【倉本 聰:富良野風話】インフレ

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もはや数十年近く前のことになる。ユーゴスラビアに紛争が起こる直前で、どういうわけか国状不安定なその国から招待され、深い事情などさっぱり判らず、故・秋山ちえ子さんと僕ら夫妻、訳も判らず珍道中をしたことがある。今にして思えば、かなりヤバ線のご招待だったのだが、何故か観光大臣の肝入りで、もう亡くなっていたチトーさんの別荘を通訳つきで泊り歩くという信じられない豪勢な旅で、北から南まで1週間程廻った。

【倉本 聰:富良野風話】狂暴化

 この時期、思えばユーゴは分裂寸前の相当危険な状態であり、凄まじいインフレの真っ最中で、空港でまず換金したら腰を抜かすような札束を渡されて、もうそれだけでド肝を抜かれた。インフレというものの実態を生まれて初めて体験したわけだが、現在外国の観光客がドッと日本に押し寄せてきて、安イ安イと爆買いする様を見ると、成程今の円安の日本は、当時の彼の国の状態だったのだなァと、ヘンな感慨に耽ってしまう。

 何しろ一寸地方へと廻って夕刻同じ高速道路で元の場所へと戻ってくると、高速料金がもうハネ上がっている。これにはたまげた。

 その晩、食事をした観光大臣にその話をしたら、おどろきもせずこう宣った。

 そうなんです。だからレストランに入ってメニューを決めたら、決めた時点ですぐ金を払いなさい。喰い終わってからだと又値段が上がってます。

 ─! !

 インフレというものの恐ろしさを、ゾッとする程知らされた。

 そういえば、その後何年かして、ニューヨークに何日か滞在した時、名門ホテルのスウィートルームをいとも楽々と取ってくれたのだが、聞けばそのホテルはいつのまにか日本資本に買いとられていたらしい。ロックフェラーセンターを日本が買いとり、悪評ふんぷんだった頃である。

 貨幣価値というものは、まことに恐ろしい。

 経済音痴の僕のような人間は、そんなこと全く興味がないから、そういうものかと信じるしかないが、世界をとび廻っている企業戦士には笑いごとではないだろう。

 そういえばザグレブ界隈の観光地で、いきなり日本人に声をかけられた。どうです? ここらでカネになるネタ、なンか見つかりましたかいな。

 秋山さんが急にキッとしてその男をにらみ、あんた丸紅の人 ! ? それとも伊藤忠? 秋山さんの鋭い目に男はしらけてニヤリと消えた。イヤァねぇ、ああいう日本人がいるから、日本の評判が悪くなるのよ! 秋山さんは男の背中をいつまでも恐い目で睨みつけていた。

 その日、初めて高速道路の料金所付近で殺気だった兵士たちが集合するのを見た。男たちの目は血走っていた。第二次大戦の終戦から何十年。久しぶりに僕は兵士たちが発散する汗と皮革の匂いを嗅いだ。ヨーロッパにはまだ戦争の匂いがあった。

 そして今も、また。