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 NHK大河ドラマ「光る君へ」第34回は「目覚め」。大和国興福寺(藤原氏の氏寺)の僧らが都に押し寄せ、朝廷に要求を突きつける「非常事態」が描かれました。

【写真】寺側の訴えをはねのけた藤原道長を熱演した柄本佑

 源頼親(清和源氏)は、源満仲(平安時代中期の武将。摂津国多田を本拠としたので、多田満仲とも呼ばれる)の次男です。道長に近侍していました。源頼親は、数回にわたり、大和守に任命され、大和国に勢力を扶植し「大和源氏の祖」となりました。大和国は東大寺や興福寺などの有力寺院が存在し、それは国司(大和守)にとって脅威でした。

 さて、寛弘3年(1006)7月、興福寺別当・定澄は道長邸を訪ね、同寺の僧綱や大衆が都(道長邸や頼親邸など)に押し寄せるであろうことを告げます。それら「大衆の中には悪行に及ぶ者もいるでしょう」との言葉は道長への脅迫と言えるでしょう。それに対し、道長は「そのような僧は、事前に寺の上層部が抑え込むべきである。我が家まで押しかけることは良くない。そうした事があったならば、僧綱といえども在職は難しいだろう。よく考えるように」と返答します。

 しかし、事態は収束せず、大衆2千人ばかりが都に入り、八省院に押しかけたのでした。道長邸には寺の上層部が訪れています。道長は僧侶らの行動を「奇事」とし、怒り心頭でした。そもそも事の発端は、所領をめぐる争いにより、馬允(馬寮の三等官。頼親の郎等)の為頼という男が興福寺領の預を殺傷したことにあるようです。怒った興福寺の僧侶3千人は為頼邸に押しかけ、家を焼き、田畠を損壊したのでした。これにより、国司側と興福寺側が対立することになったのです。

 しかし、頼親や為頼を解任せよとの興福寺の訴えは、道長には認められませんでした。頼親は無罪とされ、為頼の職も停止されることはなかったのです。前述したように、興福寺は藤原氏の氏寺であり、源頼親は道長に近侍する存在。よって道長はその解決に悩み、苦渋の選択を迫られたでしょうが、大衆の強訴を道長は許すことはできず、頼親側に立ったのでした。

 ◇主要参考文献一覧 
・朧谷寿『清和源氏』(教育社、1984)・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(歴史学者・濱田 浩一郎)