1948年12月。東条内閣で商工大臣として宣戦布告の書類に署名し、敗戦後、A級戦犯として巣鴨拘置所に収監されていた岸信介が、不起訴のまま釈放された。

 その信介の娘・洋子が、毎日新聞の記者をしていた安倍晋太郎と結婚するのは1951年。信介が1953年4月の総選挙で政界復帰し、外務大臣になったのを機に晋太郎は仕事をやめ、信介の秘書となった。

 そこで政治とはどんなものかを目のあたりにする。晋太郎の父・寛も長州出身の政治家だったが、その世界は違いすぎた。

 1957年2月、信介は政界復帰してわずか4年で総理大臣に就任する。政治ジャーナリストがこう話す。

「信介は、就任してすぐにアメリカとの安全保障条約、いわゆる安保改定に向けて着手した。彼はまず訪米し、日米両国間が安保改定に取り組むことを公式に認めさせた。そして1960年6月19日、改定安保条約は日本において自然承認となる」

●晋三の目に映った祖父の信念

 晋三は、1954年9月21日、安倍家の次男として生まれた。父の晋の字をとったが、そこには長州の志士・高杉晋作の魂も受け継いでほしいという願いも込められていた。

「晋太郎の妻・洋子はよく幼い晋三と長男の寛信を連れて信介の家に遊びにきていた。安保闘争に揺れる時代で、その自宅の周囲は安保改定反対を叫ぶデモ隊が取り囲んでいるわけです。

 まだ何も知らない晋三は、家のなかで片手をあげながら『あんぽ、はんたーい。きし、たおせ!』と信介のまわりを歩いて遊んでいたそうです」(前出・政治ジャーナリスト)

 しかし、そんな幼き晋三の脳裏に焼きつき、原体験となったのは、デモ隊に自宅を囲まれても平然とし、孫に笑いかける祖父の顔だった。

「信介は総理になったのと同時に、内閣に憲法調査会を設置し、退陣したあとも憲法調査会で憲法改正の議論を続けさせ、1964年7月に最終報告書を池田勇人首相に提出する。しかし、これを池田は黙殺するんです」(同)

 安保改定を果たし、目的を達成したかのように見えた信介だが、巣鴨拘置所から奇跡的に釈放された彼が胸に抱いていたのは、安保改定のその先にある、憲法改正だった。

 だが、信介は志半ばで、1987年8月にこの世を去る。

●安倍家を襲った突然の不幸

 1958年に初当選した晋太郎は、中曽根内閣で外務大臣にまで上りつめた。晋三は神戸製鋼でサラリーマン生活を送っていたが、この父の大臣就任を機に大臣秘書官となった。

「この時代、晋三は晋太郎を頼って陳情にきた、北朝鮮によって拉致された有本恵子さんの母・有本嘉代子さんに出会うんです。この出会いをきっかけに晋三は拉致問題に取り組み、のちの小泉訪朝の際は官房副長官として同行。その後、幹事長というポストに大抜擢されるんです」(政治部記者)

 一方、父・晋太郎も、1986年7月に第3次中曽根内閣の成立とともに、自民党三役の総務会長に就任。同時に福田赳夫に代わって派閥の会長に就任した。岸信介が築き上げた政治家一族の名を途絶えさせないため、権力の頂点へ着々と上りつめていた。

 そして1987年を迎える。安倍一族にとって大きな意味を持つ年だ。

 ポスト中曽根をめぐり、安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一が名乗りをあげたが、三者会談で話がまとまらず、中曽根への一任となり、総理の座は竹下に渡る。晋太郎が以前落選したことが影響したといわれる。

「とはいえ、永田町では次こそ晋太郎というのが既定路線でした。ところが、1989年4月18日に晋太郎が体調を崩して入院。すい臓から十二指腸、胃の一部まで取りました。医者から伝えられたのがすい臓ガンで、余命2〜3年の状態だった。さらに、4月25日に竹下がリクルート事件を受け、辞意を表明するんです」(前出・政治ジャーナリスト)

