アドラー心理学で一番大事にしている考え方に「共同体感覚」というものがあります(metamorworks / PIXTA)

「自己啓発の祖」とも言われるアルフレッド・アドラー。彼がおよそ100年前に提唱したアドラー心理学には、ビジネスパーソンの心に響く教えがたくさんあります。そこで岩井俊憲氏の編訳『超訳 アドラーの言葉』より一部を抜粋、再編集しお届けします。

「チームの仲間のために自分はどうすべきか」

アドラー心理学の本質には、「人間とは何か?」という問いがあります。

人間は、個体で考えると弱い生き物です。弱いからこそ群れをつくり、協力し合い、道具を扱うようになったことから生き延びたという人類の種の歴史があります。

ゾウやトラ、クマより弱い人間が万物の霊長になれたのは、集団をつくり、協力し合ってきたからなのです。

そうやって生き延びた人間だからこそ、集団・社会・共同体というものの存在は重要です。

集団・社会・共同体なくして人間はない。それがアドラー心理学の基本にあるのです。

アドラー心理学で一番大事にしている考え方に「共同体感覚」というものがあります。

「共同体感覚」という言葉に耳慣れないものをもつ人もいるでしょう。また、アドラー心理学に関わる本を読んだことがある人なら、「あー、あれだ」と思う人もいるかもしれません。

アドラー心理学では「共同体感覚」という感覚を最重要コンセプトの1つに掲げています。「まず、これを学ばなければいけない」とも言っているくらいです。

ここで言う「共同体」とは、人間の集団のことです。ですから、小さいのであれば家庭や職場がそれにあたります。大きいものですと、地域社会、国家なども共同体です。

共同体感覚とは、共同体にいる仲間の人間に関心をもち、仲間を信じ、仲間の幸せや成長に役立とうとする信頼感や共感、貢献感をいいます。

さらには、所属している共同体に対して「居場所がある」「ここにいれば安心できる」と感じる所属感や感情を指します。

共同体感覚とは、こういった共同体に対する所属感・共感・信頼感・貢献感を総称した感覚・感情のことです。

アドラー心理学では、この共同体感覚を多くもつ人を、「社会のために自分は何ができるか」「チームの仲間のために自分はどうすべきか」を考え、行動できる人だと考えます。

カウンセリングや教育における目標ともみなされ、健全な精神のバロメーターだともいわれています。

アドラー心理学はよく「貢献の心理学」といわれますが、それはこの「共同体感覚」を重要視している姿勢からきているのです。

人間は弱いから目標に向かって努力する

先ほども述べたように、人間は、個体としては「弱い」「不完全」な生き物です。「弱い」「不完全」という意識、それが刺激となって思考や精神を発達させることで生き延びてきたのが人類です。

人間は、鳥のように翼がないから飛行機をつくり、魚のように泳げないから船をつくってきました。

そのため「弱い」「不完全」を補うために、常に、「目標」に向かって努力する行動習性が人間にはあると考えます。

「目標とする姿」と「現状」にギャップがあるからこそ、その目標に近づこうと努力するのです。

人は誰でも進化の可能性をもっている。

目標に向かって努力する。

アドラーは、そう考えたのです。

この「目標に向かって努力する」という習性は、人間の振る舞いや感情においてもそうです。

例えば、ある若手の部下が上司に反抗してばかりだとします。この場合、上司が原因だという人がいます。

しかしながら、同じ上司であっても、反抗する部下もいれば、しない部下もいます。ですので、上司に原因があるわけではありません。

反抗的になるのは、その若手の部下に「働きたくない」という目的があるから。

目的・目標が間違った方向、非建設的な方向にあるだけなのです。人間のどんな行動・感情にも目的・目標がある。

こう考えるのがアドラー心理学なのです。

また、怒りっぽい人で、こう発言する人がいたりします。「ついカッとなって怒ってしまった。あんなことを言うあいつが悪い」。

けれども、「カッとなって怒る」のは、相手が誰でもそうなるわけではないものです。

相手が女性や弱い人ならカッとなったとしても、上司や体の大きい相手ならどうでしょうか。「カッとなって怒る」ことはなかったりするものです。つまり、「怒る」のも相手しだいで、「目的」があるのです。

