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地図を読む上で欠かせない、「地図記号」。2019年には「自然災害伝承碑」の記号が追加されるなど、社会の変化に応じて増減しているようです。半世紀をかけて古今東西の地図や時刻表、旅行ガイドブックなどを集めてきた「地図バカ」こと地図研究家の今尾恵介さんいわく、「地図というものは端的に表現するなら『この世を記号化したもの』だ」とのこと。今尾さんいわく、「地形図に避病院の記号が定められたのは『明治33年図式』から」だそうで――。

【図】「明治33年図式」で、病院とは別に定められた避病院の記号

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避病院

伊勢神宮へ向かう参詣客のために明治期に敷設された参宮線(旧参宮鉄道)。この路線の上に今も存在するのが「避病院(ひびょういん)前踏切」である。

ところがこの小さな踏切の周囲を見渡しても、そのプレートに表示された病院などは見当たらない。

一般に踏切は「迷惑施設」としてマイナスイメージで認識されるものだが、踏切に名前があることはあまり知られていない。

そんなわけで踏切名が「実態」を反映していなくても誰も困らず、ずっと前になくなった施設名を今も掲げ続けているのであろう。

そもそも避病院というのは明治期の言葉で、後に「伝染病院」と呼び名が変わり、患者を隔離収容することから「隔離病舎」とも呼ばれた。この踏切もその避病院があった頃に設けられたのだろう。

現在なら「感染症指定医療機関」の病院がこれに該当するようだ。昨今では新型コロナウイルスの世界的な流行で「隔離」はずいぶん身近になったけれど、はるか昔から感染症と付き合ってきた人間社会にとって必要不可欠な施設として存続している。

日本で避病院設置の契機となったのは、江戸時代からすでに流行の記録があるコレラだそうで、他にもペストや赤痢などの感染者を隔離する場所として設けられた。

国会図書館のデジタルコレクションの官報で「避病院」がヒットするのは明治期だけで、最も古いのは明治19年(1886)7月10日付の告示第60号。

東京府知事名で「本所避病院本月十二日ヨリ開院ス」とある。その後は全国各地に設置された。

避病院の用語が使われなくなった理由は、当時は懸命の医療にもかかわらず生きて出てこられない人も多く、しかも江戸弁だと「死病院」に聞こえて縁起でもない、という説もある。

陸軍衛生隊のワッペン―病院

地形図に避病院の記号が定められたのは「明治33年図式」からだが、その前に「病院」の記号の始まりを調べてみよう。

まずは日本初の地形図である関東地方の2万分の1「迅速測図」(明治13年から整備)。この図に病院の記号はないが、その次に関西地方で着手された2万分の1仮製地形図には登場する。


『地図記号のひみつ』(著:今尾恵介/中央公論新社)

明治17年(1884)から刊行が始まったシリーズで、この図の「仮製図式」に用いられた平たいワッペン形に横一文字の病院記号は、日本赤十字社のルーツとされる博愛社が「日章の下に赤線1本」を標章としたことに由来するらしい。

博愛社は日本がジュネーヴ条約に調印した翌年の明治20年(1887)に「日本赤十字社」と改称し、世界共通の赤十字マークを使い始めた。

これに伴って地形図でも明治24年図式では輪郭による十字形(墨の輪郭による白十字)を採用している(図1)。

こちらは一部地域の2万分の1地形図のみに終わったが、その後の同28年図式で登場したのが現在と同じ記号だ(下イラスト)。


<『地図記号のひみつ』より>

ワッペン形に十字のお馴染みのスタイルで、地図が墨1色刷なので赤十字ではなく墨十字。ワッペン形は『地図記号のうつりかわり』によれば「旧陸軍の衛生隊符号」に由来する。

これが現在も病院記号として用いられているものだが、もちろん町医者から大病院まですべてカバーしているわけではない。

このため平成14年図式では「公的機関又は法人が開設する病院をいい、個人病院及び診療所には適用しない」としており、但し書きとして「医療施設が少ない地域においては、診療所等」と定めていた。

しかし現在の最新版地形図が採用する「平成25年図式(表示基準)」では表現がガラリと変わり、「救急病院等を定める省令(昭和39年厚生省令第8号)第2条第1項に基づき告示された救急病院及び救急診療所を表示する」となっている。

