越前市にある紫式部公園(写真: tabito / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第23回は、紫式部と夫となる藤原宣孝のエピソードを紹介する。

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「光る君へ」が不安視されたワケ

戦国時代のように派手な合戦シーンがあるわけでもなければ、幕末のようにドラスティックな展開があるわけでもない。ただひたすら、藤原道長をはじめとした貴族たちが平和をむさぼった平安時代を舞台にしたドラマに、はたして見どころがあるのかどうか――。

放送前はそんな心配もされた大河ドラマ「光る君へ」だったが、蓋を開けてみれば、紫式部や藤原道長の目線で、平安貴族の人間模様が丁寧に描かれており、実に見応えがあるストーリー展開となっている。ドラマの面白さに引っ張られるように、本連載も多くの読者に読んでもらえているようだ。

前評判で不安視されたのは、何も時代設定だけではない。紫式部が主人公でありながら、清少納言のキャストが発表されれば「2人は会っていないはずでは?」という指摘がなされたり、紫式部と藤原道長が恋に落ちるという展開にいたっては「あり得ない」と一蹴する声も聞かれたりした。

しかし、紫式部と清少納言は、宮仕えの時期が重なっていないことから「面識がなかったのでないか」とされてきたが、「面識があった」と唱える学者もおり、史実は明らかになっていない。

ドラマでのまひろ(紫式部)とききょう(清少納言)の2人は、タイプこそ違えどリスペクトし合える関係はほほえましく、2人の行く末に幸あれ、と思わず応援したくなる。『紫式部日記』にて、紫式部は清少納言を痛烈に批判しているだけに、2人の関係がどう変化していくのかも、ドラマの見どころの一つとなりそうだ。

まひろと道長の恋愛ストーリーも、大胆に脚色しながらも、史実との整合性から大きく逸脱することはなく、「そんなことがあったのかもしれない」と思わせるほど、秀逸な脚本に仕上がっている。

時代考証を担当しているのが、日本古代政治史や古記録学を専門とする倉本一宏氏とあって、最新の研究成果も交えた質の高いシナリオになっているように思う。

実は、式部と道長が恋愛関係にあったとする説は、以前からあるものだ。南北朝時代に成立した系図集『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』では、紫式部の箇所に「御堂関白道長妾云々」とある。ただし、ここでの「妾」の意味合いや、『尊卑分脈』の信憑性については、議論があり、意見が分かれている。

これをもって「式部と道長が実は恋愛関係にあった」とするのは早計だが、「光る君へ」での設定は、それほど無理があるものではないようだ。

世渡り上手で派手好きだった藤原宣孝

では、史実において、紫式部が男女の関係にあったのは誰かといえば、夫となる藤原宣孝である。どんな人物だったのか。

権中納言の藤原為輔と、参議の藤原守義の娘の間に、宣孝は生まれた。紫式部の父である藤原為時は宣孝の父・為輔と従兄弟関係にあたる。また、年齢については後述するが、為時と宣孝は同年配だったと思われる。

さらにいえば、2人は同僚でもあった。永観2(984)年8月、円融天皇が退位し、花山天皇が即位すると、為時は式部丞で六位蔵人に任じられた。約2カ月後に左衛門尉の宣孝も同じく六位蔵人に補されており、2人は接点を持つこととなった。

共通点の多い為時と宣孝だが、生き様や性格のタイプは、ずいぶんと違ったらしい。

為時がなかなか官職につけないなかで、宣孝は備後・周防・山城・筑前などの国司を経験している。藤原道長に誘われた宴席すらも終われば「即帰り」する為時とは違って、宣孝は世渡り上手だったのだろう。

また、長保元(999)年11月11日には、賀茂臨時祭の調楽が行われて、宣孝はずいぶんと活躍したらしい。側近として道長を支えた藤原行成が、その日の日記に次のように綴っている(『藤原行成「権記」全現代語訳(上)』倉本一宏著、講談社学術文庫より)。