 まさに断腸の思いだっただろう。しかし晋太郎はそれでも総理の座を諦めなかった。1990年1月、ソ連・ゴルバチョフ大統領との会談を果たすために訪ソする。外交の安倍として、起死回生を図ろうとしていたのだ。

「このときも体調が明らかに悪く、顔色も土気色で、それを隠すために顔にドーランを塗ったといわれます。そこまでするのは、総理への執念でした」(政治部記者)

 訪ソを果たした晋太郎は、今度は総選挙に臨み、自分の派閥の新人議員を大量当選させる。1991年4月、来日するゴルバチョフ大統領との会談をなんとかこなすが、1カ月後の5月15日朝、晋太郎はこの世を去った。

 晋三はその後を継ぎ、政治家になるとともに、山口県にある、東京ドーム18個分の土地をはじめ、膨大な資産も譲り受けることになる。しかし、相続したのは資産だけではない。総理の座を射止めるという「義務」もまた譲り受けることになったのだ。

●「安倍家」のルーツはどこにあるのか

 岸信介、安倍晋太郎、晋三の3代にわたる「華麗なるDNA」。そもそも「安倍家」のルーツはどこにあるのか。

「安倍という姓は第8代孝元天皇の時代に遡ります。神を饗宴でもてなす役を担っていた人々を『饗(あえ)』と呼びますが、これが転じて『あべ』になったと伝えられています。アイヌ語で『火』を意味する『アペ』に由来しているという説もあります」と日本人の姓名に詳しい関係者。

 晋太郎は生前に「我が祖先は奥州(岩手県)の安倍宗任である」と語っていた。宗任は平安時代の武将。源頼義との戦いで負けたため、四国の伊予国(愛媛県)や九州筑前国(福岡県)に配流されたのち、松浦水軍となった子孫が、現在の山口県大津郡に移り住んだという。

 明治以降の安倍家は酒や醤油を醸造する庄屋で、近在でも有数の資産家だった。晋太郎の父・寛も衆院議員だったが、安倍家の「華麗なる系譜」は晋太郎が岸信介の娘・洋子と結婚したことで築かれたといっていい。

●まるで戦国時代の政略結婚のよう

「岸信介と佐藤栄作は実の兄弟ですが、家系図を見てもわかるように、岸家も佐藤家も内部の関係は複雑です。まるで戦国時代の政略結婚のように養子縁組をしています。

 まず佐藤栄作と、元外相の松岡洋右(国際連盟脱退時の日本代表)を伯父に持つ寛子夫人はいとこ同士なんです。松岡家の政治家としてのDNAを絶やさないため、佐藤栄作と結婚したともいわれています。

 そして佐藤家の次男・信介が、父・秀助の実兄である岸信政に男子がいなかったため、良子と結婚して養子になりました。その一人娘の洋子が晋太郎と結婚し、安倍家の隆盛へとつながっていくのです」(政治部記者)

 だが、こんなエピソードがある。晋太郎が初めて選挙に出たとき、どこへ行っても「岸信介の息子です」と紹介されることに辟易し、「安倍寛の息子なんだけどな」とボヤいたというのだ。内心は複雑だったのかもしれない。

 しかし、そんな感傷は胸の奥にしまい、晋太郎は三男の信夫を洋子の兄・信和のもとに養子に出して、岸姓を名乗らせる。信和の夫人は、父が衆院議員、さらには明治の元勲・井上馨元外相に連なる系譜である。

 一方の佐藤家に目を向けると、従弟が吉田茂元首相の長女・桜子と結婚。その桜子の妹・和子の長男が吉田茂の孫、麻生太郎元首相となる。

 安倍家は経済界にも強いつながりを持っている。晋太郎の異父弟は元みずほホールディングス会長の西村正雄であり、晋三の兄・寛信の夫人はウシオ電機創業者の長女だ。また晋三夫人の昭恵の父は元森永製菓社長である。

 世襲議員が多い永田町でも、これだけ華麗な家系図を持つ議員はいない。連綿と受け継がれてきた政治家のDNAは、たしかに安倍首相に受けつがれている。