台湾の民主化のために戦ってきた民主化運動の闘士・施明徳さんが亡くなった。写真は2006年9月、当時の陳水扁総統の政権腐敗を批判、退陣を求めるデモを主導した施明徳さん(写真・AFP=時事)

台湾の総統選挙が2024年1月13日に投開票が行われ、民主進歩党(民進党)の頼清徳・副総統が40%の票を獲得し、中国国民党の侯友宜・新北市長、台湾民衆党の柯文哲・前台北市長を破って当選した。

その余韻も冷めやらぬ2日後の1月15日、1人の台湾の革命家が亡くなった。施明徳さん(享年83)。1993年から1996年まで、野党時代の民進党主席を務めた人物だ。台湾の民主化運動を推進したリーダーの1人でもある。

彼の死には、総統選挙に出馬したすべての候補者をはじめ台湾の与野党の代表的な政治家が立場を超え、こぞって弔意を表明した。施明徳さんがいかに台湾社会から敬意を集めていたかを物語っている。

獄中に25年「台湾のマンデラ」

「台湾のマンデラ」。施明徳さんはこう呼ばれることがある。3回、延べ25年5カ月の投獄期間は、反アパルトヘイトで投獄された南アフリカの故マンデラ大統領の27年間に匹敵するためだ。

戦後の国民党政権と蒋介石一族による専制政治を倒すため、台湾独立運動に身を投じたため、彼は政治犯として投獄された。詳細は後述するが1979年の反政府運動「美麗島事件」で反乱罪に問われて無期懲役の判決を受けて服役していた施明徳さんは1990年5月20日、李登輝総統が第8代総統に就任したこの日に特赦を受けて釈放される。

釈放後は、国民党に対抗する勢力として戒厳令時代の1986年に成立していた民進党に合流し、まもなく主席(党首)に就任する。こうして、施明徳さんは反国民党・民主化運動の盟主となった。

筆者は施明徳さんを「革命家のロマンを持つ実務家」だと考えている。そう思うのには、個人的な思い出もある。

1995年、私は当時、民進党主席だった施明徳さんをインタビューした。今と違って当時は日本の政界やマスコミ、研究者の間で、民進党に対する関心はほとんどなかったと思う。

施明徳さんを紹介してくれたのは、私がお世話になっていた知り合いの元政治犯だった。この人も有名な台湾独立運動の1つ、廖文毅事件で投獄された陳さんという人だ。

施明徳さんの話の内容も興味深いものだったが、強く印象に残ったことがある。党主席として分刻みの忙しいスケジュールの中で、約束の開始予定時間から遅れてインタビューが始まった。忙しい人だから、筆者もできるだけ質問を簡単にして聞いていった。

革命家の厳しいまなざし

しばらくすると、「記者会見をやっているから来てほしい」と部下が主席室に入ってきた。ところが施明徳さんは「取材を受けているから邪魔をしないように」と言いつけた。記者会見がとっくに始まっていて、誰もが主席の登場を持っていたのだ。

その後もう一度部下が呼びに来たが、今度は「記者会見には出ない」と部下を追い出してしまった。

記者会見をすっぽかしてまで話を聞かせてもらって恐縮したものだが、施明徳さんはじっくりと話してくれた。この革命家には、話したいことがあふれているのだと感じた。笑顔をたたえながら、とてもフレンドリーな話しぶり。当初の約束通り1時間たっぷり話を聞かせてくれた。


1995年、筆者が施明徳さん(左)とインタビューした当時の写真(写真・早田健文)

ただ、時折見せる、にらみつけるような鋭い目つきにドキリとさせられることがあった。ああ、これが25年以上も牢獄にいた革命家の目なのだな、と思ったものだ。

このインタビューの内容は、私が当時発行していた雑誌『台湾通信』に掲載した。この記事を民進党が中国語に翻訳して印刷し、施明徳さんの主張を伝えるテキストとして使ってくれたと聞いた。彼の役に立てたことが、筆者としてとてもうれしかった。

インタビューは、1995年の立法委員(国会議員に相当)選挙や1996年の台湾初の総統直接選挙を控えた時期だった。そのため、李登輝総統が率いる国民党に対する批判や国民党と民進党の共通点と相違点、政局運営に関する理念と分析などが中心だった。

このとき、1人の革命家は、議会政治によって「連合政府」を目指す実務的な政治家に変わっていた。また、中国との関係について「あの土地はわれわれのものではない」という言葉が印象的だった。

