東京オリンピックのゴルフ会場である霞ヶ関カンツリー倶楽部(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

東京オリンピック・パラリンピックがコロナ禍の中、開催に向けて進んでいる。緊急事態宣言が解除された東京都では、オリンピック開幕(7月23日)まであと1カ月というあたりから、新型コロナウイルスの感染者がまた増えてきている。

オリンピック中止を首相に求める社説で掲げた朝日新聞の6月の世論調査では、開催34%、再延期30%、中止32%で初めて開催支持が30%を超えた。読売新聞の世論調査では開催50%、中止48%と開催支持がわずかに多かった。

各メディアの世論調査でも、賛否両論があるのは変わらないが、以前より開催支持が多くなってきている。この時期にきて「容認」という人が多いのかもしれない。ワクチン接種の開始も変化につながったのだろう。

まだ予断を許さないが、開催、運営するためにどうしたらいいかを考えなければならない。水際対策、観客の有無、ワクチン接種など課題は多い。

ゴルフの日本代表が決定

そんな中、ゴルフは世界ランキングを基に、各国出場枠で整理したオリンピックランキングから決定された。日本は男女とも2枠で、男子は6月21日のランキングでマスターズチャンピオン松山英樹、星野陸也に決まった。

6月28日のランキングで決まった女子は最後までもつれた。最終戦を待たずに代表決定していた畑岡奈紗に加え、2020−21シーズン6勝の稲見萌寧が渋野日向子、古江彩佳との2番手争いを制して日本代表となった。

日本ゴルフ協会(JGA)では、決定前に日本代表ユニホームを発表している。このユニホームは、JGAとオフィシャルサプライヤー契約を結ぶデサントが作成した国際大会に出場する男女ナショナルチーム「チームジャパン」の2021年モデル。オリンピック以外の大会でも日本代表が着る。


ゴルフ日本代表のユニフォーム。右は丸山茂樹ヘッドコーチ、左は服部道子・女子コーチ(写真提供:JGA)

右肩上がりの斜めの線が走るデザインを採用した。成績も右肩上がりといきたい。ユニホームのレプリカは同社の直営店やサイトで販売されている。日本選手が金メダルを取れば、このユニホームは人気になるのだろうか。何とかメダルには行きついて、日の丸を挙げてほしいところだ。

さて今回は1世紀以上前のオリンピックのゴルフの話を紹介したい。

オリンピックでゴルフ競技が初めて行われたのは、第2回の1900年パリ大会(フランス)。この大会はパリ万国博覧会の付属大会とされ、開閉会式はなく、競技は5カ月ほどにわたって開催された。日本では日清戦争と日露戦争の間という時代だ。

パリ大会のゴルフは男子と女子の個人戦が10月に行われた。会場は、パリ郊外のコンピエンヌGCだった。

女子の優勝者は、アメリカのマーガレット・アボット。彼女は当時、母メアリーと一緒にパリに滞在していて、美術の勉強をしていた。シカゴでゴルフを始めて大会にも参加しており、滞在していたパリで大会があるというので、なかば飛び入りで母と一緒に出場した。9ホール47で回って優勝。母は67で7位に入っている(10人出場)。

オリンピックに出場した認識がなかったアボット

実はアメリカでもアボットの優勝はあまり知られていなかった。アボット自身も「パリで開かれたゴルフの大会で優勝した」という認識で、オリンピックに出たという認識は1955年に亡くなるまでなかったという。

その後の調査で判明し、1996年アトランタ大会(アメリカ)の公式プログラムに金メダリスト(優勝者)として名前がある。アメリカの女子選手の金メダリスト第1号(実際に授与されたのは金メダルではなく磁器のボウル)で、同じオリンピックで同一競技に母子同時出場したのはこのアボット母子しかいないという記録的な快挙でもあった。

