雪舟がアトリエとしていたとされる雲谷庵跡(筆者撮影)

ニューヨーク・タイムズ(NYT)の「2024年に行くべき52カ所」で3番目に選出された山口市が脚光を浴びている。これまで観光地としての人気、ブランドとはほぼ無縁といっていい存在だっただけに、日本国内では意外性をもって受け止められている。現地を訪問して、その魅力を考えてみた。

混雑せずに京都の雰囲気を楽しめる

NYTに寄稿した日本在住の作家で写真家のクレイグ・モド氏は、人口約19万人の山口市について、非の打ちどころのない庭園と国宝の五重塔がある瑠璃光寺、洞春寺境内の陶芸工房、シックなカフェ、おでん専門店、そして隣駅にある湯田温泉などを紹介。さらに600年の歴史がある山口祇園祭りにも触れ、山口市の魅力について小規模だが混雑せずに京都の雰囲気を楽しめるといった趣旨で綴っている。

実際のところはどうだろうか。新幹線と山口線を乗り継いで到着した山口駅は、県庁所在地の駅とは思えない質素でひなびた感じの駅である。平日ということもあり観光客らしき人の姿はほとんどない。「おいでませ山口へ」というSLやまぐち号の写真をあしらった幟が歓迎してくれる。

まずは駅構内にある観光案内所で資料を入手。スタッフの女性が観光案内図に印を付けながら見どころを丁寧に説明してくれる。NYTの記事の感想とその後の反応を尋ねると「とにかくびっくりしましたけど、いいところを分かってくださっているんだと思うとうれしいですね。記事が紹介された後、各地から資料請求が殺到していますが、実際に訪れる方はまだそう多くはないですね」とのことだった。

コンパクトな街なので歩いて回ることにした。駅前の人通りの少ない街並みを抜けて、「日本の道100選」に選ばれているパークロード沿いにある亀山公園に立ち寄る。小高い丘になっていて、頂上からは山口の街並みを一望できる。

高いビルがほとんどない。山口市の主要部は周囲を山に囲まれた盆地で、室町時代に周防・長門の守護となった大内弘世(24代)が1360年ごろに、政庁を京都盆地に似た山口に移し、京の都に模した街づくりを行った。市内を流れる一の坂川を鴨川に見立てたもので、歴代当主もその街づくりを受け継いだという。

経済力のあった大内氏は明や朝鮮との交易・交流にも積極的で、独自の大内文化を発展させ、室町末期は戦乱で荒廃した京都よりも繁栄し、「西の京」と呼ばれていた。ザビエルが大内義隆(31代)の許可を得てこの地で布教を行ったのは1551年のこと。亀山公園近くにザビエル記念聖堂がある。

大内義弘の供養塔「瑠璃光寺五重塔」

国宝の瑠璃光寺五重塔を目指して、初夏にはゲンジボタルが乱舞する一の坂川沿いの路を歩く。川の両岸にソメイヨシノが約200本植えられている。瓦屋根の趣のある家並みが続き、週に1日だけ営業しているという隠れ家のような焼き菓子店もある。のどかで素朴な一帯の光景に目をやると、京都の北白川や大原あたりを歩いているような気がしてくる。そうこうしているうちに瑠璃光寺がある香山公園が見えてきた。

お目当ての瑠璃光寺五重塔は1442年、大内義弘(25代)の供養塔として建立された。現在は「令和の大改修中」で、特別にデザインされたシートで覆われている。実寸大の五重塔が白抜きで描かれている。塔影の池のほとりに続く「思想をめぐる道」には和歌のカーテンゾーンが設置されている。


修復中の瑠璃光寺五重塔(筆者撮影)

池を挟んでカーテンゾーンの反対側には全長27メートルの時代絵巻が展示され、大内家の歴史を学ぶことができるようになっている。日本三名塔(法隆寺、醍醐寺、瑠璃光寺)の一つと言われる五重塔の実物を拝見できないのは残念だが、全面改修に伴うさまざまな仕掛けで大内文化を堪能することができた。瑠璃光寺五重塔は山口市観光のハイライトといっていいスポットだが、京都の有名寺院のような混雑とは無縁で、ゆっくりと自分のペースで鑑賞できる。

次に向かったのは、室町時代に活躍した水墨画の大家で禅僧でもあった雪舟がアトリエとしていたとされる雲谷庵跡。京都の相国寺で僧になり、絵を学んだ雪舟は37歳のころ山口に来て、大内氏の後援を受け、雲谷庵に住み始めた。1467年、48歳の時に遣明船で明に渡ったが、1469年に帰国し、再び雲谷庵に居住して多くの弟子を指導。そして1486年、67歳の時に国宝「四季山水図」をここ雲谷庵で描いたのである。

1506年に87歳で生涯を閉じた後、大内氏の後を継いだ毛利氏が、雪舟の画脈が途絶えることを惜しみ、雲谷宗家にこの地を与えたが、明治期の廃藩後に雲谷庵はなくなってしまった。明治17年に有志が古い社寺の古材で庵を復元し、現在に至っている。

