大ベストセラーとなった『佐賀のがばいばあちゃん』を’06年に映画化。単館公開ながら興行収入6億円のヒット作となった

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 かつて世間の注目を集めた有名人に「あのとき、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえた声、そして当時は言えなかった本音とは? 第26回は、漫才コンビB&Bで大ブレイクを果たすも、仕事が激減してしまった島田洋七(71)。著書のヒット再ブレイクを果たしたあと、吉本興業を退社した真相とは―。

【写真】島田洋七の盟友、ビートたけしの家族写真

漫才が簡単そうに見えて……

「しゃべるだけでお金を稼げるなんてええなって」

 1980年代、お笑いコンビB&Bで漫才ブームを牽引し、一世を風靡した島田洋七。お笑い界の門を叩いたのは、たまたま見たなんば花月の寄席がきっかけだった。

「現在の奥さんと地元・広島から半ば駆け落ち状態で、大阪に行ったんです。なんば花月で、横山やすし・西川きよし(以下、やすきよ)さんたちの漫才が簡単そうに見えて(笑)。入ってから、簡単そうに話しているように見えただけだとわかったけどね」

 '71年に島田洋之介・今喜多代に弟子入りし、翌年、初代B&Bを結成しデビュー。'74年に『第4回 NHK上方漫才コンテスト』で優秀話術賞を受賞するなど、デビューからそれほど時間はかからずに頭角を現す。

「関西でレギュラー番組が3〜4本持てるようになったけど、地元である広島や佐賀では放送されないから家族に自分の活躍を見てもらうことができない。先輩に相談したら、“東京の番組なら全国で放送される”と言われ、上京を決意。吉本には“東京で大阪の漫才を広めたい”と申告したので、“頑張ってこいよ!”って快く送り出してくれたね(笑)」

 上京して間もなく、フジテレビで放送されていた『花王名人劇場』のプロデューサー・澤田隆治さんと出会ったことで、人生が一変する。

「最初のころはドラマを放送している枠だったんですよ。澤田さんとお会いしたときに“1度漫才やってみましょう!”と言われ、'80年に『激突!漫才新幹線』という企画でやすきよさんたちと出してもらったんです。そしたら翌日にスポンサーだった花王さんからCMオファーが届いたり、漫才ブームが起きて一気に大忙しになった」

 洋七の地元・広島の名物を叫ぶ「もみじまんじゅうー!」のギャグが大ウケし、ピーク時は週に19本のレギュラー番組に出演。最高月収は8000万円を超えるなど、一気に国民的スターに。

「レギュラー番組は全部司会だったし、営業の仕事もあったから、寝るのは移動時間のみという日も。平日は帯番組もやっていたから、自宅に帰れるのは週末だけ。普段はニューオータニから収録に通っていたからね」

 新ネタを考える暇もない多忙な日々を送っていたが、'82年に司会を務めていた『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系)が終了したのを機に、仕事が減少してしまう。

「同時期に活躍していた(ビート)たけしや(明石家)さんまなんかは、うまくバラエティー番組にシフトしたけど、俺はできなかった。でも当時は、仕事が減ってプレッシャーから解放される……という安堵感のほうが大きかったね。燃え尽き症候群じゃないけど、それで’83年にはB&Bも解散することに」

ビートたけしに“本にすべき”と言われて

 その後はラジオなどでマイペースに活動していたが、番組の共演者にすすめられ、講演会を始めることになる。

「共演した文化人の先生から“話もうまいから向いているんじゃない?”と言われ、やらせてもらったら、思いっきりウケて。漫才もそうだけど、自分は生でお客さんを相手にする仕事が向いているなと。やるからには講演会で日本一を目指そうと、活動の場を移すことに。今までの登壇は5000に迫る回数です」

 講演会で『佐賀のがばいばあちゃん』のエピソードを話したところ、ビートたけしのすすめもあり、本にすることに。

「たけしに講演会でどんな話をしているのか?と聞かれ、ばあちゃんのエピソードを話したら、“本にすべき”と『振り向けば哀しくもなく』とタイトルまで考えてくれて。出版社に売り込んだけど、当時の俺はテレビに出ていなかったから、どこも相手にしてくれなくてね。それで自費出版することに」

 盟友・たけしがつけたタイトルだったが、まったく売れなかったという。

「講演会のたびに手売りしても5冊ぐらいしか売れない日が続いて。それでせめて佐賀だけでも売れたらいいな……とタイトルを変えたところ、火がついたんです」

 '01年にタイトルを変更して発売し直したところ累計670万部の大ヒット。

「ヒットしたら講演会のギャラも3倍になったんですよ。それでも漫才ブームのときのほうが稼いでいたけどね(笑)。

 当時は吉本に戻っていたんだけど、俺が本を出すまで出版ビジネスには無関心だった。本を出すときも“自由にやってください”とノータッチ。『がばいばあちゃん』の印税で吉本と揉めたと書かれたりもしたけど、そもそも関与していないから揉めようがない(笑)」

加藤浩次、宮迫博之は「考えられへん」

 吉本に戻ったのも偶然、吉本の元会長だった林裕章氏と新幹線で遭遇したことがきっかけだった。

「“テンポいい漫才を若手に見せてくれよ”と言われ、俺も漫才がやりたかったから吉本に戻ったんです。

 でも自分で取ってきた講演会の仕事で忙しかったし、今までどおり自分で好きなことをしようと辞めただけなんですよ」

 最近では、吉本興業から独立したり、エージェント契約にする芸人が増えているが、'07年に吉本を離れ、元祖“独立芸人”ともいえる洋七は、事務所に対してこう話す。

「アホなマネージャーも多かったから100%いい事務所とも思わないけど(笑)。でもアホなマネージャーがついたら、そのエピソードを笑いに変えるのが芸人だと思う。

 闇営業騒動のときに、加藤浩次くんが番組を通じて物申したり、宮迫(博之)くんが会見したりと、会社にしっかりした意見を言ってたけど、俺らの時代からしたら考えられん。

 俺は吉本のたくさんある劇場に立たせてもらったおかげで、漫才の腕も磨けて、芸人として恵まれた環境だったと思ってます。ほかの事務所よりギャラは安いけどね(笑)。漫才やりたかったら吉本におったらええし、それ以外の才能があったら辞めてもいいと思うよ」

 コロナ禍の影響で、講演会が軒並みキャンセルになってしまったそうだが、よかった部分もあると笑いながら語る。

「それまで全国を飛び回っていたこともあり、家のことは奥さんに任せっぱなし。家事をやってくれるのが当たり前と思っていたけど、手伝うようになってこんな大変なことを毎日していたんだって。収入は減ったけど、こんなことがなければ、わからなかっただろうね」

 コロナが収束したら、弟弟子にあたる島田紳助らとまた会いたいという。

「大阪で講演会があると、毎年のように飲みに誘ってくれるんよ。去年2月も、俺の誕生日だからと大阪で飲み会を開いてくれたしね。あとは紳助お気に入りの餃子なんかを送ってくれるんです。俺は芸人と話すのが好きだなと実感しているから、コロナが落ち着いたらそんな仲間たちと気兼ねなく会いたいね」