池江璃花子 幼少期の記憶を振り返って「周りに左右されない性格は、昔から。オリンピックを意識する前は、ごく単純な気持ちで、何の汚れもなく、ただ楽しいから泳いでいた」
女子競泳で活躍する池江璃花子選手は、2020年の東京五輪を目指していた18歳の時、急性リンパ性白血病と診断された。「絶望しかなかった」という状況だったにもかかわらず、不屈の精神で復活。“パリ五輪に出場する”という目標を掲げ、4年間闘い続けた。先日行われたパリ五輪では、惜しくも100メートルバタフライで準決勝敗退。リレー2種目(混合4×100メートルメドレーリレー、女子4×100メートルメドレーリレー)もメダルには届かなかったが、現在は2028年ロサンゼルス五輪へ向けての意気込みを表明し、歩み続けている。そんな彼女の4年間を記した初めての著書『もう一度、泳ぐ。』が刊行に。今回は、2022年に綴られた記録をご紹介します。
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自分の中で成長した部分
国際大会が延期になってしまったことを結構引きずっていたんですが、最近二つの合宿をして、よいトレーニングが積めています。
一つ目は沖縄合宿で、コーチとは事前に練習回数は1日おきとか、毎日1回という話をしていたんですが、実際は普通に2回練習があったりして、追い込む練習もあったので、まったく楽じゃなくてあれっという感じでした。続く徳島合宿でも、とてもよい練習ができました。
今は体力づくり。1回の練習で4500mから5000mは泳いでいますね。200m自由形も泳ぎたい、泳がなきゃいけないので、持久力アップのために多めに泳いでいます。
日本選手権が終わってからずっと体調がよかったので、気持ちが落ち込んでいる状況でも体はしっかり動いています。
いつもならやる気がなくなると途中で「上がります」って言っちゃうのに、良い感じでメリハリをつけた練習ができている。
今、国際大会のレースがあればいい結果が出ていたかもしれないと思ったりしますが、それでもずっと気持ちが折れずにトレーニングを継続できているところは、自分の中では成長した部分かな。
正直言うと、今モチベーションはないんです。何で頑張っているのかよく分からない。でも泳ぐのが当たり前になっているので、苦じゃないし、頑張ることも嫌いじゃない。気持ちが入らない時は少し抜いたりはしますが。
確かに、そんな状態でよく頑張ってるなと思いますが、今は世界選手権のことなど何も考えずに頑張ってるという感じです。
今年の世界選手権は、オーストラリアの主要選手のうち出ない選手もいるようなので、自分が50mバタフライに出ていたらメダルを獲っていたんだろうなと想像しますが、強い選手が出て、そこで勝負して勝ってこそ本当のメダリストだと思うので、世界選手権のことは本当に水泳選手かとびっくりするぐらい気にしてないです。
練習中に負ける辛さに打ち克つ
3月の選考会のトラウマがあって、今も自信があるわけではないですが、早く強い選手と一緒に練習して、コツコツ自信をつけていかないと、と思っています。
病気から復帰してから東京五輪に出て気づかされたのが、世界と全然戦えない位置にいるということ。
今も、自分一人で練習していて周りがいないので、自分がどのくらい速いのか全然分からない。
海外の選手と一緒に練習することは自信に繋がると思います。(東京五輪でメダルを量産した)エマ・マキーオンと以前オーストラリアで一緒に練習をした時も、意地でも勝ちたいと練習中から思っていて、ほとんど負けなかった。
その後の試合で、横にエマがいても全然怖くなかったし、勝てるという自信があったのは少なからず覚えています。
エマとは早くまた一緒に練習したいですし、彼女も楽しみにしていると言ってくれています。
前にオーストラリアに合宿で行った時に白血病で体調不良になったので、当時一緒に練習していたメンバーもとても心配してくれていました。オリンピックの時に久しぶりに彼らに会えて、話せてよかった。
その場所に行って、あんなこともあったなと色々考える時間も欲しいし、コーチのマイケル(・ボール)にもたくさん迷惑をかけてしまったので、オーストラリアに戻ってもう一回強くなるチャンスがあればいいなと思います。
