IKKOさんが幼い頃から今に至るまでの人生を振り返りつつ、その過程で学んだことを語ります(写真:GLAD提供)

幅広い世代から共感を集める美容家IKKOさんですが、これまでの人生、転んでも転んでも、つらいことがあっても、悔しさをバネに起き上がってきたといいます。

そんなIKKOさんの人生哲学はどのように生まれたのか? 幼い頃から今に至るまでの人生を振り返りつつ、その過程で学んだことを語りつくした珠玉のエッセイ集『IKKO 人生十転び八起き。ケ・セラ・セラ』より一部抜粋し、3回に渡ってご紹介します。今回は1回目です。

不都合な環境で芽生えた「生きる力」

私はときどき、「IKKOさんの人生哲学は、どのようなところから生まれたのですか? どんな人生をたどってきたのか知りたいです」と聞かれることがあります。

振り返ってみると、幼い頃から経験してきたことには、その都度学びがありました。

いまの私がなぜ、心のあり方を重視するのか、なぜ自分の仕事に妥協を許さないのか、なぜきれいな環境にこだわるのか、私の生き方のすべてが歩んできた人生に関係しています。

そして、たくさん流してきた涙には、私の思いが詰まっています。

そうしたことから、この本(『IKKO 人生十転び八起き。ケ・セラ・セラ』)では最初に、私が生きてきた61年の歩みと、さまざまな経験から得たことをお伝えしたいと思います。

私が生まれ育ったのは、福岡県田川郡方城町(現・福智町)という田舎町で、かつては炭鉱で栄えたところです。生まれたときにはすでに大きな炭鉱は閉山していましたが、小学校1年のときに最後の炭鉱の閉山で煙突が倒されるさまを、地元の人たちが涙しながら見届けた光景はいまも目に焼き付いています。

それから町は廃れていく一方。私の家族も時代の波に翻弄され、何度も悔し涙を飲んだ苦い思い出があります。

母は若い頃に、東京の有名な美容室で働いていました。父もその頃は東京で働いており、母が勤めていた美容室に仕事で出入りしていたことで仲良くなったそうです。お互いに同郷という親近感もあったのでしょう。

その後、2人は結婚し、しばらくしてから地元に戻って、母は美容室を営み、父はパンの卸業で生計を立てていました。

しかし大手製パン会社の進出で、父は廃業を余儀なくされ、電気料金の集金などを掛け持ちしながら働くことに。そのため、親戚からは「日雇い」とばかにされ、私自身も父がいつも人に頭をぺこぺこと下げている姿を見るのがいやで、父のような生き方は絶対にしたくないと思ったものです。

母も時代の変化についていけず、美容室は徐々に先細りになっていきました。当時、はやり始めていたのは、イギリスのヘアドレッサー、ヴィダル・サスーンが生み出したカット&ブロー。一方、東京帰りの母が腕を鳴らしたレザーカットや逆毛を立てて仕上げるセットは、時代遅れになっていたのです。

炭鉱の閉山によって、町には活気がなくなり、時代の流れに押し流されて、そのときの父や母も、私から見ると輝きを失った人生を送っているように思えました。

私の中に、どんな逆境にも打ち勝っていこうとする「生きる力」が芽生えたのは、その頃です。いつかみんなを見返してやりたいという思いが募り、高みを目指す向上心が湧き出てきました。

その後、どんなつらいことがあっても耐え忍び、厳しいハードルを乗り越えてこられたのは、幼い頃の逆境をバネとした負けじ魂があったからです。

自分にとっては不都合な環境が、いまの私を作ったといっても過言ではありません。

私が本当に着たいのはドレス!

私は男の体に生まれながら、「心は女」だったため、ずっと生きにくさを感じてきました。

小学校に入った頃から、友人たちに「気持ち悪いオカマ」とののしられ、自分の殻に閉じこもっていた時期もあります。

「男は男らしく」といわれても違和感しかなく、周りが望んでいるような将来を想像するだけで暗澹(あんたん)とした気持ちになりました。勉強をしていい学校に入り、背広にネクタイを締めて会社に勤めるような人生は絶対にいやだと思ったのです。

私が本当に着たいのは、ミス・ユニバースやミス・インターナショナルが着ているようなステキなドレス。婦人雑誌を彩る女優さんたちや、博多人形のような芸者さんの着物姿を見ながら、きれいにお化粧をした、華やかな女性にあこがれを抱いていました。

その夢が打ち砕かれたのは、姉の一言から。私は当時の人気テレビドラマ「アテンションプリーズ」を観て、JALの制服にあこがれ、スチュワーデスになりたいと思っていました。

ところが姉に「男はスチュワーデスになれないのよ」といわれたのです。

そのときのショックといったら! ものすごく落ち込んだことは、いまも忘れられません。

親たちが望む人生のレールに乗りたくなかった私は、「そうか、勉強しなければいいんだ」と考えました。そうすれば、進学してサラリーマンになるコースは歩まずに済むな、という単純な発想からです。

すると当然ながら、学校の授業についていけなくなり、友人たちからは「頭の悪いぼんくら」といわれて、さげすんだ目で見られるようになりました。

「気持ち悪い」「頭が悪い」。それと、私の心を深く傷つけたのは「オカマ」という言葉です。「オカマが箸をつけたものは汚い」と周りに思われているのではないかと想像してしまい、「私は汚い」と思い込むようになります。それからは人と食べ物をシェアすることができなくなりました。

コンプレックスの塊だった幼少期

私の家では、子どもたちがアルバイトをして自分のお小遣いにするというルールがありました。

それは、子どもにお金のありがたみをわからせるためだったのでしょう。私も小学校3年から中学校3年まで、ヤクルトの配達のアルバイトをしていました。

このアルバイトを通して、よくも悪くも、幼い感受性が刺激されたことは確かです。人生勉強をさせてもらったような気がします。

ヤクルトのアルバイトは配達のほか、集金業務もあります。雨の日に濡れたカッパを着て集金に行くと、玄関先で「汚い! 裏に回って!」と怒鳴られることもしばしば。そこで子ども心に「やっぱり自分は汚いんだ」という自己否定意識が刻印され、コンプレックスの塊になっていきました。

子どもは心無い一言が原因で、それがトラウマになってしまうことがあります。心に刻み込まれたコンプレックスは、自分を磨いていくことでなくなると知ったのは、ずっとあとになってからです。


近頃は、自己肯定感の低い若者が多いと聞きます。

「自分は人より劣っている」「自分はダメな人間」と思い込んでいると、なかなか自信がもてません。

私も少し前まで自己否定と自己肯定を繰り返してきたので、その気持ちはよくわかります。人の目を気にしてばかりいた時期もありましたからね。

いまでこそ、ジェンダーレスや多様性を認めようという声が高まっていますが、それは都会の一部の人たちだけに通じる話。現実の社会はまだまだ閉鎖的で冷たく、依然として差別や偏見が残っているところもあります。

ましてや地方の、私が育った時代は理解されるはずもなく、自分らしく生きる道を模索する日々でした。

(IKKO : 美容家)