渡邉みどりさん。日本文芸大賞特別賞を受賞した『愛新覚羅浩の生涯』などの著書も

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「私は上皇后さまと同年齢で85歳ですが、現在は脊柱管狭窄や腰椎の骨折・陥没で、この先は長くなさそうなので自分自身のことを明らかにしたいと思い今回、自伝を書くことにしました」

【写真】上皇さまと手を取り合い、ワルツを踊られた美智子さま

 そう話すのは週刊女性の皇室記事の解説でもおなじみ、ジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡邉みどりさん。

 昭和9(1934)年に東京に生まれた渡邉さんは早大卒業後に日本テレビに入社。主に報道情報系番組を手がけ、昭和天皇崩御番組ではチーフ・プロデューサーを拝命。退職後はマスコミ活動の傍ら55冊の著作を発表している。

 美智子さまと同時代を生きたキャリアウーマンの“元祖”として、順風満帆な人生と思いきや……。

皇室との不思議な縁

 実は元警察官僚で第2次中曽根康弘内閣では自治大臣を務めた故・古屋亨氏の“かくし子”であることで、幼いころから嫌な思いを山ほどしてきたという。

「でもグレることがなかったのは、母親の愛情があったのと進学や就職がうまくいったからかもしれませんね」

 そう笑いながら半生を振り返る渡邉さんは、そんな実父とのいきさつを今回『かくし親』(講談社)で赤裸々に─。

 愛憎渦巻く親子関係の詳細はその新著に譲るが、皇室ジャーナリストとして活躍する渡邉さんは幼少のころから皇室とは不思議と縁があった。

”渡邉の子どもかい。かしこいね”

「昭和13('38)年ごろ、看護師だった母・渡邉貞は当時の住居表示でいえば、赤坂区青山北町6丁目42番地に看護師を派遣する看護婦会を設立しました。

 近くには陸軍の麻布三聯隊や日本赤十字病院、青山御所(赤坂御用地)があり、看護師を派遣していました。そんなご縁から、青山御所にお住まいだった大正天皇の皇后・貞明皇后にご挨拶することになったのです」

 4歳だった渡邉さんは母親からお辞儀の猛練習を受けることに。当日は緊張しながら貞明皇后のお目を見て「ごきげんよう!」とご挨拶をして「渡邉の子どもかい。かしこいね」とお褒めの言葉をもらったという。

「ご褒美は紺の制服生地1着分と虎屋のお菓子。まだ物心つかないころのおぼろげな記憶です」

 次の記憶は、昭和17('42)年2月、太平洋戦争開戦後のシンガポール陥落を祝い青山から宮城(皇居)前まで提灯行列に行ったときのこと。

「現在の上皇さまや姉上の照宮成子さま、孝宮和子さまが二重橋にお出ましになり万歳三唱をしました。当時の私は、日本は戦争に勝つものとばかり思っていた典型的な軍国少女でしたね」

 昭和20('45)年3月10日の東京大空襲のときは下町だけではなく渡邉さんが住む青山周辺も被害に。父方の祖父を不発弾の直撃で亡くしている。

 その後、渡邉さんは親戚が住む秋田県に疎開し、昭和天皇の玉音放送はそこで聞いたという。

「小学校に入ってからは、自分の家は普通の家とは違う。なぜ父親は毎日、家に帰ってこないのか疑問に思っていました。学校では“みどりちゃんのお母さんはお妾さんよね”などと言われ傷つきましたね。

 でも、空襲や疎開で身についた“こらえ性”が私を鍛えたのだと思います。 

 美智子さまの皇后時代の超人的な活動ぶりもその時代を生き抜いてきたからこそだと思っています」

 父親を「かくし親」と呼ぶ渡邉さんは、高校のときすでに問題意識があり反骨心ある少女だったようだ。

「通っていた東京女学館の文化祭で原爆展をやろうとしたら左翼的だと教師に反対され結局、退学させられました。

 その後、都立の高校に滑り込むことができて、早大に合格することもできました。このころに挫折していたらきっと私は不良になっていたと思いますよ」

美智子さまとの出会い

 大学時代はボートに打ち込んでいたが、ひょんなことから独身時代の上皇后さまである正田美智子さんの名前を知ることに。

「『はたちのねがい』という読売新聞の懸賞論文で、私は3次で落選しましたが、聖心女子大の正田美智子さんは第2位。

 その後、美智子さんは賞金2000円を恵まれない人と母校聖心の奨学資金に寄付する記事が掲載され、賞金でスキー旅行をしようと思っていた私は立派な方がいるものだとお名前が頭に残りました」

 その方が数年後、皇太子妃として名前があがり、さらに驚くことに。日本国中がミッチーブームで沸いたころ、渡邉さんはテレビ業界初の女性ディレクターとして活躍を始めたころだった。

「東京女学館の同級生が聖心に進み、美智子さまの同級生だった方もおり、さらに美智子さまのお料理の先生の石黒勝代先生のグループにも友人がいました」

 そんな縁もあり当時、担当していた『婦人ニュース』で美智子さまの人柄を取材する機会に恵まれたという。

「当時の東宮御所にボランティアで来ていた勤労奉仕団に紛れ込んで美智子さまと幼いナルちゃん(現在の天皇陛下)をそばで拝見したこともありました。

 昭和38('63)年に美智子さまは流産を経験されています。その年の7月8日に軽井沢に静養に行く直前、まだ新幹線もなかった上野駅のホームで拝見した痛々しいほどおやせになったお姿……美智子さまのはかなげな美しさは今も鮮明によみがえります」

 その後、渡邉さんは『美智子妃殿下の20年』、上皇ご夫妻の結婚25周年で『皇太子両殿下銀婚式に捧ぐ』などの皇室スペシャル番組で高視聴率を叩き出す。

皇室取材で培われたご縁

 昭和天皇の崩御報道でも活躍し、平成になっても現場での取材を続けた渡邉さん。

 新皇后雅子さまが結婚前の外務省時代、英国・オックスフォード大学に留学されていたときも現地で直撃取材をしている。そんな皇室取材で培われた関係でこんな縁にも恵まれた。

「日テレを退職後は、取材を通じて可愛がっていただいた高松宮妃喜久子さまの侍女長として働かないかというお誘いもありました。しかし、大学や執筆の仕事があったのでお断りしました。

 日本記者クラブ40周年のお祝いの会合では接遇委員として美智子さまとお話しする時間を3分間いただいたこともとても名誉なことでしたね」

 渡邉さんは、体力がゆるす限り、美智子さまの研究や取材を続け、若い人たちに伝えていくつもりだという。