妻の海外赴任に帯同して来仏している男性たちに話を聞いた(写真:筆者撮影)

パリで日本人の「主夫」によく出会うようになった。筆者は今年でパリ生活が12年目。フランスへ来た当初は、現地の日本人社会で出会う駐在員といえば男性ばかりだった。しかし最近は、女性駐在員に帯同して来仏する男性が増えた。

彼らから話を聞く機会がしばしばある。男性帯同者の背景は多様で、日本の勤め先を辞めたり、開業していた職場をたたむなど、妻の海外赴任が彼らの人生に1つの転機をもたらしている。

彼らはどのようなことを考え、期待し、悩んで海外生活を送っているのか。「駐妻」ならぬ「駐夫」としての彼らの気持ちを聞いた。

妻の駐在に合わせて柔軟な働き方を探す

「仕事を辞めることは気になりませんでした」。戸谷俊介さん(37)は、報道記者である妻のパリ赴任に合わせて、勤めていた名古屋の広告会社を退職した。海外経験がなくフランス語もわからなかった戸谷さんは、妻の駐在を機会に初の外国暮らしをスタートさせた。

会社から妻に海外駐在の辞令が下ったのは、戸谷さんが業界内で転職をしてまだ日が浅かった頃。当時の戸谷さんは、平日は朝から晩まで、休日はイベント対応のため現場と、休む暇なく働いていたそうだ。

また転職してから日も浅く、新しい職場に対して苦労や大変さを感じていた。「妻の海外赴任を聞かされたとき、もし仕事がうまくいっていたら、別の可能性もあったかもしれません」と戸谷さんは語る。

渡仏後、戸谷さんは主夫として妻のサポートに徹した。一方で、仕事をしていないことがずっと心にひっかかり続けた。「男性が金銭的に女性に頼ることは格好悪いんじゃないかという先入観が、どうしても頭にありました」と心情を吐露する。

現在は4年の任期の3年目。駐在2年を過ぎた頃からフランス語を少しずつ使えるようになってきた。サッカーが得意だった戸谷さんは、妻の紹介でスポーツ記者の仕事を得て、サッカー取材などの様子をYouTube配信するようになった。「自分自身の心も安定しました」と戸谷さんは笑う。

来年帰国だが、その後も妻は再び別の国へ赴任する可能性が高い。そのため「会社に属さない形の仕事を模索しています」と今後を見据える。

妻の渡仏に合わせて、開業していた東京の整体院をたたんだのが、整体師の坂雄一郎さん(43)だ。

国家公務員として働く妻から、海外駐在について聞かされたのは渡仏する1年半前。その後は妻の赴任時期に合わせて、整体師の仕事を店舗型から出張型に少しずつシフトさせた。「開業した整体院をたたむことに躊躇はなかったです」と坂さんは述べる。


(写真:筆者撮影)

フランスでは、1児の父として子育てと家事を主にこなし、主夫として妻の仕事を支えている。空いた時間はパリ市内のサロンで整体師として働く。「挑戦してみたいという気持ちがありました。日本人と欧米人では骨格も違う。整体師としてのキャリアにとっても、プラスになると思いました」と語る。

「前向きな性格」という坂さんだが、渡仏当初は自身の収入がなかったため、気が引ける気持ちはあった。「何かほしいものがあっても、自分だけの判断ではなかなか買えないですから」と振り返る。

任期終了後も、再び妻には海外駐在の任が回ってくる。そのため、今後もこのスタイルは続けるつもりだ。「こういう機会をくれた妻には感謝しかない」と坂さんは笑顔で話す。

大学を辞めて現地で研究に専念

大学での職を辞して妻に帯同したのが、首都圏の大学でフランス演劇や舞台批評の講師を務めていた堀切克洋さん(37)だ。妻は坂さんと同じく国家公務員。夫婦共にフランスへの留学経験があるため、パリでの生活に対するハードルは低かった。

妻からパリ赴任の話を伝えられたとき、大学から離れることで、今後その方面で職を得る可能性は低くなるかもしれないと思ったという。子どもが幼かったため夫婦お互い単身での生活も頭になかった。

「赴任に反対する気持ちはありませんでしたが、大学の職を探すために手伝ってくれた人や、若手研究者として連載機会を与えてくれていた新聞社などへ、断りを入れるのは心苦しかった」と述べる。

大学での教職は研究以外の職務も多く、自らの研究に十分な時間を割けないということはよく言われる。堀切さんもその状況を、学生時代からつぶさに見てきた。「大学に残ることは研究者として本当に幸せなのかと考えたときに、そういう意味では今回の帯同はいい転機だったのかもしれない」と前向きに捉えた。

