バナナの、残酷で非情な黒歴史を紹介します(写真:Beton Studio/PIXTA)

1年を通して手に入りやすい「バナナ」。日本での果物消費量ランキングでも1位で、人気があり身近なフルーツだ。そのバナナの歴史をひもとくと、「バナナ」にまつわる冷酷非情な支配構造の歴史が見えてくる。

ベストセラー『世界経済を破綻させる23の嘘』などの著書がある経済学者のハジュン・チャン氏の最新刊『経済学レシピ:食いしん坊経済学者がオクラを食べながら資本主義と自由を考えた』から、「バナナの残酷で非情な歴史」について一部抜粋・編集のうえお届けする。

バナナはどこから来たのか

バナナは東南アジアが原産の植物で、栽培が始まったのは数千年前だと考えられている。栽培化の過程で、食べられる部分を増やそうとして種子のない変異体が選ばれた結果、自然には子孫を残せなくなった。


栽培化されたバナナを増やすには、人間の助けが必要だ。「成熟した株の地下茎(球茎)から出た芽(吸芽)を切り取って、移し植え」なくてはならない。そのようにして増えたバナナは、当然ながら、すべて同じ遺伝子を持つことになる。

バナナがインド洋を渡って、アフリカに達したのは紀元前2000年から後1000年までのいつかだと考えられている(あまりに時間の幅が広いが、こういうことはそういうものなのだ)。

だから、1470年代に最初のヨーロッパ人(ポルトガル人)がサハラ砂漠以南のアフリカを訪れたときには、アフリカの西海岸では遅くとも数百年前から、早ければ1000年以上前からバナナが自生していた。

「バナナ」という呼び名はポルトガル人が中西部アフリカのバンツー語をもとにつけたものらしい。しかし皮肉にも、ヨーロッパ人が初めてバナナと出会ったのは、バナナの故郷東南アジアにおいてで、1521年のことだった。すなわち、ポルトガルの航海者フェルディナンド・マゼランが太平洋に到達したあの有名な航海のときだ。

ポルトガル人はマデイラ諸島やカナリア諸島(1479年までポルトガルが一部を領有)では、アフリカ人奴隷にバナナを食べさせて、砂糖を作らせていた。アメリカにアフリカ人を奴隷として送り始めたときには、米とバナナ(とくに調理用バナナ)を奴隷船に詰め込んだ奴隷たちの主食にした。

プランテーションでは、奴隷たちは自分たちに与えられた狭い土地でバナナを栽培し、粗末な配給食の足しにするよう促された。気候がバナナに適していれば、バナナは1年じゅう育ち、しかも収穫量がきわめて多かった。

最低限の労力を投じるだけで、1エーカー当たり9万キロのバナナが収穫できた。これはヤム芋の10倍、ジャガ芋の100倍だ。したがって、奴隷にできるだけ余計な時間を使わせたくない奴隷の所有者にとっては、理想的な作物だった。

巨大化したバナナ企業

バナナは当初、奴隷の労働力にもとづいたプランテーション経済を支える歯車としてアメリカ大陸にもたらされたが、数世紀後には、南北アメリカの数多くの国々の輸出経済を支えるエンジンになった。

19世紀末、鉄道や蒸気船、冷蔵技術のおかげで、傷みやすい農作物も遠く離れた国々に輸出することがしだいに可能になってきた。とくにこの進歩の恩恵を受けたのが、バナナだった。

バナナは腐りやすかったことから、19世紀末までは、アメリカですら少量しか売られていない高価な果物だった。

アメリカへの大規模なバナナの輸出が可能になったことで、ユナイテッド・フルーツ(現チキータ)や、そのライバル企業スタンダード・フルーツ(現ドール)をはじめ、アメリカ企業はこぞってカリブ海(キューバ、ドミニカ共和国、ハイチ)や、中央アメリカ(とくにホンジュラス、コスタリカ、ニカラグア、パナマ、グアテマラ)や、南米北部(現在、世界最大のバナナ輸出国であるコロンビア、エクアドル)にバナナのプランテーションを設立した。

それらの国々の経済はほどなくアメリカのバナナ企業に支配されることとなった。例えば、ホンジュラスでは、鉄道、電灯、郵便、電信、電話がユナイテッド・フルーツとスタンダード・フルーツの管轄下に置かれた。