ちなみに、当時の女性のゴルフウエアは「ロングスカートとファッショナブルな帽子」だったそうだ。アボットの写真ではないが、1923年の雑誌「ゴルフドム」(JGA所蔵)に当時の女性ゴルファーの写真があった。イメージが湧くだろうか。


「ゴルフドム」1923年6月号に掲載された20世紀初頭の女性ゴルファー(所蔵:JGA)

男子(12人出場)の優勝はアメリカのチャールズ・サンズ。この人はテニスにも出場している。所属していたアメリカのセント・アンドリュースGC(イギリスの世界最古のゴルフ場セント・アンドリュース・リンクスとは別)のホームページによると、テニスのほうはシングルス、ダブルス、混合ダブルスで1回戦敗退だった。

この大会で男子8位に入ったのが、アメリカのアルバート・ランバート。彼は次のオリンピックである1904年セントルイス大会(アメリカ)のゴルフ競技に大きくかかわっていく。ゴルフは2016年リオデジャネイロ大会(ブラジル)で復活したが、その前の最後がセントルイス大会だった。

ランバートの実家は、セントルイスで医療用消毒薬などの製造販売を手掛ける会社だった。経緯は省くが、現在は「リステリン」として知られている口腔洗浄液を開発し、ヒット商品になった。1904年のオリンピックがセントルイス万国博覧会の付属大会になると知って、自身が所属するグレン・エコーCCでのゴルフ競技の開催に尽力した。

セントルイス大会は、9月に男子のみで個人戦と団体戦が行われた。欧州から選手が来なかったため、個人戦はアメリカとカナダの75人が参加。予選ラウンド上位32人がマッチプレーを行って、カナダアマチュア選手権覇者のジョージ・ライオン(カナダ)が、全米アマチュア選手権を制しているチャンドラー・イーガン(アメリカ)を決勝で破って優勝した。

ちなみに、この大会から各競技種目の1〜3位に金、銀、銅メダルが贈られるようになった。

団体戦は1チーム10人で、アメリカのウエスタン協会、トランスミシシッピ協会がエントリー。メダルは3つあるので、急きょ会場にいるアメリカ選手を集めてアメリカゴルフ協会(USGA)チームを結成したという、のどかな時代。出場資格も今のような規定がなかったようだ。ウエスタン協会が金メダルを獲得した。というより、アメリカが金、銀、銅を独占した。

ランバートは個人戦でマッチプレー準々決勝敗退、団体戦ではトランスミシシッピ協会の一員として銀メダルを獲得している。

オリンピック後に飛行場を造り、リンドバーグも支援

時代はライト兄弟が1903年に初の有人飛行に成功して航空機が登場したころだった。

ランバートはオリンピック後は飛行士となり、第一次世界大戦(1914〜1918年)に従軍後、貨物輸送などの会社を設立するとともに、セントルイスに6万8000ドルで飛行場を造った。貨幣価値はわからないが、プロペラ機の時代とはいえ相当な費用が掛かっただろう。1927年に大西洋単独無着陸飛行を達成したチャールズ・リンドバーグを支援した1人で、リンドバーグの飛行機は「スピリット・オブ・セントルイス」と名付けられている。

ランバートが作った飛行場は、セントルイス市に建設費と同額で売却され、市営飛行場となった。現在は「セントルイス・ランバート国際空港」となって、名前が残されている。100年前の選手たちには、ゴルフの選手だけでもその後を含めて多くのドラマがあった。

筆者は30年近く新聞社でオリンピック報道に関わってきたが、オリンピック・パラリンピックに出場する選手たちはみんな、われわれに勇気を与えてくれるようなドラマを持っていることは確かだ。

コロナ禍で今回のオリンピックは通常とは違う大会になることは間違いない。「コロナに打ち勝った証の大会にする」と菅首相は言っていたが、まだ打ち勝っていないことは明らかだ。それなら、選手たちから「コロナに打ち勝つ力」をもらいたい。笑顔や涙は免疫力を上げるそうだ。