夕張市の夕張シューパロダム。現在は無人の地域となっている(写真:Graphs/PIXTA)

郵便番号はあるのにそれを用いる住人がいない、現在の地図上に存在しない「幻の地名」。かつては人が住んでいたその地が幻の地名となるまでに、どのような歴史があったのか。地図研究家の今尾恵介氏が解説します。

※本稿は今尾氏の新著『地名散歩 地図に隠された歴史をたどる』から一部抜粋・再構成したものです。

おそらく書く人がいない郵便番号「454-0944」

名古屋に「大蟷螂町(だいとうろうちょう)」という町がある。市域の西側に位置する中川区で、庄内川に面した所だ。江戸時代から大蟷螂村と称する歴史的地名だが、蟷螂はカマキリのことだから、思えば珍しい地名である。

『角川日本地名大辞典』によれば「(地名は)大棟梁により、往古(おうこ)熱田神宮の宮大工が住んでいたことにちなむという」とあって、なるほど転訛したのかと納得しそうになるが、偉大なる大工の棟梁が「大カマキリ」に転じた経緯はよくわからない。あるいはカマキリ顔をしていたからか。

郵便番号は454-0944であるが、この番号を書く人はおそらくいない。全域が河川敷だからだ。

なぜこんなことになったかといえば、旧大蟷螂町のうち人が住むエリアだけ昭和57年(1982)に字の異なる「大当郎」その他に変更されたためだ。

蟷螂の字を他人に説明するのに骨が折れるという意見に従ったとも想像できるが、そちらの郵便番号は1番違いの454-0943となる。このように河川敷だけに残っている幻の地名は全国を見渡せば意外にある。

夕張炭鉱の終わりとともに消えた町

かつて炭鉱の町として栄えた北海道夕張市は昭和35年(1960)に最大人口の11.7万人を記録したが、令和5年(2023)7月末日現在は6593人と約18分の1に激減した。もちろん戦後の「エネルギー革命」で石炭需要が大きく落ち込んだためであるが、特に山深い地域では閉山がそのまま町の終わりに直結する。

夕張市でも人口はまんべんなく減ったわけではなく、大夕張炭鉱のあった夕張川沿いの鹿島地区は特に著しい。


大夕張炭鉱が現役で周囲が市街地として賑わっていた頃の夕張市鹿島地区。長屋らしき形状の炭鉱住宅がびっしり並んでいる。1:50,000「石狩鹿島」昭和43年資料修正

最盛期はここだけで2万人を擁し、南部地区(南大夕張)とともに夕張市から分離独立して市制施行を、という話も出たほどだが、昭和48年(1973)に炭鉱が閉山して人口が流出し、数百人にまで減少したところで現在の夕張シューパロダムの建設が決まり、その後は無人のエリアとなった。地図から地名は消え、今ではそのダムが堰き止める「シューパロ湖」の文字だけが記されている。


夕張シューパロダムが完成した現在。地名はなく、かつての市街は無人の森や野原と化した。湖面に見える影は湛水以前の地形。「地理院地図」令和3年5月1日ダウンロード

無人となっても「町名」は残っている

ところが最盛期に存在した町名は、実は現在も行政字名として残っている。それぞれ「鹿島」を冠して鹿島明石町、千年町(図の「千歳町」は誤り)、錦町、宝町、富士見町、緑町、栄町、弥生町、代々木町、春日町、北栄町、常盤町、白金の計13町で、かなりの部分が水面下に没した現在の人口はいずれも0だ。

それでも郵便番号が7桁になった時点には少数ながら住民がいたためか番号は割り振られ、明石町は068-0662、千年町が0663、錦町が0664、宝町が0665など(以上下4桁のみ)と、現在でも郵便番号検索をすると当たり前のように出てくる。

無人になった後で実際に現地を訪れた。建物はすべて撤去されていたが土台や一部の電柱、橋の残骸などは残っており、かつての町の様子をかすかに想像することはできる。

故郷を失う寂しさ

石炭を運び出すために敷設された三菱大夕張鉄道大夕張駅の裏手にはこの地域の子供が通った鹿島小学校があり、最盛期には2000人もの児童が通っていたという。1学年あたり7〜8クラスのマンモス校(今ではこれも懐かしい響きだ)である。

無人の学校跡には記念碑が建てられ、「太古の森をきりひらきうもるる宝かえさんと力よほまれよ血のひびき」という、炭鉱町の学校らしい校歌の一節が刻まれていた。

碑の傍らにはノートが置かれ、ここを久しぶりに訪れた住民が記した「古郷はどんな状況でも心の中に生きています。夕張、大夕張、ありがとう。私の原点です」という言葉は忘れられない。故郷を失う寂しさは体験した人でないと本当には理解できないのだろう。

その後で図書館へ行って往時の住宅地図を閲覧した。その時のコピーが手元にある。昭和59年(1984)の図で閉山後ながら建物は多く、町の体裁は保たれていた。

これによれば千年町駅前には夕張千年郵便局、鹿島駐在所、相馬屋旅館、ちとせ板金塗装、双葉食堂、その他何軒かの商店や診療所などさまざまな施設が建ち並び、さらに駅の西側には妙法寺、願正寺、大聖寺、本覚寺と各宗派4つの寺院が軒を接していた。それぞれが炭鉱町の日常を支えていたのである。

「幻の地名」は福井にも

さて、福井県を流れる九頭竜川(くずりゅうがわ)の上流部には昭和43年(1968)に九頭竜ダムが完成した。当初は電源開発目的で、その後は伊勢湾台風で被災した九頭竜川流域の防災に力点が置かれている。


ダムから上流部はほとんど人家がないが、かつては14の集落があり、多くは江戸時代からの長い歴史を持っていた。貯水面積は8.9平方キロで、集落の一部は水没を免れたものの、単独では生活が成り立たないこともあり、結局は500戸前後(資料により相違あり)が水没または撤去、補償を得て移転した。

無人境を走る湖畔の国道158号と付近の県道に架かる大谷橋(おおたにばし)、箱ヶ瀬(はこがせ)トンネル、面谷橋(おもたにばし)といった名称はいずれも水没した集落の名前である。郵便番号の設定された集落とない集落が混在しているが、設定時期にドライブインなどを含む家屋の有無が影響したのだろうか。場合によっては夏だけ人が戻る荷暮(にぐれ)のような集落もある。

いずれにせよ集落が姿を消した今、地名は「帳簿上」の存在に過ぎず実体はない。地図上には表示されず、その郵便番号を記入して手紙を出す人もいない。まさに幻の地名である。

(今尾 恵介 : 地図研究家)