1930年代のグアテマラでは、ユナイテッド・フルーツが「国内最大の地主、雇用主、輸出業者にして、国内のほぼすべての鉄道の所有者になった」。バナナに依存した国々の人々はそんなアメリカのバナナ企業を「エル・プルポ」、つまり「たこ」と呼んだ。自国経済のあらゆる面をがっちりと掴まれ、逃れることができなかったからだ。

当然ながら、各国の経済を掌握したバナナ企業の絶大な影響力は、その国の政治にも及んだ。バナナ企業は自前の税関や警察すら持ち、その商売はその国の管轄権の外に置かれた。政治家は買収されて、「経済重視」の政策を約束させられた。

バナナ企業の利益に反することを企てる政府があれば(例えば、極端に低い税率をかなり低い税率にまで引き上げるとか、バナナ企業に未使用の土地を売却させるとか、労働者の権利をわずかに強くするとか)、バナナ企業の支援を受けたクーデターが起こされた。

フィリバスター(「海賊」を意味するオランダ語に由来)と呼ばれるアメリカの傭兵がそのクーデターに参加することもあった。20世紀の前半を通じ、それらの国には頻繁に、アメリカの企業、とりわけバナナ企業の利益を守るため、アメリカから海兵隊が送り込まれもした。

「バナナ大虐殺」を知っていますか

アメリカのバナナ企業がさらに悪名を馳せたのは、コロンビアでのいわゆるバナナ大虐殺だ。1928年の秋、ユナイテッド・フルーツの労働者がストライキを起こして、今日であればごく当然と見なされるような要求をした。

すなわち、トイレと医療設備を設置すること、賃金を値が張る自社の売店でしか使えないクーポンではなく、現金で支払うこと、労働者を貧弱な労働法で定められている最低限の保護すらも受けられない下請け業者としてでなく、従業員として扱うこと、だ。

ストライキが長引くようなら軍事介入すると脅すアメリカ政府の圧力にさらされ(周囲の国々の経験を見れば、それが単なる脅しでないことは明らかだった)、コロンビア政府は12月6日、武力でストライキを鎮圧する行動に出た。

これにより、バナナの町シエナガでストライキに参加していた労働者が多数射殺された(その数は議論されているが、47人とも2000人ともいわれる)。

このバナナ大虐殺はノーベル文学賞を受賞したコロンビアの小説家ガブリエル・ガルシア・マルケスの手によって、名作『百年の孤独』(わたしの愛読書のひとつ)の中で永遠に人類の集合的記憶に刻み込まれることになった。

その小説の中で描かれるこの事件では、3000人以上の労働者が殺されて、その遺体が鉄道の貨車でマコンド(小説中の架空の町)のバナナプランテーションから運び出され、虐殺の証拠がすべて隠滅される。

19世紀末から20世紀半ばまで、アメリカのバナナ企業のこのような過酷な支配下に置かれた中央アメリカや南米北部の国々は、「バナナ共和国」と呼ばれるようになった。この呼び名が最初に使われたのは、アメリカの短編小説作家O・ヘンリー(本名ウィリアム・シドニー・ポーター)の1904年の短編「提督」においてだ。

アンチュラというホンジュラスがモデルの架空の国を舞台とするその短編で、O・ヘンリーは財政的にも組織的にもみじめな状態にある政府を描き、アンチュラを「バナナ共和国」と呼んだ(作家自身が1897年にホンジュラスで流浪生活を送っている)。

「バナナ共和国」の意味

およそ半世紀後の1950年には、チリの詩人でノーベル文学賞受賞者であるパブロ・ネルーダが、「ユナイテッド・フルーツ・カンパニー」という詩の中で「バナナ共和国」のことを語り、さらにこの呼び名が広く知られるようになった。

現在のアメリカやそのほかの富裕国では、「バナナ共和国(リパブリック)」という言葉は服のブランド名としてしか知らない人がほとんどだ。しかし、もともとは貧しい途上国が富裕国の大企業に専制的な支配を受けるという暗い現実をいい表した言葉だった。

それを服のブランド名に使うのは、よくいえば無知であり、はっきりいえば侮辱だ。豆を挽く流行のカフェを「悪魔の粉挽き」と呼んだり、高級サングラス店を「暗黒大陸」と名づけたりするようなものではないか。

(翻訳:黒輪篤嗣)

(ハジュン・チャン : ロンドン大学経済学部教授)