もし、練習中に負けたとしても、自分の足りないところがたくさん見つかるだろうし、自分が強くなりたかったら練習中に負ける辛さにもどんどん打ち克っていかなければ、その先がないなと。
退院して復帰した時も、周りのみんなに全然勝てなくて虚しくなったりして、辛い経験をたくさんしたけど、もう一度そういう経験をする必要もあるのかなと思っています。
あっという間に大学4年生
大学にはほぼ毎日通っています。前期はあと1カ月半ほどで終わり。ちゃんと単位が取れれば、後期はゼミとかが残っているだけで、大学生活はだいたい終わりです。
『もう一度、泳ぐ。』(著:池江 璃花子/文藝春秋)
大学に入る前の目標が友達を作ることだったんですが、結局まだ誰一人友達を作れずに、あっという間に4年生になってしまいました。大学に行っても水泳部以外は知り合いがいなくて。
周りの人が気にしてくれているのは分かっているんですが、気を遣わせてしまったらちょっと迷惑かなと思ってしまい、自分からは話しかけづらくて。私としては話しかけて欲しいんですけど。
だから大学に行っても、一言も話さないことがほとんどです。水分補給しないと口の中がカピカピになるくらい。
幼少期の記憶
一番小さい頃の泳いでいる記憶は、5歳の保育園の年長の時に、更衣室の前で「選手コースに上がる」と言われたこと。他にはほとんど記憶がないんですが、とにかくすごく楽しかったのを覚えています。
仲の良い友達がたくさんいて、その子たちと会って、練習前にプールの体操場でワイワイ遊ぶのが楽しみで行っていました。
別に速くなりたいという気持ちは一切なくて。他の習い事はたまにサボったりしていましたが、水泳だけはちゃんと通っていました。
小3の時に初めてジュニアオリンピックカップ(JO)に出ました。よく分からないままでしたが3番でした。JOでメダルを獲ったりして活躍し始めて、周りより自分は速いんだということは自覚していました。
練習していても、絶対に誰にも負けないし、男の子にも勝っていたし。楽しかったですね。コーチの話を聞いていなかったりしてよく怒られましたけど。
自分の意見はしっかり伝える
周りに左右されない性格は、昔からでした。
コーチの機嫌を窺いながら泳ぐ選手が周りに結構いて、なんでそういう風になるんだろう?って。私は自分がこうしたいと思ったことを行動に移すし、自分の中では、気持ちが切れたら速くならないという前提がある。泳ぐのは自分だし、速くなる、ならないは自分の問題です。それを誰かに教わったという記憶はないですね。
自分の意見をきちんと述べるところは、多分母の教育もあったり、幼児教室に通っていたからかなと思います。自分の意見を述べないと相手には伝わらない、とずっと言われて育ってきました。
言わなきゃいけないことはちゃんと言って、言わなくてもどうにかなることは言わない。特に水泳に関しては、自分のためになること、自分の体に負担にならないことを優先して発言してきました。
周りには自分の意見を言わない人が本当に多いです。私は、その場で言わずに後から何か言われるのも嫌だし、人伝てに言われるのも嫌いです。
小さい頃、母に言われたことはたくさんあると思うんですが、何も覚えていないんです(笑)。よく喋るし、仲良いんですが、私は他人の言葉が右耳から入って左耳から抜けちゃうタイプなので。
心に刺さっていることがあっても、時間が経つと抜けちゃう。その時に言ってくれる言葉をどんどん取り込んで、それが必要なくなったら、次に変わっていく感じでした。
小さい頃、遊びの一環で、なりたいものをイメージして絵を描くことを幼児教育の講師をしている母に言われてやっていました。
よくオリンピックの表彰台の真ん中にいる絵を描いていたんですが、それも別に本気じゃなかったと思います。イメージするのは自由なので。でもその頃からイメージトレーニングの習慣は体に染みついています。
初めてオリンピックを意識したのは、2015年の世界選手権が終わった後です。それまでオリンピック選手になりたい、と思ってはいなかった。ただシンプルに、同じクラブのライバルに勝ちたいと思って泳いでいました。水泳に関して、ごく単純な気持ちで、何の汚れもなく、ただ楽しいから泳いでいましたね。
※本稿は、『もう一度、泳ぐ。』(文藝春秋)の一部を再編集したものです