ゲノム編集で「超人」を作ることは許されるのか?…「遺伝的強化」をする前に検討すべき問題

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ダーウィンを祖とする進化学は、ゲノム科学の進歩と相まって、生物とその進化の理解に多大な貢献をした。

一方で、ダーウィンが提唱した「進化論」は自然科学に革命を起こすにとどまらず、政治・経済・文化・社会・思想に多大な影響をもたらした。

新書大賞2024で10位入賞し、たちまち4刷となった、話題の『ダーウィンの呪い』では、稀代の書き手として注目される千葉聡氏が、進化論が生み出した「迷宮」の謎に挑む。

本記事では〈有名なトロッコ問題、判断に遺伝子が関係していた?…「道徳的な正しさの判断」は遺伝するのか​〉に引き続き、遺伝子操作の問題点などについてくわしくみていく。

※本記事は千葉聡『ダーウィンの呪い』から抜粋・編集したものです。

ゲノム編集で「超人」を作ることが許されるのか

現在ではゲノム編集(CRISPR-Cas9)で容易に特定の遺伝子を改変し、希望する遺伝的性質を作り出せるようになっているが、その人間への応用の可否に注目が集まっている。中国では実際に賀建奎(フージェンクイ)のチームが双子の胚の遺伝子を編集し、HIV(エイズウイルス)耐性を持たせた子供を作り出すのに成功したと発表した。ただし中国を始め世界中の科学者がこの行為を強く非難する声明を出し、研究者チームは有罪判決を受けている。

人間も人間社会も人為的な進化が射程に入っている、と唱える人もいる。

生殖細胞系列を遺伝的に改変し、遺伝性疾患の治療だけでなく、既存の人間の能力を増幅させたり、新しい能力を持たせたりする遺伝的強化を試みよう、というのである。技術的な手段によって人類の進化をコントロールし、人類を改良したり、あるいは人類以後の種を進化させたりするべきだ、と主張する者もいる。

情報工学、機械工学、物質科学、生命科学などのあらゆる科学技術を利用して、現在の人間が持つ能力の限界を超えた超人を作り出す、という考えは、トランスヒューマニズムと呼ばれている。生殖細胞系列の遺伝的強化で通常の能力を凌駕する能力を人間に与え、超人類を進化させるというのも、トランスヒューマニズムの支持者が主張する考えだ。

それを許容すべきか、するとしたら基準は何か。判断のために必要なのは倫理と道徳だ。だが事態はそうした既存の規範を超えつつあるのかもしれない。なぜなら私たちは、その倫理と道徳さえ無目的な進化の帰結として相対化し、さらには物質に還元したうえ、部分的にせよ自由勝手に操作する意思を持ち始めているからである。人間の道徳性を高めるために、善悪の意識、共感性、自制心などを操作することが可能かどうか、議論が始まっているのである。

多くの生物学者や哲学者は、重篤な遺伝性疾患の治療を除けば、個人の生殖細胞系列の遺伝的な改良を許容しない立場である。例えば哲学者マイケル・サンデルは、それが人生を贈り物と見なすことを脅かし、ありのままを大切にする意志を損ない、自分の意志の外にあるものを見たり肯定したりできなくなるとして反対している。また、この問題の本質は、子の設計を企図する親の傲慢さ、出生の神秘を支配しようとする衝動にあると主張する。

これに対し、リバタリアニズムの指導的な思想家や哲学者らは、個人の意志による遺伝子の選択と改良には賛同する場合が多い。『種の起源』が出版された1859年に、ジョン・スチュアート・ミルは、著書『自由論』のなかで、個人の自由を権力が妨げるのを正当化できるのは、他者への危害を防ぐ場合だけである、と主張したが、リバタリアニズムは、この「害悪の原則」に基づき、個人の自由と身体的自律性を重視し、擁護するからである。

オックスフォード大学の哲学者で生命倫理の権威、ジュリアン・サヴァレスキュは、ミルが掲げた原則をもとに、個人の自由と自立性は、個々のカップルの選択に拡張できるとしたうえでこう述べる。

「遺伝的な改変による人間の能力の強化は、単に許されるだけではない。強化すべきである。自分自身や自分の子供の能力を遺伝的に強化する倫理的、道徳的な理由が存在する」

サヴァレスキュは、自分や自分の子供の病気を予防し、治療するだけでなく、生活の質と幸福の根本的な向上を目指すべきだと考えている。そのために特定の遺伝子を持つ胚を選ぶだけでなく、その遺伝子の意図的な改良も進めるべきだと主張する。

例えば、認知能力、各種の才能、気質、性格に加え、道徳性、共感力、自制心、罪悪感なども、遺伝的に向上を目指すべき性質に含まれる。現代社会が抱える様々な困難を解決するには、道徳的な向上が必要で、その有力な手段はトランスヒューマニズムだという。仮に人間の生物学的な状態が技術の進歩による変化に服したとしても、道徳的価値の喪失やその損害の見込みはない、と説く。

