現代の中国を俯瞰するには、生態環境・気候変動による歴史の変遷を併せて考えることが不可欠です(写真:kool99/iStock)

気候変動や遊牧民との関係など世界史のなかで中国史を捉え直すことで、新しい歴史が見えてきます。後編の今回は、モンゴル巨大帝国の成立から現代までを『世界史とつなげて学ぶ中国全史』の著者・岡本隆司氏が読み解きます。

前編:『「三国志」の動乱は実は寒冷化の産物だった

唐宋変革の影響は農耕世界・中国王朝ばかりにとどまりません。農耕民の経済力向上をもたらしただけではなかったからです。


金属器の増産で、鋭利な武器も大量に製造が可能となり、遊牧世界にも入っていきました。遊牧民も以前よりさらに強大な軍事力を持ったわけでして、同じ時期に遊牧国家が強くなったのも、こうした動因がはたらいています。

こうして10世紀以後の東アジアは、遊牧国家が活気づいて拡大したのと同時に、農耕世界も生産力を増大させ、それぞれの勢力がせめぎ合って相容れない、分立状況となりました。11世紀の契丹(きったん)と北宋、12世紀の金と南宋の並立・対峙がその好例です。

温暖化のなかで、伸長した経済力と軍事力とをどのように共存させるのか。当時の中国史は、その答えをずっと模索していた、といえるのではないでしょうか。そうした模索の果てに登場するのが、モンゴル帝国でした。

モンゴル帝国誕生の背景

13世紀初め、チンギス・カンの登場にはじまるモンゴル帝国は、何より遊牧軍事国家でした。トルコ系遊牧民を従え、軍事力を強大化させ、勢力圏を拡大してユーラシアの草原世界を制覇したのです。

しかし軍事・遊牧ばかりにとどまりません。草原から打って出て、隣接するシルクロード上のウイグル人やイラン系ムスリム商人も支配下に置きました。かれらはユーラシアの通商・財界を牛耳っていた商業資本です。

モンゴルの軍事征服活動を促し、広げたのは、むしろこうした人々のほうだったかもしれません。彼らはモンゴル集団の頭脳となって、遊牧の軍事力と商業・金融の経済力を結び付け、財務・外交を取り仕切りました。

モンゴル帝国はこのような体制を整えて、改めて農耕世界の征服に乗り出したのです。

その事業は13世紀の末、チンギスの孫のクビライの南宋征服で、完結します。東アジアの経略に重点を置いたクビライは、中国・農耕世界の豊かな生産力を草原世界の軍事・商業と組み合わせて、ユーラシア全域に及ぶ交通圏・経済圏を形づくりました。

モンゴル帝国はまた同時に海上への展開も開始していて、日本の「元寇(げんこう)」もどうやらその一環です。首都の北京に江南の糧食・物資を運び入れるのに海運を使いましたし、インド洋の海路を使った使節往来や民間交易も進めました。ムスリム商人が以前からそこで交易しており、中国にも来ていたのですが、モンゴル帝国はその組織化を試みたわけです。

こうしたモンゴル帝国の誕生と繁栄は、唐宋変革を経たアジア史・中国史の展開の集大成・到達点だった現象ともいえます。

9世紀以来、温暖化に転じた遊牧世界・農耕世界は、それぞれが大きな発展をみせました。半面そのゆえにこそ、互いの相剋を免れず、安定した秩序を求めて模索を続けました。そうした模索がこの時期、政治的・社会的に結実して、モンゴル帝国として1つにまとまったとみることができるでしょうか。

「14世紀の危機」と明朝の成立

モンゴル帝国の建設と繁栄の前提には、地球規模の気候変動・温暖化と東アジアの経済発展・唐宋変革がありました。では、その前提が崩れれば、いったいどうなるのでしょうか。

14世紀以降、地球は寒冷化に向かいました。そこで起こった数々の混乱現象は、ヨーロッパの歴史学において「14世紀の危機」と呼ばれています。とくに「黒死病」(ペスト)が有名ですが、これは中央アジア・モンゴル帝国で発生したものが伝染していったことが明らかになっています。

ですから、「危機」はヨーロッパばかりではありません。ユーラシア規模のものです。モンゴル帝国はこれで解体、消滅したといっても過言ではありません。

その影響が最も顕著だったのが、ほかならぬ東アジア・中国です。各地で反乱が多発して、モンゴル政権の支配は瓦解しました。クビライの作った草原世界と農耕世界を統合するシステムも機能不全に陥り、モンゴル政権は草原に撤退して、再び遊牧国家に回帰しました。

代わって、中国の農耕世界を統一支配したのは明朝です。明朝政権は「14世紀の危機」を初期条件に発足しました。

当時の中国は、寒冷化による疫病や災害の発生・生産の低下・商業流通の沈滞・景気の落ち込み・治安の悪化など、およそ社会経済的にドン底の状態だったのです。そこで政権は、庶民を直接に掌握し、とにかく農業に従事させて生産力の回復をはかりました。

そのために極端な農本主義・反商業主義をとって、通貨を使わぬ現物主義を徹底させ、地主・資本家などの有力者を弾圧しました。もちろん貿易もご法度で、厳重な一種の鎖国政策をとります。