「怒る」ことの目的は、往々にして「相手を意のままに動かしたい」「相手を変えたい」などです。

人間の感情や行動には、「原因」があるのではなく、「目的」がある。アドラー心理学の基本といえる考え方に、こうしたものがあるのです。

100年たっても「新しい」

アドラー心理学は、100年たっても古びない、むしろ時代がますます追いついてきた感のあるものです。

アドラーは「横の関係」を大切にしていました。上下関係で人間関係をとらえることは、精神的な健全さを失うものと見ていたのです。この考えは、今の世の中にはとてもあった考え方なのではないかと思います。

人間に「役割の違い」はあっても、人間に「上下」はない。これは親と子、教師と生徒、カウンセラーとクライアントでも同じです。

私はよくビジネスマン向けにセミナーや研修・講演を行うのですが、上司と部下は、役割の違いであって人間の立場の違いではないとお話しします。

たまたま上司は、「上司」という役割をもっているだけで、部下より人間として上というわけではありません。人間に上下はないものです。

「心理的安全性」と「共同体感覚」

さらには、今、「心理的安全性」という言葉がビジネスの分野を中心に広がっています。

「生産性が高いチームは、心理的安全性も高い」。Googleが実践していることで有名になった考え方です。意見を言いやすく、お互い協力し合っているような心理的安全性があるチームでは、建設的な活動ができるのではないでしょうか。

この心理的安全性と、先ほどアドラー心理学で大切な概念とお伝えした「共同体感覚」は、非常に近い考え方なのです。

共同体感覚とは、共同体に対する所属感、共感、信頼感や貢献感などを総称した感情・感覚になります。

共同体に対して「居場所がある」「ここにいれば安心できる」という所属感をも含むのです。


(画像:『超訳 アドラーの言葉』を参照し東洋経済作成)

社会の中に居場所がある、この組織にいれば安心だと思える、そういう感覚も大事にしているのです。そういう感覚があるからこそ、人は自分らしさを生かしてのびのびと貢献できるのだといっています。

こうした点から、「心理的安全性」と「共同体感覚」には近しいものがあると感じます。

100年前に語られたアドラーの言葉が、今も新しく受け止められるものであることに驚きを禁じえません。

「貢献の心理学」といわれる理由

人はそれぞれ違って当たり前、もちろん能力にも違いがあり、遺伝的に違うこともあります。個性もバラバラです。

1人ひとり違う人間が集まる共同体であっても仲間に信頼感をもち、自分の役割を果たし、仲間のために何ができるか、社会のためにどうすべきかを考えることが大切なのです。これが共同体感覚です。

この共同体感覚は、「お互い仲良くしよう」「ベタベタしよう」というのとはまた違った考え方になります。信頼関係やパートナーシップがあるうえで、お互いの共通の目的のために自分は何ができるかを考えることといえます。


2023年、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本の野球チームは優勝しました。大谷翔平選手の目覚ましい活躍もあって記憶に残っている人も少なくないのではないでしょうか。

個性も能力も異なるプロ野球選手たちですが、しかしながら、慣れ合うように仲良くしたわけではないでしょう。「仲良くご飯を食べに行って」とか「仲良くお話しして」というわけではありません。

お互いを尊敬し合い、信頼し合い、チームが勝つためには何ができるか。それを1人ひとりが考え、行動した結果ではないでしょうか。

このWBCの例のように、共同体のため、つまり家族のため、チームのため、組織や会社のため、社会のため、「自分は何ができるか」という貢献の視点をとても重要としたのです。

アドラーが「貢献の心理学」と言われるのは、まさにここにあるのです。

(岩井 俊憲 : ヒューマン・ギルド代表)