1987年公開の映画『ロボコップ』は、警察を主人公にした作品としては異色なほど残虐描写が多い。ポール・ヴァーホーヴェン監督は、なぜそんな映画を撮ったのか。映画評論家・町山智浩さんの著書『〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
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ロボコップ(1987)主演:ピーター・ウェラー、監督:ポール・ヴァーホーヴェン(=1987年7月17日) - AF Archive/Orion/Mary Evans Picture Library/共同通信イメージズ

■主演のピーター・ウェラーは撮影を拒否

1986年7月、猛暑のダラスで『ロボコップ』の撮影が始まった。予定より二週間遅れでロボコップ・スーツが届いた。早朝四時から、主役のピーター・ウェラーのトレイラーで「着付け」が始まった。昼になっても誰も出てこなかった。

夕方4時になって、ヴァーホーヴェンがとうとう業(ごう)を煮やしてトレイラーのドアを叩いた。ロボコップの出来が悪かったら、特殊メイク・アーティスト、ロブ・ボッティンを殺しかねない勢いだった。しかしドアを開けて出てきたウェラーを見て、ヴァーホーヴェンは驚いた。

「素晴らしい!」

それは彼のイメージどおりだった。大喜びの監督はウェラーの手を引っ張った。

「さあ、すぐに撮影しよう!」
「いや、僕は嫌です」

ウェラーは拒んだ。驚いた監督に主演俳優は言った。

「重くて全然動けないんです。まるで『地球の静止する日』(51年)に出てくるロボット、ゴートですよ」

■6000万円のスーツのため、クビにできず

「バレリーナのように軽やかに動けるはずがないだろう。エイゼンシュテインの『イワン雷帝』(44年)を知ってるか。ああいう風にオーバーアクションすればいいんだ」

しかし、ウェラーは頑としてそこを動こうともしない。

「自分であのスーツを着ないくせに勝手なことを言うなと思った」とウェラーは言うが、すでにクランクインから2週間が過ぎていた。ウェラーがスーツを着ないなら、クビにするしかない。裁判に備えて、ウェラーの発言は全部証拠としてビデオに記録された。

「でも、実は絶対にウェラーをクビにはできなかったんだ」と脚本を書いたエドワード・ニューマイヤーは言う。

「製作費6000万円もするロボコップ・スーツはウェラーの体に合わせて作られている。似た体型のスタンドインなら見つかるだろうが、彼と同じ体形で彼と同じくらい有名な俳優を見つけるのはガラスの靴でシンデレラを探すより難しい」

■「ロボコップ動き」をつけたのは世界的巨匠

助けを出したのは、ヴァーホーヴェンの妻マルチーヌだった。彼女の勧めで、名門ジュリアード音楽院でダンスやパントマイムを研究するモニ・ヤキム教授がロケ現場に呼ばれた。この重いロボコップ・スーツで可能な動きをつけてもらうのだ。吹越満の得意芸になったほど有名なあの「ロボコップ動き」は、振り付けの世界的巨匠の作品だったのだ。

「あの動きのせいで、ロボコップは流線形の鋼鉄のスーパーヒーローではなくなった。哀れな金属の男なんだ」

ウェラーは納得して現場に戻った。そして猛暑のダラスでスーツを着て、毎日3ポンドずつ体重を減らしながら熱演した。

■ハイスパート映画となった監督のこだわり

遅くなったのはロボコップの動きだけだった。撮影が遅れた分を取り戻そうと、ヴァーホーヴェンは次から次に撮って撮って撮りまくった。

ポール・ヴァーホーヴェン監督(画像=Georges Biard/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