当面の経済リハビリには、こうした政策が功を奏したかもしれません。しかしあくまで「危機」に対応した措置でしたから、「危機」が去れば、政策が転換して当然だとわれわれは考えます。しかし中国史はそうなりませんでした。明朝の反商業主義・現物主義・鎖国主義は、以後一貫した国是として続きます。

15世紀の後半以降、「危機」は去って景気も上向いてきました。16世紀に入ると、世界は大航海時代、地球規模の商業ブームが訪れます。そのなかで中国国内も経済発展を遂げました。米作中心だった江南デルタは、手工業を発達させて、シルクをはじめとするその特産品が、世界の市場を席巻しました。

それに伴い、内地の再開発も進んで各地の生産は多様化していきます。このように多元化した社会は全体として商業化の様相を色濃くし、ご法度だった貨幣・貿易に対する人々の欲求も高まりました。

しかし明朝政権の態度は、一向に変わりません。民間ではそのため、独自に貨幣を設定し商法を取り決め、政治とは関わりのない経済システムを発展させていきました。そして貿易取引も、政府の意向にかまわず実行しましたから、密輸や外国との通謀なども頻発します。その代表例が日本も巻き込んだ「倭寇(わこう)」でした。

以後の中国はこのように、社会経済に指導力を持たない権力と、多元化して独自性、自立性を強める民間で成り立つ構造になりました。

両者が比較的に平穏な関係を保つときもあれば、対立を深める場合もあります。権力の側はいかに民間が離反しないよう、バラバラにならないようにするかに腐心し、民間はいかに権力が自らの生業・生活を乱さないような関係を取り結ぶかが問題でした。

清代から現代へ

17世紀半ば、内乱が頻発した揚げ句の明朝滅亡は、こうした権力・民間の関係が破綻したことを示すものでした。

明朝に代わって中国に君臨した清朝政権は、乏しい力量をよくわきまえて、民間社会の活動を抑圧するような政策は手控えました。貿易を開放し、自由な商取引を認めていますし、民間の使用する貨幣も規格をそろえたくらいで、干渉はしていません。

トラブルの起こらない限り、権力が制度・政策として、社会経済に規制、掣肘(せいちゅう)を加えるようなことはありませんでした。一元的な政治・法制と一体化せず、むしろ多元的な民間社会・地域経済の組み合わせ・関係性で成り立つ中国経済は、この時代に成形化を果たしました。

18世紀になりますと、「財政軍事国家」を形成したイギリスが、グローバルな世界経済をリードし、科学革命による技術革新を活用して、産業革命を成就させました。

近代列強のトップランナーです。イギリスが牽引した世界の貿易は、かつての大航海時代にも増して、グローバルな規模で拡大し、中国経済もその一環として組み込まれていきます。イギリスとの貿易が盛んになった18世紀の後半は、中国も未曾有の好景気に恵まれ、繁栄を謳歌しました。

世界史のメイン・ステージ、交通の幹線は、大航海時代を経て、すでに大陸から海洋に変わっていました。それは、14世紀のモンゴル帝国までのような、遊牧・農耕の生態環境と気候変動がダイナミズムを与えていた時代とは異なる段階に、中国史全体が入ったことを意味します。

中国史も明朝以降は、海によって左右される時代に突入したのです。明朝の盛衰も海洋貿易の消長に大きな影響を受けました。清代も同じことがいえます。

近代以降、中国が苦悩し続ける理由

17世紀の中国はデフレ不況でした。18世紀は逆にインフレ好況になっています。それも海外貿易が盛んだったどうかに動かされた結果です。そうした様相は、19世紀の近代西洋の世界制覇の時代ともなれば、いよいよ明らかになってきます。

中国近代史には、教科書に載っているだけでも、おびただしい史実・事件があります。アヘン戦争から日清戦争・日中戦争に及ぶ対外戦争、太平天国や義和団など、頻発した内乱、工業化や通貨統一など、経済の近代化への苦闘、そして中国革命の発動。とても覚えきれるものではありません。しかしそのほとんどは、外国との関わりとせめぎ合いを抜きに考えられないものです。

産業革命以後、全世界的に機械制工業と化石燃料の利用が普及しました。そのために現代人は、生態環境と気候変動が影響を及ぼした歴史をつい忘れてしまいがちです。

しかし前回からみてきましたように、季節・気温の変化に伴う環境条件、それがもたらす衣食住のバリエーション、生産・流通のサイクル、経済・政治の組織編成は、特徴ある中国の歴史を形づくってきました。

それが多元的分散的な中国社会の基本条件をなしていますが、欧米・日本という凝集的集権的な近代国民国家と対峙すると、繰り返し苦杯を喫する原因にもなりました。そうした経験を経るなかで、自らの基本条件を再編して、現代の中国が生まれてきたのです。

ですから、現代中国をみるには、近代欧米の国民国家をスタンダードにするだけでは、十分ではありません。アジア・中国がたどってきた生態環境・気候変動による歴史の変遷を併せて考えることが不可欠なのです。

現代中国の特異な政治体制、経済構造は、通り一遍の政治学・経済学の理論では解けない問題ばかりです。中国史の展開から見直すことが、変転常なしの現代世界に向き合うために、何よりも必要ではないかと思います。