす策略を提案、実行に移します。


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秀吉軍は政実さんの菩提寺である長興寺(ちょうこうじ。九戸村)の僧・薩天(さつてん)を呼び出して、政実さん宛ての書状を渡して開城の交渉役を命じます。その書状には次のようなことが書いてありました。

「大軍を引き受けて籠城を堅固にして守り抜き、天下を敵にして戦い、本懐は達せられたでしょうか。もう本丸を追い崩して、城兵の首をすべて刎(は)ねるところまできています。願わくは、政実は早く降参して、天下に逆心がないことを申し開くべきでしょう。そうすれば一門や家臣まで、命は助けられ、かつ武勇の噂が(秀吉の)耳に届けば、その武功を褒められて、かえって領地を与えられるかもしれません」

なんとも臭う内容ですね。

弟の九戸実親は、「降参はせずに城を枕に討死すべし」と兄を説得しますが、政実さんは「一命をもって衆の命を替えるは武士の本意である」と、城に籠った者をひとりでも多く救うために降参を受け入れて、自分の命を差し出しました。

そして、剃髪をした政実さんは9月4日に九戸城を出て浅野長政のもとに行くと、突然捕えられ閉じ込められてしまいます。すると、蒲生氏郷は降参の条件をすぐさま反故(ほご)にして、九戸城にいる人たち全員を撫で斬りにするように命じます。

端から信じていなかった弟の九戸実親は二の丸に籠って奮戦しますが、本丸を制圧した蒲生氏郷の軍勢の鉄砲に撃ち抜かれて討死。

秀吉軍は女子ども関係なく撫で斬りにしたり、二の丸に閉じ込めて火を放ち、焼き殺したりしたともいわれています。その伝承を物語るように、1995年の発掘調査では、二の丸の大手門近くで首のない人骨が十数体分発見されています。

みちのくの雄

秀吉軍に騙された政実さんは、7人の城将たちとともに豊臣秀次の陣がある三迫(さんのはさま。宮城県栗原市)まで護送され、そこで処刑されました。享年は56と伝えられています。

政実さんの遺骸は斬首された場所に埋められ、塚が建立されたそうですが、江戸時代になると塚は忘れられていき、荒れ果ててしまったといいます。

しかし、明治時代初期に、とある行者の夢に政実さんが現れたため、何かの暗示だろうと草むらを探索したところ遺骸の埋まった塚が発見され、その供養のために「九ノ戸神社」が建立されています。九ノ戸神社の近くには、政実さんの首級(しゅきゅう)を洗ったとされる「首級清めの池」が伝えられています。

また、政実さんの首は京都の戻橋に晒されたともいわれていますが、政実さんの家臣(佐藤外記)が乞食の姿になって密かに首を盗み出して九戸村に埋葬したとも伝えられていて、今も「九戸左近将監(さこんしょうげん)政実 首塚」が残されています。

首塚の近くにある九戸神社は、九戸家が戦勝祈願をしたとされる神社で、隣には1995年に建立された「政実神社」があり、祭神はもちろん政実さんです。そこからすぐ東には九戸城以前の九戸家の居城だと考えられる「大名舘」や、先ほど登場した菩提寺の長興寺があります。

激戦となった九戸城は、現在整備が進み、堀や土塁、石垣などの遺構を楽しむことができます。さらに、地元では「九戸政実プロジェクト」が発足! 政実さんを活用した観光振興が活発化し、「九戸政実武将隊」(現在は「南部武将隊」に改名)やイケメンの政実さんのキャラクターも誕生しました。

あなたも、戦国史の最後を彩った“みちのくの雄”を訪ねてみてはいかがでしょうか!

※本稿は、『どんマイナー武将伝説』(柏書房)の一部を再編集したものです。