「厳しい校則」に対する風当たりは、ここ数年で一気に増している印象を受ける(写真:cba/PIXTA)

このところ、中学校や高校の校則が、頻繁に話題になっている。SNSやインターネット上では、水分補給や髪形、果ては下着の色までも定めた「ブラック校則」をめぐる議論が繰り返され、いまや炎上の常連になりつつある。

とはいえ、かつてはこれほどまでに、炎上の的にならなかった。筆者はネットメディア編集者として、長年のSNS動向を見てきたが、「厳しい校則」に対する風当たりは、ここ数年で一気に増している印象を受ける。

なぜ今になって、批判の声が増すようになったのか。その背景にある理由を考えてみた。

「マナー」で水分補給を禁止、髪型の強制も

直近でいうと、2024年6月中旬には、埼玉県内のとある市立中学校の「水分補給」をめぐる扱いが話題になった。

各社報道によると今春、授業やテスト中には原則として水筒を利用しないことを「マナー」とする、といった文書が配布された。これによって、保護者から熱中症になる危険性もあるため撤回するよう呼びかけがあったといい、この中学校を管轄する市教育委員会も、完全なる水分補給を禁じているわけではない旨を報道機関にコメントしていた。

マナーと表現している以上、校則レベルまで厳格に定められているものとは言えない。ただ、学校から要請されている以上は、従わなければならないとの認識を示す児童や生徒、そして保護者も多いだろう。この事案は、近ごろ話題の「ブラック校則」の一種ではないかといった指摘が、SNS上で相次いでいる。

1〜2年ほど前には、関西地方の私立高校をめぐり、えり足を切りそろえた髪形を強いて、違反した場合には退学処分の可能性もあるとする校則が、「人権侵害ではないか」と話題に。この髪形は数十年前から規定されているものだった。

学校全体で校則として定められていなくとも、運動部などでは部内の「掟」として、顧問やコーチによる厳しい指導が与えられるケースが、しばしば問題視される。つい先日も、中部地方の県立高校で、負けた部員たちに丸刈りを強要したことが報じられていた。

中高生より少し上になるが、筆者の出身大学でもある日本大学の「悪質タックル」問題も、根っこには同様の問題があると考えている。縦社会を必要以上に強いることで、「社会規範よりも、コミュニティー内の秩序を優先すべき」だという価値観が、悪い方向に進んだ結果と言えるだろう。

そもそも校則で縛れば縛るほど、かえって反発したくなるのが、生徒というものではないだろうか。早世した某ミュージシャンが「支配からの卒業」を叫んでから、まもなく40年がたつ。ではなぜ、最近になって、立て続けに問題視されるようになったのか。

「その背景には、時代の変化がある」と言うと、そんなの誰しも気づいていると感じるはずなので、いくつか具体的に挙げてみよう。

「教育」ですべてが許される時代は終わった

まずは、なんでも「教育」と言えば許される時代ではなくなった点だ。これは学校のみならず、家庭でのしつけも同様だが、「あなたの将来を思って、わざと厳しくしているのだ」的な主張が、なかなか受け入れられなくなった。

その要因として、人権や意思が重んじられる時代になったことが考えられる。個人を尊重する価値観が普及するにつれて、権利の強制剥奪と捉えられかねないような指導は、敬遠されるようになってきた。

たとえば「下着の色」を校則で定め、場合によっては教職員によるチェックを行うといった指導は、セクシャルハラスメントの文脈において言語道断だとの意見が、いまや多数派だ。また、運動中に「水を飲むな」といった教育方針も、生存権に関わると、現在ではほとんど支持されていない。

内外からの指摘を受けて、改善に動くのであれば、まだ「時代錯誤だったね」で終わるので、炎上にはつながりにくい。ただ、そこで「アップデートを拒んでいるように思える態度」が表れてしまうと、バッシングの嵐となる。