「私の言うとおりにやれ!」と朝から晩まで怒鳴り散らすヴァーホーヴェンをハリウッドのクルーや俳優たちは嫌ったが、彼の才能には驚嘆せざるをえなかった。

演出において、ヴァーホーヴェンは「リアルタイム・アクティング」を提唱した。台本を読むのと同じスピードで演技を進めろというのだ。つまり、いちいち台本に書いていない描写、立ち上がる、ドアを開ける、拳銃を抜く、それに無言の表情などはすべて省略され、ストーリー上意味のある動きだけが撮影された。

『ニューヨーク・タイムズ』紙は「『ロボコップ』では何かがつねに動いている」と書いた。動きのない会話シーンではステディカムを使ってカメラのほうを動かした。

編集はロバート・アルドリッチやヴィンセント・ミネリなどの巨匠と組んできたベテラン、フランク・ユリオステが担当したが、3秒以上カットが続くと、ヴァーホーヴェンから「長すぎる!」と怒鳴られた。こうして『ロボコップ』は観客に一瞬たりとも退屈する暇を与えないハイスパート映画となり、ユリオステはアカデミー編集賞にノミネートされた。

「『ロボコップ』の映像と編集には強烈な衝撃と影響を受けた」

ジョン・マクティアナン監督は『ダイ・ハード』(88年)のDVDの音声解説でそう言っている。

「『ロボコップ』の映像はつねに動き続けている。ときにはまったく必然性もなくカメラが上昇していくショットがある。でも、それがカッコいいんだ。今ではMTV(音楽のプロモーション・ビデオ専門チャンネル)などで当たり前になってしまったが、当時のハリウッドではまったく文法外だった」

■「映画とガチンコの格闘をするんだ」

ショックを受けたマクティアナン監督は『ダイ・ハード』を任されたとき、カメラマンには『危険な愛』からずっとヴァーホーヴェンと組んできたヤン・デ・ボンを、編集には『ロボコップ』のユリオステを雇った。それ以来、ヴァーホーヴェン流のMTV風カメラワークとハイスパート編集はハリウッドのアクション映画の主流になっていく。

ディスコにロボコップが入る場面で、一瞬だけメガネの男が長髪を振り乱してジタバタ暴れるカットが入るが、それがヴァーホーヴェンだ。

「ヴァーホーヴェンは女房にするには問題がある」。ピーター・ウェラーは苦笑する。

「でも、つねに完璧以上を求める彼の情熱は本当に尊敬するよ。彼は映画とガチンコの格闘をするんだ。『たかが映画じゃないか』なんて気楽な態度じゃない。ヴァーホーヴェンは自分の中にあるヴィジョンを何が何でもフィルムに焼きつけようとする。命懸けでね。一緒に仕事をすると最初は『まともじゃない』と辟易(へきえき)するけど、僕はそうじゃないとわかった。彼はスタートからいきなりトップにギアをぶちこんで爆走するだけなんだ」

写真=iStock.com/Dony
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Dony

■成人指定を避けるため、爆笑シーンをカット

スピードだけではない。ヴァーホーヴェンはバイオレンスのギアもつねにトップだった。

オムニ社の副社長ディック・ジョーンズ(ロニー・コックス)は、死なないし給料もいらない警察官として、ロボットED209を開発する。その完成披露で、実演のため若いエグゼクティブが銃をEDに向ける。

「武器ヲ捨テナサイ。20秒以内ニ」

言われたとおりに銃を置いたのに、EDの20ミリ・バルカン砲は火を噴き、ヤンエグの体はズタズタに引き裂かれ、デトロイト市の模型の上に吹き飛ぶ。当初はこの後に、EDがさらに撃ち続け、弾丸に引き裂かれた死体がグロテスクなダンスを踊るショットがあった。