地形図のデジタル化でハザードマップなど各種の防災関連地図などに用いられる今、明確な基準が必要になったのだろう。

困った改訂

さて避病院だが、病院の記号とは別に定められたのは明治33年図式であった。この時点ではワッペンのみで十字がないものが「避病院及隔離病舎」(図2)、ワッペンに十字が通常の「病院」とされた。

ところが白いワッペンの意味が通じにくかったからか、明治42年図式でワッペンに十字の従来の「病院」を「避病院及隔離病舎」に転用し(図3)、ワッペンの上辺だけが2重線になった新しい記号を「病院」と定めたのである(図4)。

これはなかなか困った改訂で、おそらく当時から地形図の誤読は多かったに違いない。

ちなみに2重線の新しい病院記号は、大正3年(1914)発行の『地形図之読方』によれば、「陸軍野戦病院符号」に由来すると明記されている。

日露戦争が終わって4年後の図式であるから、203高地あたりに張られたテントに2重線と十字のマークがはためいていたのだろうか。

この記号はその後も大正6年図式および昭和17年図式(ごく少数の図に適用)まで続いたので、戦前の地形図を見る際には注意が必要だ。

記号凡例を見れば両者の区別はわかるが、図の左下の凡例欄で明治42年図式か大正6年図式であれば「現在の病院記号=避病院」と解釈すればよい(大正6年式はその旨記載しておらず、代わりに「符号ノ詳細ハ地形図々式〔別紙として頒布されていた=引用者注〕ニアリ」との一文がある)。

恐るべき人権侵害

病院記号に限らず、「図式」の適用については誤解が多いのでここで解説しておこう。ある地域の地形図を最初に刊行したのがたとえば大正7年であれば、当然ながら「大正6年図式」が適用されるのだが、時代の経過とともに何度かの修正版が刊行される。

戦後になっての応急修正なども同様で、昭和35年に修正版を刊行する場合、本来なら図式を変更して全面的に描き換えるのが理想だが、予算や時間、人員の制約もあって一気には進められない。

そのため「大正6年図式」のまま部分的な修正でしのぎ、ようやく昭和40年代に入って新しい「昭和40年図式」を適用するといった処置が珍しくなかった。

要するに、異なる時代の図式が同時期に混在することをお忘れなく、ということである。

避病院の記号は、ハンセン病患者の収容施設にも適用された。現在は国立療養所に含まれているが、かつては「癩(らい)療養所」と呼ばれ、国による徹底した隔離政策と一般国民の偏見や差別のため、入所者は戦後も長期間の滞在を余儀なくされた。

図3は香川県高松港から約8キロ沖に浮かぶ大島で、当時の呼び名である「癩療養所」と明記されている。

この図は明治42年図式だが、その字の傍らに記されている現在の病院記号と同じ形のものが、当時の避病院の記号である。ただし療養所によっては一般病院の記号で表されているケースもあり、これは個別の病院の相違に伴う判断なのだろう。

昨今では新型コロナウイルスの感染拡大防止のために外出自粛の辛さを多くの人が経験したが、この避病院記号の一郭に住んだかつてのハンセン病患者たちは、自粛どころか一生涯ここから出られないとの悲愴な覚悟をもって入所し、しかも親族に累が及ばないよう亡くなるまで偽名で通した人たちも多い。

それを考えると、あらためて恐るべき人権侵害であったことを思い知る。

陸海軍の記号

戦前の図式では、ある記号に添えて表示する記号があった。古くは「採礦地」の記号に「石炭」や「亜鉛」などの記号を組み合わせるもので、これにより炭鉱や亜鉛鉱山を表していたのだが、病院に組み合わせるものとしては陸海軍の記号があった。

M印が「陸軍所轄」、二重M印が「海軍所轄」というもので、これと病院記号が併置されていれば「陸軍病院」「海軍病院」を意味していた。

戦前の熱海(静岡県)の地形図で見つけたのは、さらに温泉を加えた三つの記号が同居したもの(図4)で、これは温泉療養のために設置された東京第一衛戍(えいじゅ)病院熱海分院であった。

陸海軍の療養所は全国50ヵ所(内訳は結核36、精神3、脊髄1、温泉10)にのぼり、戦後は軍の解体に伴って国立療養所に転じた。

この療養所は現在では国際医療福祉大学熱海病院となっており、当然ながら病院記号が1つだけである。

修羅場をくぐり抜けて傷ついた兵士たちは、ここで相模灘を眺めつつ何を想っていただろうか。

※本稿は、『地図記号のひみつ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。