麦とろご飯(写真: gontabunta / PIXTA)

麦飯といえばとろろをかける食べ方が定番ですが、この習慣は江戸時代から存在しました。

大坂の医師杉野権兵衛が書いた1802年の『名飯部類』によると、麦飯はとろろか、薬味を入れただし汁をかけて食べる、とあります。19世紀の京、大坂、江戸の風俗を描いた喜田川守貞の『守貞謾稿』にも、三都ではとろろ汁か、コショウ等の薬味を加えた鰹だしをかけて食べるとあります。

ところがこれは、麦飯をたまに食べる江戸などの都会での食べ方。麦飯を常食していた農村部では、とろろ汁やだし汁をかけずにそのまま食べていました。

また『守貞謾稿』によると、田舎(鄙)では節約(倹)のために麦飯を食べるのですが、京、大坂、江戸の都市部では贅沢品(驕)として食べていたそうです。

なぜ江戸時代の都市部では、麦飯にとろろ汁やだし汁をかけて食べたのでしょうか?そしてなぜ農村部では質素な食事である麦飯が、都市部では贅沢品だったのでしょうか。

その背景には、農村部と都会における麦飯の炊き方とコスト、食べる目的の違いがあったのです。

時代や地方によって異なる、麦飯の炊き方

麦飯は米と大麦を炊き合わせたものですが、その際に2つの問題を解決する必要があります。

1つ目の問題は、大麦には人に好まれない「匂い」が存在することです。

2つ目の問題は、米と比較すると大麦の粒は大きい、ということです。したがって、米と大麦を混ぜてそのまま炊くと、米が炊きあがっても大麦は生煮え、ということになります。

現在の麦飯の主流は、大正時代に登場した「押し麦」を使うものです。

押し麦とは、大麦を精白し匂いを取り去り、米と同じ時間で炊きあがるように蒸してローラーで圧延し平たくしたものです。

大正時代以前の農村では、大麦を「えまし麦」に加工してから麦飯にしました。


かつて農村では、大麦をえまし麦に加工してから麦飯として食べていた(写真: marumaru / PIXTA)

えまし麦とは大麦をいったん煮て、その煮汁を捨てたものです。そうすることで嫌な匂いが煮汁とともに流され、米と同時に炊きあがるようになるのです。

大正時代以前の江戸などの都会では、大麦を石臼で挽いて細かくした「割麦」を使いました。細かい粒にすることで米と同時に炊きあがるのですが、この方法では大麦の嫌な匂いは残ってしまいます。

この麦飯に残った嫌な匂いをカバーするために、都会ではとろろ汁やだし汁をかけて、美味しく食べる工夫をしたというわけです。

それではなぜ、江戸などの都会では匂いのしないえまし麦ではなく、匂いのする割麦を麦飯に使ったのでしょうか?

えまし麦は大麦をいったん煮るための燃料費がかかります。都会ではこの燃料費が問題となったのです。

燃料費が圧迫していた江戸の家計

栗原柳庵の『文政年間漫録』には、当時の大工一家3人の生活費が記録されています。

年間の米代が銀354匁、家賃は四畳半二間で120匁、燃料代と調味料が700匁。調味料代込みではありますが、燃料には米代の2倍、家賃の5倍以上の費用がかかっていたのです。

農村では燃料は里山などから自給するので、えまし麦を煮る燃料費は問題とならなかったのですが、江戸では燃料費の節約のために割麦が選択されたのです。

江戸などの都会では、おおよそ元禄時代頃から白米食が中心となりますが、これも燃料費が関係します。白米は早く炊きあがる、つまり燃料費が安くすむのです。

都会で玄米やえまし麦の麦飯ではなく白米を食べるようになったのは、燃料費の高さが原因であると、有薗正一郎(『近世庶民の日常食』)や宮本常一(開国百年記念文化事業会編『明治文化史第12巻』所収「飲食と生活」)は主張します。

燃料費だけでなく、大麦自体の価値も、農村と都会では異なっていました。

農村においては、米は年貢の対象であると同時に、商品を購入する際の通貨としての価値もありました。そのために安い大麦を混ぜ込んだ麦飯を食べ、米を節約したのです。

都会においては、輸送費や流通費、加工費が上乗せされるからか、大麦は米と比較しそれほど安いものではありませんでした。

当時の穀物の価格は、年度や季節によって大きく上下するので一概には言えませんが、例をあげますと、曲亭馬琴の1834年の日記における割麦の値段は、最も安くなる収穫期の5月11日において1両あたり6斗1升。白米の値段は収穫期の10月18日において1両あたり6斗2升(『馬琴日記 第四巻』)。必ずしも安くない麦飯に、とろろ汁やだし汁をかけて食べるので、都会における麦飯は贅沢品となっていたのです。

それではなぜ、都会ではコストのかかる麦飯をわざわざ食べたのでしょうか。

なぜ江戸時代の都会では贅沢な麦飯を食べたのか?

『名飯部類』も『守貞謾稿』も、都会の人間は「養生」、つまり健康のために麦飯を食べるとしています。

『誹風柳多留』の89篇に次のような川柳が収録されています。

 “養生にばかり江戸っ子わりを喰い”

普段は食べない「わり」(割麦の麦飯)を、食事療法として食べる江戸っ子を描いた川柳です(渡辺信一郎『江戸の女たちのグルメ事情』)。

ビタミンに関する知識こそなかったものの、江戸時代の都会に住む人は、麦飯が体によいことを経験的に知っていました。

えまし麦と異なり割麦ならば、栄養素も流れ出ません。健康によいことはわかっていますが、匂いがする割麦の麦飯を美味しく食べる工夫が、とろろ汁やだし汁をかけて食べることだったのです。

(近代食文化研究会 : 食文化史研究家)