雲谷庵跡の内部の様子

茅葺屋根の庵は、見学自由。戸を開けて内部に入る。居室は2つのみでいたって簡素。奥の部屋には囲炉裏があり、雪舟の肖像画が掛けられている。ひとりでたたずんでいると、時空を超えて大家が筆を走らせているシーンが思い浮かんでくるようだ。歴史のロマンを感じる空間だ。庭にある高台に上がると瑠璃光寺五重塔を眺めることができる。雪舟も眺めたのだろうか。

ちなみに雲谷庵跡がある一帯の地名は「天花(てんげ)」という。なんとも優雅な響きがあるではないか。


雲谷庵跡の内部の様子(筆者撮影)

もう一カ所、ぜひとも訪れたいスポットがあった。雲谷庵跡と道を挟んだ場所にある「菜香亭」である。明治10年の創業から平成8年まで著名人に親しまれてきた料亭を移築復元した建物で、明治、大正、昭和、平成の歴史の舞台となった。

菜香亭の名付け親である明治の元勲・井上馨の還暦祝い、伊藤博文の夜会などが行われるなど「山口の迎賓館」として存在感を放ってきた。大広間には伊藤博文、山県有朋から佐藤栄作、安倍晋三など県出身の政治家の書が並んでいる。明治以降の政治家や文人たちの交友を通じた歴史の断面が刻み込まれた現場をじっくりと見学したかったのだが、あいにく休館日でかなわなかった。


山口の迎賓館「菜香亭」(筆者撮影)

種田山頭火が居を構える

再び一の坂川沿いの道をぶらついていると、種田山頭火の句碑が目に留まった。

おいとまして 葉ざくらの かげがながく すずしく

昭和9年(1934年)頃、山頭火が参加していた後河原(一の坂川が流れるあたりの地名)の旧家での句会で詠まれた一句のようだ。句碑の解説には、漂泊の俳人・種田山頭火は後河原をこよなく愛したとある。


種田山頭火の句碑(筆者撮影)

西日本を中心に放浪の日々を送っていた山頭火が1932年、50歳の時に小郡町(現山口市小郡)に「其中庵」を設けた。その家を事前に見分に出かけた際の様子を、山頭火はある随筆の中にこう書き残している。

山手の里を辿って、その奥の森の傍、夏草が茂りたいだけ茂った中に、草葺の小家があった。久しく風雨に任せてあったので、屋根は漏り壁は落ちていても、そこには私をひきつける何物かがあった。私はすっかり気に入った。

漂泊の旅を続けてきた山頭火は、こうして生まれ故郷・防府に近い小郡に居を構え、この地に6年間とどまって4つの句集を出版するなど充実の日々を送ったとされる。

雪舟と種田山頭火。歴史に名を残した2人の文化人が、自然豊かで文化の香りが色濃いやまぐちの地をこよなく愛したということだ。ちなみに明治40年生まれの詩人・中原中也もこの地の出身。下宇野令村(現・山口市湯田温泉)生まれで、山口中学校(現山口県立山口高校)に通っていた。

一の坂川沿いには気になるカフェや日本茶の店などが点在しているが、訪れた日はいずれも定休日だった。桜の時季にこのあたりで一服しながら景色を眺めるのは最高だろう。

カフェをあきらめてしばらく進むと、「日本一 揚げたてホカホカ 山口名物 全国手造りコロッケコンクール金賞受賞」というコロッケ店(肉屋さん)をみつけた。買い物を終えて出てきた女性に「おいしいんですか」と聞くと「ええ、とっても」と微笑んでいる。これは食べるしかないだろう。

店内のコロッケコーナーには、昭ちゃんコロッケ、ハムコロッケ、牛すじコロッケ、ミンチカツなど揚げ物類がずらり。注文すればその場で揚げてくれる。1個130円の牛すじコロッケを購入し、歩き食い。ほんのり甘く牛すじの香りが口の中で広がる。思わぬめっけ物に遭遇し、得した気分だ。

今回は時間がなくて訪れることができなかったが、一駅隣には約800年の歴史をもつ名湯・湯田温泉がある。中原中也記念館のほか、「狐の足あと」という情報発信スポットがあり、ここでは足湯につかりながら地酒や地元食材を使ったスイーツを楽しめるという。

歴史の舞台になってきた土地

「西の京 やまぐち」を歩き回って感じたのは、室町と明治維新という2つの大きな歴史の舞台になってきた土地がもつ歴史の奥行きの深さと、雪舟や山頭火が愛した素朴で趣のある自然と街並みの居心地の良さ、文化の香りである。

今はまだ観光客が少ないので、そうした街の魅力を静寂な雰囲気のなかで体感できる。SLやまぐち号で津和野まで足を延ばすのもいいかもしれない。大内一族が築いた西の京。ゆっくりと時間をかけて、季節ごとに楽しんでみたい土地である。

(山田 稔 : ジャーナリスト)