そして、日本との関係についても意見を聞いた。「これはもう過去のことですから、われわれとしても蒸し返すつもりはありませんが、民進党が設立される前、日本政府は一方で中国の圧力の下、もう一方で国民党との協力において台湾の反体制運動を抑圧しました。これはすべて記録に残っていることです。しかし、これをわれわれはもう気にしないことにしています」と述べたことが印象に残っている。

理念を冷静に語ることができる政治家

この発言から、当時の日本政府が台湾の反国民党運動に対してどのような態度を示していたかを如実に物語っている。

このときの施明徳さんの見方は、その後の経緯から正しかったものもあれば、そうでないものもあった。理想に終わったものも少なくない。

しかし、過去と将来を見据えてきちんと理念を語ることができるこのような人物がいたことは、民主化の過程の真っただ中にあった当時の台湾社会の希望に満ちた時代的雰囲気を表していたのだと思う。今の台湾に、このような政治家はまず見当たらない。

2000年に民進党の陳水扁総統が当選した後のことだった。筆者はあるテレビ局で出演を待っている施明徳さんにばったり出会ったことがある。民進党を離れ、お供の人と2人だけでベンチにポツンと座っていた。

一度会っただけの外国人のことは覚えていないだろうと思い、おそるおそる施明徳さんにあいさつをした。だが彼は、私に満面の笑みで応えてくれた。その楽観的な笑顔に、長年投獄された悲壮感は微塵も感じられなかった。

残念なことに、私はこれを最後に施明徳さんには会っていない。いつかまた話を聞きたいと思いながら、そのままにしていたことが悔やまれる。時が過ぎ、そして施明徳さんはこの世を去ってしまった。

施明徳さんの人物をもう少し追いかけてみよう。彼は日本植民地時代の1941年、台湾南部の高雄で生まれた。名前の「明徳」の日本語読みである「アキノリ」から、「ノリ」というニックネームで呼ばれていた。

1945年、日本の敗戦で中華民国の統治下に移った台湾では、国民党による専制政治が敷かれた。1947年に発生した国民党による台湾住民を虐殺した二・二八事件、それに続く「白色テロ」と呼ばれる政治的弾圧が続き、長期にわたる戒厳令下で言論の自由は奪われた。

こうした中で施明徳さんは陸軍軍官学校に学び、軍人となる。「武装蜂起で国民党政権を倒すためだった」と、本人は後に話している。1962年、22歳で少尉として金門島で服務中「台湾独立聯盟事件」で逮捕され、反乱罪で無期懲役の判決を受ける。

「美麗党事件」のリーダー

1975年に蒋介石総統が死去し、それにともなう恩赦で減刑され1977年に釈放される。釈放後、ただちに「党外運動」と呼ばれる反国民党運動に参加し、反国民党運動の人々が結集した「美麗島」雑誌社の総経理(社長)となる。

そして1979年、その「美麗島」雑誌社が高雄市で主催した集会が、軍・警察と衝突して鎮圧を受けることになる。台湾の民主化の過程で最も重要とされる事件「美麗島事件」だ。この事件は台湾社会に大きな影を落とし、国民党政権に反対することは危険だと庶民は恐れるようになる。

この集会で総指揮を務めた施明徳さんは、事件の首謀者として指名手配される。手術で顔まで変えて逃れようとした逃亡劇は有名だ。しかし最後には逮捕され、軍事法廷で再び無期懲役の判決を受ける。

この美麗島事件に連座した人たちや、この裁判で彼らの弁護を引き受けた弁護士たちはその後、初期の民進党の中核を担うことになる。

施明徳さんは冒頭で述べたように李登輝総統の就任に合わせて釈放され、反国民党運動を結集した民進党に合流し、やがて主席を務めることになる。施明徳さんが服役していた間に民進党が結成され、38年間の長きに及んだ戒厳令も1987年に解除されていた。時代の雰囲気は大きく変わっていた。

1996年に実施された台湾初の総統直接選挙を指揮したが、国民党の李登輝総統に敗北し、施明徳さんは引責辞任した。1993〜2002年にわたり、立法委員を3期務めている。

そして迎えた2000年の総統選挙で、民進党は陳水扁氏を候補に立て戦後初の政権交代を果たし、ついに民進党政権を誕生させる。これを見届けた施明徳さんは当選の当夜、「国民党政権を倒すという子どものころからの夢が実現した」として民進党を離党する。

