「三淵先生はよく通るきれいなお声で、笑うとふくよかなお顔にエクボができるチャーミングな方」(撮影:宮崎貢司)

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現在放送中のNHK連続テレビ小説『虎に翼』は、日本初の女性弁護士の1人で裁判官にもなった三淵嘉子さんの人生をもとにしている。ドラマでも描かれたように、母校の明治大学専門部女子部は当時の女性が法学を学べる限られた場であった。それから18年、手塚正枝さんはOBの三淵さんの講義を受け、弁護士になった。4人の子を持ち、長女の難聴と向き合いながらも法曹の仕事を諦めなかった、その人生を聞いた(構成:山田真理 撮影:宮崎貢司)

【写真】若い頃の手塚さん。後に夫となる義雄さんと

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三淵先生の言葉には棘がなかった

明治大学は法曹界を目指す女性に対し、その門戸をいち早く開いた大学として知られています。といっても、私は最初から法律家を目指していたわけではありません。第一志望の大学に落ちて、明治大学短期大学部は父に勧められて受けた、滑り止めだったの(笑)。

でもさまざまな出会いやきっかけがあって短大の法律科から明治大学法学部に編入しました。

そのひとつは三淵嘉子先生、久米愛先生といった法曹界で活躍する先輩方が、教鞭をとっておられたことですね。私が通ったのは『虎に翼』の主人公・寅子(ともこ)の学生時代から18年も後。

戦後の学制改革で専門部女子部は短大に改編されており、ドラマのように男子学生から「魔女だ」と囃し立てられることもありませんでした。(笑)

三淵先生はよく通るきれいなお声で、笑うとふくよかなお顔にエクボができるチャーミングな方。なぜ法曹界を目指したか、女性法曹の道をどう切り拓いてきたかを熱く語ってくださったのが印象に残っています。

民法演習などの授業内容もさることながら、戦前の女性に司法試験の受験資格がなかったこと、弁護士資格は取得できるようになっても裁判官にはなれなかったことなどは、先生の講義ではじめて知りました。

きっぱりとしたことをおっしゃるのだけど、言葉に棘がない。法律家には肩ひじ張った職業という印象がありましたが、なってみるのも悪くない、と思ったものです。

もうひとつは、大学構内で「法学研究室」の貼り紙を見たこと。授業でわからないところを教えてくれるのかしら、と呑気な気分で入ったら、なんとそこは司法試験の勉強をする集まりだったのです。

合格者数で制限するのではなく、いい点をとれば誰もが受かる試験。そう思うと俄然やる気が湧き、同世代の仲間たちと切磋琢磨できたものでした。勉強はとても楽しく、生涯の友と友情を育むことができましたし、後に夫となる手塚(義雄さん)との出会いも、この研究室です。彼は私より少し後に入室してきました。

司法試験の合格発表は、手塚と2人で見に行きました。発表を待つ間に入った法務省近くの喫茶店には、映画『シェーン』の主題曲が流れていましたね。合格を見届け、嬉しい気持ちで霞が関から大学のある駿河台まで、一緒に歩いたのもいい思い出です。

ただ、私が弁護士を目指した一番の理由は、両親に親孝行したかったからだったように思います。短大に入学した年の5月、福島で弁護士をしている父が下宿先を訪ねてきて、せっかく法律科に入ったのだから司法試験を受けてはどうかと言うのです。

まだお金に困っている人が多い時代。父が受け取る法律相談の報酬はお米ならいいほうで、野菜ということもよくあり、わが家は経済的に決して豊かではなかった。私の1歳下には弟もいて、それでも両親は授業料も下宿代も高い東京の私大へ私を送り出してくれたのです。

その日、帰る父の後ろ姿を見送りながら、私は申し訳なくて涙が出ました。短大を出ただけでは司法試験の受験資格はないと聞かされていたからです。その後大学に編入できると知り、法学研究室に入室したこともあって、司法試験に合格して親孝行したいと思うようになりました。

父には、知らずしらずのうちに法曹の道に導いてもらっていたのかもしれません。

法律家には多少の反発心があったけれど

私は東京・麻布永坂町で育ちました。二・二六事件(1936年)のとき、流れ弾が飛んでくるかもしれないと、父が畳を上げて備えていたことをおぼろげに覚えています。

小学校に入る前の年に父が応召し、生計を立てるために母は自宅で塾を始めました。「復習塾」と書いた看板を掲げ、着物の洗い張りに使う張り板に脚をつけた即席の机を、2階の座敷にずらりと並べてね。

母は故郷の町でただ1人、師範学校に推薦されたのだそうです。結婚するまで学校の先生をしていたので、昔取った杵柄というわけね。

当時から東京には中学校や女学校入学を目指す受験生がいましたから、通ってくる子どもはたくさんいました。教え方もうまかったようで、立派な鯛やお赤飯といった合格祝いのお裾分けをいただいたのを覚えています。

母は「着物はいくら作っても火事に遭えばなくなってしまうけれど、身につけた教養は振っても落ちない」とよく口にしていました。そういう母の影響もあってか、私には「お嫁さん」への憧れが一切ありませんでした。

いずれ働いて経済的に自立するのが当たり前だと思っていましたし、漠然と母と同じ教員になるものと考えていました。

高校で生徒会を作って活動したり、クラス対抗の討論会に出たりすると、「正枝さんはお父様の跡を継いで弁護士になるのね」などと言われるので、子ども心に法律家には多少の反発心があったのかもしれません。

結局教員ではなく法曹の道に進んだわけですが、その母が肺がんとわかり、余命宣告を受けたのは、司法修習生になって間もなくのことです。

手塚は大阪で、私は東京で修習中でしたが、母を安心させるため、11月に福島の神社で式を挙げ、母の枕元でごく内輪の披露宴をして、また修習地に戻りました。翌年の1月、母は弟の司法試験合格を待たず旅立ちました。

手塚はともに法曹界を目指した仲ですから、私が働くのは当たり前のことと考えていたと思います。

私はいわゆるイソ弁(弁護士事務所に勤める弁護士)をしていましたが、結婚の翌年に長男、3年後に次男、その翌年に三男、4年後に長女、と4人を出産。育児に追われ、仕事はだんだん開店休業状態になっていきました。

<後編につづく>