東京にいた頃は共働きだった。娘の保育園は妻の職場に設置されていたが、送り迎えはほぼ半々。勤め先は千葉や神奈川など都心から遠く、夜には劇場での仕事もあったため夫婦ともに激務だった。

家事も夫婦で細かく分担を決めて、少しでも全体の時間が無駄にならないようにやりくりを考えた。当時は非常勤講師を掛け持ちしていたため、休む時間をまったく取れなかったそうだ。

しかし、今は心と時間にもとても余裕があるという。仕事を受けても在宅で行うため、夫婦で細かく分担を決めなくても、スムーズに家事が運ぶようになった。

ここ半年は昨年のゴンクール新人賞の小説『ベケット、最期の特別な時間』の翻訳を担当し今年7月に出版されるという。またコロナ禍で遠隔授業の導入が進み、現在は日本の大学にリモート授業で俳句と戯曲創作を教えている。

今年が3年任期の最終年。帰国後のことを考えねばと思っていた矢先に、今度は趣味だった「俳句」の分野で、大学から講師として声がかかった。ただ、それだけでは足らない部分の方策を、帰国に向けて今考えている途中だそうだ。

親会社が倒産したが現地に残ることを決意

パリ市内の美容院で店舗責任者を務める米山重雄さん(48)の経歴は少し異色だ。妻はフランスの国家資格を持つエステティシャン。日本の企業がフランスでエステサロンを立ち上げるため、妻が駐在で派遣されることになった。

ところがその後、日本の親会社が倒産。妻は日本に戻る選択肢もあったが、それは選ばずパリの別のサロンで働き続けることを選んだ。

妻の赴任が決まった当時、米山さんは東京の大手美容専門学校で室長を務めていた。加えて、職場から1つ上のポジションへの就任も打診されていた。「葛藤はありました。今まで積み重ねた収入やキャリアは、ひとまずすべて投げ捨てないといけませんでしたから」と当時の様子を話す。

日本での米山さんは仕事へ打ち込むことが多く、家庭への時間を十分に持てなかった。しかし、渡仏後はその生活が正反対になった。働く妻の代わりに、家事と育児に専念することになったからだ。ところが悩みも生まれた。

「仕事をしていなかったときは、精神的な負担が大きかったです。仕事をしていれば、そこに自分の価値を見出せますが、ずっと家にいるとそれを見出しづらい。自分を“なさけない”と思ってしまう。それが要因で妻とぶつかることもありました」(米山さん)

娘の保育園が見つかった後は、米山さん自身もパリで仕事を始めることにした。市内のヘアサロンで美容師の職を得て、その後に別のサロンへ転職。店舗責任者として雇われた。現在は家事や育児は妻と分担する。

今後のことを質問すると「飽きたら日本へ帰ろうかと妻とも言っています」と笑って答えてくれた。お互い興味がある場所があれば、夫婦でそこへ移住することもありという。

卑下するのではなく状況を享受する

これら話を聞くと、新しい環境に飛び込み、その場所を楽しめる人がいる一方で、がらりと変わった自身の変化に対応できずに、悩んでしまう人も多い。

例えば1人目に紹介した戸谷さんは、ふさぎ込んでいた時期に、同じ境遇の男性帯同者へ自身の気持ちを打ち明けた。そのときに相手がかけてくれた言葉が、今でも心の支えになっている。

「われわれと同じような立場の人は、日本ではまだそこまで多くない。これは逆に恵まれているということだ。だからこそ、この立場で自分の好きなことを存分にすることが、家族の幸せにもつながる。仕事をしていないことを卑下するのではなく、それを享受しないといけない」

また戸谷さんは、パリで通った語学学校で同じような立場の外国人男性と知り合う機会も多かったそうだ。それまで「自分は少数派だ」と思っていたのが、「海外では案外普通かもしれない」と思い直し、気分はずいぶん楽になったという。

最後に紹介した米山さんは、日本の美容学校でそれなりの地位にあったが、以前の肩書は捨てて、一美容師としてパリで仕事を探した。

「以前はプライドが邪魔をしていた。妻に依存しているということを認めたくない自分にも苦しんだ。今まで積み重ねたものや、そのプライドをひとまず隅に置いて動けば、新しい道は開けると思う」(米山さん)

不安はあるが手放したことで、新しい世界が、またその空いたスペースに広がる。帯同することでの心の動き、キャリア、家庭での役割。男性の話としてこれらを紹介したが、日本でのキャリアを中断して夫の帯同を決めた女性にも、共通する点は多くあるはずだ。