その後、無所属として立法委員や高雄市長などの選挙に出馬するが、当選はできなかった。もはや過去の政治家と思われていた施明徳さんが、再び台湾政治の表舞台に立つのは2006年のことだ。

かつての同志・陳水扁総統の辞任を要求

当時、陳水扁政権は、2004年に再選されて2期目に入っていた。しかし腐敗が深刻化し、汚職が相次いで暴露され、それは陳水扁総統の家族にも及んだ。施明徳さんは陳水扁総統に対して公開質問状を送り、国家の最大の危機を招き人民の信頼を失ったとして、総統辞任を要求した。

この退任要求運動は多くの賛同者を集め、総統府前に陣取っての座り込みに発展し、それが2カ月余り続いた。この運動の参加者は誰もが赤い服を着たため、「赤シャツ軍団」と呼ばれた。

この年の10月10日、台湾では双十国慶節とされる祝日に、総統府周辺などでは陳水扁総統の退任を求めて150万人が集まった。台湾の民主化後の大衆運動としては最大規模のデモだった。ただ、これだけ大きな運動ながら、施明徳さんはこれを流血なく終わらせた。

一方で、自分が関わり、育ててきた民進党の総統を自ら引きずり降ろそうとした施明徳さんに、元の仲間たちから多くの批判が集まった。

運動を支持する人も多かったが、民進党支持者からは強い反発も受けた。施明徳さんはそれでも手を緩めることはなかった。このとき、施明徳さんはあるメディアとのインタビューで、こう語っている。

「2000年に平和的な政権交代が実現したとき、民進党が長年主張した不正・不公平の是正や社会正義の実現などの理想が実現されると期待した。しかし、陳水扁らは政権を取るや民進党の理想を放棄し、自分たちの利益獲得のみに狂奔している。金権政治も、国民党の李登輝時代よりも深刻になった」
「絶対的な権力は必ず腐敗を招く。初めて政権を手にした民進党は、政策決定や人事任命の制度を無視し、さらには踏みにじった。結果、陳水扁が重用するのは自分の身内や腹心、あるいは擦り寄ってくる者のみ、という事態が発生した。このような人物は権力の誘惑に抗う術がない」

2008年の総統選挙では、馬英九氏を擁した国民党が再び政権を獲得し民進党は下野した。施明徳さんたちの運動が陳水扁総統を退任にまで追いこめなかったが、この運動が民進党の権威を失墜させた。それが国民党への政権交代を後押しすることになった。

2016年の総統選挙で現在の蔡英文総統が誕生し、再び民進党が政権を獲得した。この選挙に施明徳さんは、無所属候補として署名を集める方式での出馬を目指した。しかし署名が規定数にまで達せず、出馬はできなかった。

ここで施明徳さんが主張したのは、やはり「連合政府」だった。和解こそが台湾を救う唯一の道だと考え、各党派が手を結ぶよう呼びかけた。

反中ではなく共存を主張した

そして中国との関係では、「大一中架構」なる構想を提示した。これは、中華民国と中華人民共和国の上に共同で1つの不完全な国際法人を組織し、双方が関心を持つ事務を共同でコンセンサスを築きながら処理する、という考え方だ。

施明徳さんはかつて、台湾を中国から切り離すために中国文化を代表する台北故宮博物院の文物を中国に返還しようと主張した。一方で、中国福建省のすぐ沖に位置し、かつて台湾と中国の間で激しい争奪戦が繰り広げられた金門・馬祖を非軍事化し、中台間の懸け橋にしようと主張した。

さらには、国民党から分裂した中国との「統一派政党」と言われた「新党」との連合を模索し「大和解」しようと呼びかけた。人々の意表を突く奇抜なアイディアを次々に打ち出して、賛否両論を引き起こした。

台湾独立を追求し続けた施明徳さんだが、決して反中国ではなかった。むしろ共存を求めていたのである。そのために、さまざまな手を考えた。これは、反中で硬直化した今の蔡英文政権とはまったく異なっている。

施明徳さんは理想家でありながら、あくまでもリアリストだった。それこそ実は、台湾の多くの人たちが持っている性格でもあったはずなのだ。

これまでの8年間、現在の蔡英文政権は「抗中保台」、すなわち「中国に対抗して台湾を守ろう」と呼びかけることで支持を集めようとしてきた。このため台湾の人々の間に反中感情が高まって中国との対立が深まり、中国からの圧力が強まっている。