人権意識の変化は、子どもの話に限らない。教職員についても、これまで「聖職だから」との建前のもとで、過重労働が前提となっていたが、ここ数年ようやく「働き方改革」の一環で、負担軽減を求める声がでてきた。

そこへ来てのコロナ禍だ。コロナ禍以前から進められていた「GIGAスクール構想」が前倒しされる形で、全国の学校にタブレットなど教育用端末の導入が進められた。家庭内から参加するオンライン授業も珍しくなくなった結果、「校舎内での風紀」を前提とした従来の校則は、存在意義が揺らぎつつある。

もっとも感染拡大が収束したことで、「リアル登校」への回帰は珍しくない。しかし自粛を余儀なくされた3年間は、中学でも高校でも、すっぽり学校生活があてはまってしまうほどの期間だ。「新しい生活様式」は、すでに死語になりつつあるが、少なくとも当時は「この変化は一時的な措置ではなく、生涯続くかもしれない」と、先が見えない不安の中で、覚悟していた人も多かっただろう。覚悟を決めてまで変えた習慣なのに、すぐさま「はい、じゃあ元に戻してください」と言われても……と、私であれば困惑する。

そして、ネットメディア編集者としては、SNSの普及にも触れなくてはならない。スマートフォンの普及によって、児童や生徒みずからが「学校の外」を知りやすくなった。その結果、ギャップの可視化が進み、自分の置かれた環境に、強い違和感を覚える子どももいることだろう。より広い視野を持っているはずの保護者も、SNSを通して、自身が「井の中の蛙」だと気づくケースはあるだろう。

わずか20年の間にも、状況は変化している

ここまで見てきたように、旧態依然とした内容の校則は、日に日に批判にさらされている。この状況を打破するためには、子どもたちと保護者、そして教職員が一丸となって、価値観のアップデートを試みるしかない。

筆者は教育の専門家ではなく、教員免許すら持っていないが、「校則」については強烈な原体験がある。校則に抑圧されていたワケではなく、むしろ中学も高校も公立ながら制服すらない学校に通っていた。

私の通っていた都立高校では、「自主自律」を重んじる校風ゆえ、学校側が決めた校則ではなく、みずからが決めた自主規則に沿って生活する形式がとられていた。生徒ではなく「学友」と呼び、受験生を対象に、学友会が主催する学校説明会を行う。そんな母校で筆者は、1つ上の先輩らとともに「学友会則」の全面改定に携わった。

毎週のように会議を開き、条文の1つひとつを眺めていく。「現代にあった読みやすい表現にしよう」との思いから、「於いて」を「おいて」に、「即ち」を「すなわち」に……など、細かい表記までチェックを重ねた。また同時並行で、学友会の役割についても見直し、業務分担を整理したうえで、各委員会を統廃合する作業も行った。いずれも各委員長との議論を繰り返し、全学友を対象にしたアンケートも踏まえて進めた。

この高校時代の経験は、アラフォーになった筆者にとって、「青春期の成功体験」になっている。とはいえ、いま思うと、16歳やそこらの若造にできることは限られている。顧問は一連の流れを見守ってくれていたが、おそらく同僚の教諭からは、「好き勝手にやらせすぎだ」と反対意見も出ていただろう。理解ある教員が防波堤になってくれたからこそ、のびのびと「自主自律」を満喫できた。

あれから20年がたった今、さらに状況は変化していることだろう。当時はスマートフォンもなく、携帯メールと自宅パソコンを駆使する時代だった。SNSでいえばツイッター(現在のX)の誕生直前で、国内にはmixiがあるものの、年齢制限で高校生の多くは禁止されていた。そこからの変化を見ると、わずか20年前の価値観でも、さらなるアップデートが必要に思える。新しい学校のルールは、そのうちじゃなくて、いますぐ必要なのだ。

(城戸 譲 : ネットメディア研究家・コラムニスト・炎上ウォッチャー)