子供を賢くし、共感力や自制心を育むために効果的な環境に置くのと、子供に薬を与えるのと、子供の脳や遺伝子を直接変えるのと、倫理的な違いはない、つまり環境的な介入と遺伝的な介入との間には、倫理的な違いはないのだという。生物学的な改善策と環境的な改善策に違いがなく、幸福になるための生物学的操作が倫理的である以上、本人の利益になり、合理的で安全であり、最高の人生を送る機会を増やし、不当な不平等や差別が避けられるなら遺伝的強化も、トランスヒューマニズムも人類にとって義務だ、とサヴァレスキュは述べている。

進化を進歩に変える試み

しかし倫理的な問題はさておき、得られた知識を遺伝的強化という応用に移す前に、検討すべき問題が三つある。第1に、果たして私たちは自然──生物としての人間を、どこまで正しく理解できるか、そして正しく理解したという判断、つまり応用を進めるのに十分な科学的根拠があるという判断は、どうすれば可能なのかという点だ。

例えば無限の複雑さを持つ人間の精神活動の解明は容易でなく、因果関係がわからぬまま相関関係だけに基づいた憶測や、再現性に乏しい研究結果も非常に多い。特に個人の道徳性は、時間や状況によって安定しないものである。遺伝的な要因は、道徳的行動の個人差に対し限定的な影響しか持たない、という意見は依然として強い。

第2に、幸福や個人の利益は、多元的であるという点だ。例えば、双極性障害や統合失調症のリスクを高める数千のSNPs(*)が知られているが、それが可能かどうかは別として、これらの遺伝子を避け、受け継がないようにするのは、個人の幸福と利益を高めるだろうか。実はこれらの遺伝子型から求められた双極性障害と統合失調症リスクが高い人ほど、俳優、ダンサー、音楽家、作家などアーティストとして雇用されているか、その組合に所属している確率が高い、という報告がある。不幸のリスクは成功や幸福のポテンシャルと拮抗する可能性があるのだ。

個人や社会の価値観は変化するし、何が幸福かは本人でさえ決められない場合も多いだろう。

そして第3は進化だ。サヴァレスキュによれば、「人類の次の進化は、合理的な進化である。生き残り、繁殖し、病気にならない可能性が最も高く、最高の人生を送る機会が最も多い子供が選ばれる」のだという。

進化は進歩ではない。偶然のせいで、どこに向かうかわからない。不幸な未来が待っているかもしれない。それなら人間の力で進化を進歩に変え、幸せな未来にしてしまおうという意味だろうか?もしそうなら、意図的な遺伝子の選択と改変により、目標も方向もなかった生物進化に、幸福、という目標が与えられることになる。サヴァレスキュはこう述べている。

「これまでの進化は、私たちの人生がいかにうまくいくかと無関係であった。しかし私たちはそうではない」

さて、この言葉の意味は何か、またそれが可能かどうかは別として、人類の進化が進歩でないと気づいただけでなく、それを進歩に変えてしまおうと考えた人々は過去にいた。歴史は問題を解決したり、答えを出してくれるわけではない。しかしどんな考えで何をすれば何が起きるか、何を覚悟しなければならないかは教えてくれる。

功利主義者であるにもかかわらず、現代のリバタリアニズムの規範を掲げたミルは1873年、皮肉にも自伝にこう記している。

「人間の性格の顕著な差異をすべて生得的なものと見なし、その大部分を消えないものと考える傾向があること、そして個人、人種、男女の違いにかかわらず、性格の差異の大部分は環境の違いで生じるだろうし、それが当然だという、動かぬ証拠を無視する傾向が広くあることは、重要な社会問題を合理的に扱ううえで大きな妨げとなり、人類の改善にとって最大の障害の一つだと長い間感じてきた」

というわけで、もう一度19世紀末に戻ろう。努力して得た力は子々孫々に受け継がれる、と考えたスペンサーが、幸福な未来の実現を信じて自助努力による進化を説いていた時代、一方、ハクスリーやその意を受けた者たちが、そうした「進化の呪い」を解いて、そのかわり予測も期待もできない、どこへ向かうかわからない未来の姿を社会に示そうとしていた時代である。

連載記事〈多くの人に誤解されているダーウィンが言った「進化」の本当の意味…「進化」という語を最初に使ったのはダーウィンではなかった「驚きの事実」〉では、ダーウィンが言う「進化」の意味について、くわしくみていく。

※SNPs……一塩基多型。個人間における、ヒトの遺伝情報を担うDNAの塩基配列における1塩基の違い。塩基配列の違いが1%以上の頻度で出現しているとき、その塩基配列の違いを多型と呼ぶ。1%以下である場合は、変異と呼ぶ

多くの人に誤解されているダーウィンが言った「進化」の本当の意味…「進化」という語を最初に使ったのはダーウィンではなかった「驚きの事実」