「今日、調楽が行なわれた。殿上のあちこち、下侍の前において、盃酒の饗宴が行なわれた。右衛門佐の人長は、甚だ絶妙であった」

右衛門佐とは「藤原宣孝」を指し、「人長」は舞人の長のことをいう。宣孝は何かと派手なことが好きだったようだ。御嶽詣に派手派手しい衣で参拝して、清少納言の『枕草子』で、痛烈にイジられることもあった。

藤原宣孝の求愛をあしらう紫式部

何かと父とはタイプが違う宣孝のことを、式部はどのように思っていたのか。長く不遇だった父の為時がようやく越前守という官職を得ると、式部も一緒に越前へ。現地では、こんな歌を詠んでいる。

「春なれど白嶺(しらね)の深雪(みゆき)いや積もり解くべき程のいつとなきかな」(春ではありますが、こちらの白山の深い雪にさらに雪が積もり、いつ解けるかもわかりかねます)


福井にある紫ゆかりの館(写真: tabito / PIXTA)

どんな状況で詠まれた歌だったのかは、詞書に説明されている。

なんでも式部が越前に下向した翌年、長徳3(997)年に「唐人見にゆかむ」、つまり、唐人を観に行こうと、式部に手紙を送ってきた人がいたらしい。「唐人」とは当時、若狭国に漂着していた70人あまりの宋人のことだろう。

その人はさらに「春は解くるものと、いかで知らせたてまつらん」と式部に伝えてきた。「春は解けるものだと何とかあなたにお知らせ申し上げたい」という意味になり、「君の心も私に打ち解けるべきだよ」というメッセージが込められている。

それに対して、式部が返したのが、前述の「春なれど〜」の歌である。「あなたに打ち解けるなんていつの日になることやら」と、うまく相手をあしらっている。

この相手こそが、のちに結婚する宣孝だとされている。

宣孝の生年は不詳だが、長男の隆光の年齢から逆算して、天暦3(949)年頃に誕生したと推測されている。つまり、このときには47歳頃と思われる。式部は26歳頃なので、20歳ほどの年の差があったようだ。

宣孝には、すでに子をなした女性が3人もいたが、お構いなしに、式部への手紙攻勢はその後も続いた。あるときには、式部がこんな歌を返している。

「くれなゐの 涙ぞいとど うとまるる うつる心の 色に見ゆれば」
(紅の涙などというと、ますます疎ましく思います。変わりやすい心が、この色ではっきりと見えているので)

詞書の解説によると、宣孝の「文(ふみ)の上に、朱といふ物をつぶつぶとそそきて、『涙の色を』と書きたる人の返り事」とある。

手紙の上に朱を振りかけて「涙の色を見てください」と書いてきた人への返事……。宣孝もまた50歳手前にして、なかなかぶっとんだアプローチをしたものである。

式部の返事が冷たいのは、宣孝がどうにも信用ならないからだ。式部は、宣孝が同時に、ほかの女性にも声をかけていると知っていたらしい。「あなた以外にいない」という宣孝に対して、式部はこんな歌も詠んでいる。

「みづうみに 友よぶ千鳥 ことならば 八十の湊に 声絶えなせそ」

近江の湖で友を呼ぶ千鳥さん、それならいっそ、いろんな湊(みなと)で声を絶やさず、あちこちの女に声をかけたらよいでしょう……。

冒頭の「みづうみに」は、宣孝が近江守の娘にもアプローチしていたことを受けてのもの。女好きの宣孝には呆れるばかりだが、あしらいながらもきちんと返歌をしていることから、式部もどこか恋の駆け引きを楽しんでいるように見える。

2年足らずで越前をあとにして京へ

そして式部は長徳3(997)年の年末から長徳4(998)年の春にかけて、父の為時を残して単身で京へ向かう。越前での父との生活は、2年足らずでピリオドが打たれた。

すでに結婚を決意しての上京だったらしい。長徳4(998)年の冬には、式部は宣孝と結婚している。

京での新しい生活のスタートだ。どんな日々が待っているのかと、式部は不安と期待に胸を膨らませたに違いない。だが、その先に待っていた激動の展開は、想像力豊かな式部をもってしても、とても予見できなかったことだろう。


【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)