最大の貿易相手である中国大陸を罵り続けることで、経済的な不利益をもたらした。台湾内部を振り返ると、景気は低迷しており、低賃金は長期化した。

一方で住宅価格は高騰を続け、若者は家を買えず自分の将来を見通せなくなっている。そして、複雑な社会構成から成る台湾社会で、社会グループ間の対立はさらに深まった。

「民主の勝利」は正しいか

それに加えて、与党である民進党の腐敗やモラル低下は顕著になり、スキャンダルが続出した。成功した政策は見当たらず、当初は高く評価されたコロナ対策も、最後は感染の大拡大を引き起こした。

しばしば評価されるアジア初の同性婚の法制化も、実は民進党の功績ではなく、むしろ台湾全体レベルで行われた住民投票による結果という側面が強い。

こうした中で、今回の総統選挙では頼清徳氏が当選し、これから4年間、さらに民進党政権が続くことになった。頼清徳氏は勝利宣言で、「民主の勝利だ」と叫んだ。しかし得票率は40%だ。

事前の世論調査の多くで、有権者の6割が政権交代を望んでいると出ていたが、これがちょうど野党勢力の票を合わせた得票率になっている。野党の一本化失敗で転がり込んだ「4割総統」の誕生は、有権者が民進党の蔡英文政権に不合格点を付けたことを意味しないだろうか。

今回、若者の多くが新興勢力の民衆党の柯文哲氏を支持したが、これは民進党への批判票だと考えられている。

「民主の勝利」。日本のマスコミが総統選挙報道で喜んで引用したこの言葉だが、それは正しいのか。民進党が勝利すれば民主の勝利であり、野党が勝利すればそうではないのか。

なぜ今さら台湾で民主を叫ばなければならないのか。台湾は少なくとも1996年には総統直接選挙を実施し、形式的には民主制度を実現している。

現在の台湾の問題は、どのような民主主義にレベルアップさせるかであって、形式的な選挙民主主義からどう脱却するかだ。とくに2大政党である民進党と国民党の長期的な対立の弊害は、「悪闘」として批判されている。

世界に民主主義国はざらにあるが、その民主主義国でも問題はある。中国の一党制と比較して台湾は民主主義だと威張ったり、褒めたりすることは台湾にとって禁物だ。それが本当に民主主義なのか、問題はどこにあって、どう解決すべきなのか。

スローガンを復唱するだけでなく、細かな検証がなければ、台湾の衰退を加速させることになる。それはまさに、民主主義の腐敗を叫んだ施明徳さんが、陳水扁総統退任要求運動のときに呼びかけたことではないだろうか。

現在の民進党に真のリアリストはいるか

「民進党は変わった。昔は施明徳さんや許信良さん(施明徳さんの前後に民進党主席)たちのような尊敬できる人たちがいたのに、今は利益集団になってしまった」。これには、当時を知るほとんどの台湾の人が賛同する。

日本はどうか。反中感情に基づき、中国の対極として台湾を手放しに褒めそやす傾向が最近は強い。日本が台湾を重要なパートナーだと考えるのであれば、そんなことでは台湾に対する本当の理解、台湾との正常な関係構築を阻害することになる。

「民主主義という価値観を共有する」という空虚な言葉が飛び交うが、では台湾の民主主義の中身がどのようなものなのか、考えての発言なのだろうか。

日本は、中国との関係ばかりで台湾を見過ぎだ。とらえどころのない14億人の巨大な中国大陸に比べて、人口2300万の台湾が理解しやすいと考えるのは間違いだ。

「親日台湾」という日本人の認識にも、より深い検証を加えなければ台湾の人々の真意は読み取れない。台湾社会の複雑さは外部の人間からはわかりにくい。

台湾の複雑さを理解することの難しさは、日本人にとってだけのことではない。単純に「統一」だとか「同胞」だとかの目で台湾を見がちな中国の人たちが、台湾の人たちの複雑な心情を本当に理解することは、いかに台湾に対する知識が豊富にあったとしても、極めて難しい。

施明徳さんは、台湾の民主化を進めるために命を懸けた。一生、権力に対して戦い続けた。しかもスマートで格好よく、そして楽観的に。その彼が今の民進党や国民党を、さらに民衆党を、そして台湾を、中国を、日本を見たら、いったいどう思うだろうか。

施明徳さん死去の知らせを聞いて、深い感慨に浸ってしまった。台湾の尊敬する「革命家のロマンを持つ実務家」の冥福を祈る。

(早田 健文 : 在台湾ジャーナリスト、『台湾通信』代表)