「試写ではここで爆笑になった。いいギャグだったのに」とヴァーホーヴェンは言うが、MPAA(アメリカの映倫)による成人指定を避けるため、カットせざるをえなかった。

EDの代わりにジョーンズのライバル、モートン(ミゲル・ファーラー)が提出した、殉職した警官の死体をサイボーグとして蘇らせる計画が採用される。「ロボコップ」だ。

■主人公が殺される渾身の描写も短くカット

主人公の警官マーフィー(ピーター・ウェラー)は、クラレンス(カートウッド・スミス)を首領とするギャング団を廃工場に追い詰めるが、逆に捕まって嬲(なぶ)り殺しにされてしまう。まずショットガンで手首を木っ端微塵に吹き飛ばされ、次の散弾で腕を撃ちちぎられる。6人の敵から弾丸の雨を浴びせられて文字どおり蜂の巣のようになったマーフィーは、とどめに脳天を撃ち抜かれる。後頭部に握りこぶし大の穴が開いて脳味噌が飛び散る。

この残虐描写は他のシーンと同じくヴァーホーヴェン自ら細かく絵コンテを描いて設計したものだったが、やはり劇場公開版では短くカットされた。

マーフィーの死体はロボコップとして蘇り、女性をレイプしようとした暴漢の性器をベレッタ93Rの三点バーストで粉砕する。この描写もヴァーホーヴェンが現場で出したアイデアだ。

■「成人指定レベルの残虐描写」と論評

クラレンスの黒幕はジョーンズだった。ロボコップはジョーンズを逮捕しようとするが、オムニ社の社員には危害を加えられないようプログラムされていた。「大企業の資本家は何をしても許され、我々は誰も企業支配からは逃げられない現実を象徴している」とニューマイヤーは言う。逆にロボコップは警察に追われ、SWATから集中砲火を受け、命からがら脱出する。この銃撃も血こそ出ないものの、思わず目をそむけたくなるほど延々と続く。

ジョーンズはロボコップを倒すため、オムニ社の軍事部門が開発した対戦車兵器「コブラ砲」をクラレンスたちに支給する。コブラ砲は実在する長距離狙撃銃バレッタ50口径ライフルだ。コブラ砲で廃工場に潜んだロボコップを狩り立てるギャングたち。そのうちの一人が産業廃液を頭から被って、ドロドロに溶けた化け物になってしまう。

さらに、仲間の車にはねられて木っ端微塵に砕け、車のフロントガラスに溶けた肉片と内臓がベチャッと飛び散る。このシーンは、プロデューサーのデイヴィソンが死守してカットさせなかった。これを観た『ニューヨーク・タイムズ』紙は「成人指定レベルの残虐描写」と書いた。

■キリストと同じように復活した主人公

「マーフィー射殺の描写は徹底的に残虐でなければならない」

ヴァーホーヴェンはその必要性をこう説明する。

「あれはキリストの磔刑(たっけい)を意味しているからだ。まず手首を撃つのは、キリストが手を十字架に釘打たれたことを象徴している」

ヴァーホーヴェンは、悪漢クラレンスにナチス親衛隊のヒムラーを思わせるメガネの中年男カートウッド・スミスをキャスティングし、その子分には「マンガのように凶悪な」顔の俳優たちを選んだ。ボッシュの『十字架を背負うキリスト』に描かれたような顔のギャングたちが笑いながらマーフィーを撃つのは、キリストの鞭(むち)打ちなのだ。

「そして、マーフィーはキリストと同じように復活する。悪に裁きを下すために」

写真=iStock.com/Daniel Christel
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Daniel Christel

しかし、マーフィーは人間としての記憶を失っている。彼は自分が住んでいた家を訪れて衝撃を受ける。

「妻や息子の記憶が蘇るが、彼は過去を取り戻すことはできない。人間として生きることはあきらめるしかない。楽園からは追放されてしまったのだ」

そして、ロボコップは警官隊の銃撃で「もう一度死ぬ」。マーフィーとして蘇るために。

■人間を超越した「復讐の天使」

満身創痍のロボコップはマスクを外してマーフィーの顔を見せる。彼が廃工場に潜んで傷を癒しながら銃の練習をする場面は、『荒野の用心棒』(64年)などマカロニウェスタンでおなじみの場面だ(ちゃんと西部劇には定番の焚き火まである)。クリント・イーストウッドなどのマカロニウェスタンのヒーローは一度、拷問されて死に近づくが、奇跡的に復活し、悪に裁きを下す。そこにはやはりキリストが象徴されている。

ロボコップは射撃の的に、自分の食料であるベビーフードの瓶を使う。「子どもという人間的な希望を捨てる決心を象徴している」とヴァーホーヴェンは言う。ロボコップを生殖器のない存在として造形するようボッティンに命じたのは、もはや人間ではない、復讐の天使として描きたかったからだ。

「クラレンスとの対決で大きな水溜りを歩いて渡るロボコップの足元をよく見てほしい」。ヴァーホーヴェンはDVDの副音声で解説する。「私は水面下ギリギリに板を置いて、その上を歩かせた。だからロボコップは水の上を歩いているんだ。キリストのように」

■キリストは磔刑の後、復活しなかった?

実は、ヴァーホーヴェンは『ロボコップ』製作と並行して「キリスト学会」に出席していた。これはワシントン州セーラムで、ロバート・W・ファンク教授の呼びかけで集まった77人の研究者が、実在の人間としてのキリストを明らかにしようとした研究会だ。この研究会は8年間続き、93年に『五つの福音/キリストは本当は何と言ったのか?』という本にまとめられた。

そこでは考古学的資料に基づいて、「キリストはマリアの長男ではない」「大工として生計を立てていた」「磔刑の後、復活しなかった」などの結論が導き出された。ヴァーホーヴェンは新約聖書のギリシア語版を持って出席し、積極的に発言した。さらに学会の研究結果に基づいた映画『その男キリスト』を企画した。

「実在の人間として、真実のキリストを描きたい。キリストは、2000年にわたって、教会や国家や権力やさまざまな集団に勝手に解釈され、都合のいいように利用されてきたからね」

■キリストとロボコップの決定的な違い

メル・ギブソンの『パッション』(2004年)がキリスト処刑の罪をユダヤ人に押しつける反ユダヤ映画であると抗議を受けながらも大ヒットしたとき、ヴァーホーヴェンもキリストの処刑を映画化したいと発言した。「ユダヤ教の一宗派だったキリスト教がローマの国教となるには、ユダヤ人であるキリストを実際に処刑したのはローマ人なのに、それをユダヤ人の罪に転嫁する必要があった。私はその欺瞞を暴きたい」と言っている。

町山智浩『〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』(朝日文庫)

また、ヴァーホーヴェンはヒットラーが独裁を確立するまでを映画化しようとしたが、それはナチスに加担したカトリック教会とドイツ国民の罪を問うためだった。神の名を騙る者たちを憎み続けるヴァーホーヴェンは、ロボコップを科学が生んだ鋼鉄のキリストとして描こうとした。

落とされた鉄骨の下敷きになったロボコップに、クラレンスは鉄パイプを突き刺す。これはもちろんロンギヌスの槍を意味している。しかし、ロボコップは「もう、お前を逮捕しない」と言い捨てて、クラレンスの喉に情報端末用スパイクを突き刺して処刑する。

「ロボコップはアメリカのキリストだ。アメリカ人は右の頰を叩かれて左の頰を差し出しはしない」

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町山 智浩(まちやま・ともひろ)
映画評論家、コラムニスト
1962年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。宝島社社員を経て、洋泉社にて『映画秘宝』を創刊。現在カリフォルニア州バークレーに在住。TBSラジオ「こねくと」レギュラー。週刊文春などにコラム連載中。映画評論の著作に『映画の見方がわかる本』『ブレードランナーの未来世紀』『トラウマ映画館』『トラウマ恋愛映画入門』など。アメリカについてのエッセイ集に『底抜け合衆国』『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』などがある。
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(映画評論家、コラムニスト 町山 智浩)