西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(28)
【ベテラン】ヤクルト・杉浦享 後編

「広沢のスライディングはベストではなかった」

――1992年の日本シリーズ第7戦。1−1の同点で迎えた7回裏ワンアウト満塁の大チャンス。対戦したのは石井丈裕投手でした。

杉浦 スライダーが抜群の投手でしたね。僕の場合、インサイドのボールに詰まることはほとんどないんですけど、石井くんの場合はしっかり詰まらされました。曲がりが急だし、すごくいい角度で曲がってくるんです。とても打ちづらい投手でした。


杉浦のサヨナラ打で、1992年の日本シリーズ初戦を取ったヤクルトだったが・・・・・・ photo by Sankei Visual

――前回の続きとなりますが、初戦で鹿取義隆投手から満塁ホームランを打ったことが伏線となって、「アウトコース低めのボールがくるだろう」と読んで打席に入って、まさに、狙い通りのゴロを打ちました。しかし、三塁走者の広沢克己(現・広澤克実)選手はホームでアウトとなりました。

杉浦 はい。だから、広沢のスライディングはベストではないように見えました。満塁でゴロを放ったのに、スタートが遅れているんです。後にこの場面の映像を見たら、広沢は一度戻ってからスタートをしていました。そして、そのまま真っ直ぐホームベースを目指すべきところ、回り込んでスライディングをしていました。何とかバットの先に引っ掛けてゴロを打ちましたが、結局は得点できなかったんです。

――この場面がきっかけとなり、「もう1年、現役を続けよう」と思ったわけですね。

杉浦 前回も言ったように、僕は「今年のヤクルトはとても強いチームだ」と思っていました。だから、「この悔しさがあれば来年はもっと強くなるだろう。絶対に日本一になるだろう」という確信がありました。だから、もう1年続けたいと思ったんです。それで野村さんに「今年限りで辞めようと思っていましたが、来年このチームは絶対に日本一になるから、もう1年だけ置いてください」と頼みました。すると、「やりたいのなら残ってもいい」と言われたので、もう1年だけ続けることにしたんです。

――仮に1992年に日本一になっていたら、思い残すことなくユニフォームを脱いでいたのですね。

杉浦 間違いなくやめてます。そもそも、そのつもりだったんですから。でも、この悔しさがあったから、翌年もプレーすることになりました。正直に言えば、現役生活が1年延びたことがうれしいのではなく、もう1年続けることは「悔しい」という感覚だったんです。「日本一になってやめたい」という思いのほうが強かったんですよ。

――結果的に、翌1993年のスワローズは日本一となりました。やはり、杉浦さんが考えていたように、チームのムードはガラリと変わったのですか?

杉浦 大きく変わりましたね。池山にしても、飯田にしても、古田にしても変わりました。明らかに前年よりも、強く、たくましいチームに変わったと思いますね。

ベテランとして若手を支える役割を

――前年の悔しさを胸に臨んだ1993年シーズンは、当初から「今年限りだ」という思いで臨んだ1年だったんですね。

杉浦 そうです。本音を言えば、前年のシリーズで日本一になって引退したかったです。だから、1993年は「もう1年、現役ができる」という喜びよりも、前年限りで辞められなかった「悔しさ」が勝っていたシーズンでした。


映像を見ながら当時を振り返る杉浦氏 photo by Hasegawa Shoichi

――前回もお聞きしましたが、「今年は絶対に日本一になる」という確信はどこから生まれてきたのですか?

杉浦 前年に負けたからです。西武に敗れたことによって、みんなが悔しさを持っていました。そして、「さらにひとつにならなければ勝てない」という思いが芽生えていたからです。それに、西武はすでに完成されていたチームなので、これから落ちていく一方だけど、うちはまだまだ伸びていくチームだと思っていたからです。

――確かに1993年のライオンズは、(オレステス・)デストラーデ選手がメジャー復帰するなど、戦力ダウンは否めませんでした。

杉浦 1992年の日本シリーズは本当にわずかの差で敗れました。そのわずかの差は絶対に埋められると思っていましたから。ハッキリ言えば、僕は戦力としては力になれないかもしれないけど、ベテランとして若手選手にアドバイスを与えるなどできればいいなと思っていました。僕自身は、1992年の日本シリーズで完全燃焼していましたから。

――そして、1993年は見事に日本一になりました。

杉浦 これで、何も思い残すことはなくユニフォームを脱ぐことができました。この2年間は自分のプロ野球人生において、もっとも印象深く、もっとも忘れることができない2年間になりました。

「あと10年遅く生まれて、古田たちともっと野球がしたかった」

――大ベテランだった杉浦さんは、1978年のチーム初の日本一も経験しています。このときは広岡達朗監督、森昌彦(現・祇晶)ヘッドコーチでした。つまり、杉浦さんは野村克也監督だけでなく、敵将である森さんとも同じユニフォームを着ていました。杉浦さんから見て、野村さんと森さんは似ていますか? まったく違いますか?

杉浦 似ているところもあれば、違うところもありますよね。野村さんは「教える」ということに関しては日本一だと思います。でも、大事なところで人のせいにする部分があるのが残念です。敗戦の責任を選手やコーチのせいにするのではなく、「オレのせいだ」と言えばいいのに、それができない。口にはしないけど、たぶん古田(敦也)は相当悔しい思いをしていると思いますよ。僕はバカだから、すぐ口にしちゃうけど(笑)。

―― 一方の森監督はいかがですか?

杉浦 あのときは広岡監督の時代ですからね。広岡さんが最初に取り組んだのは選手たちの意識改革でした。あの頃は「酒は飲むな、白米は食べるな、タバコは吸うな、遅刻はするな」など、とにかく厳しい時代でした。そのときに森さんは、選手の部屋を回って冷蔵庫の中身をチェックするようなことをしていました。”嫌われ役”に徹していたイメージが強いですね。でも、やかんや急須に、ビールや焼酎を入れて飲んでいたんですけど(笑)。

――ちなみに、「広岡野球」はどのように見ていましたか?

杉浦 広岡さんの場合は、与えられた戦力を一度すべてリセットするんです。ポンコツをすべて解体して、部品を磨き直す。それから、あらためて組み立て直す。そんなチーム作りだったような気がしますね。でも、野村さんは土橋(正幸)さん、関根(潤三)さんが我慢して使い続けた選手たちが伸びてきた頃に、それを受け継いで、そこに「頭脳」を注入した。そんなイメージがありますね。

――1992年、そして1993年の日本シリーズはともに第7戦まで戦い、2年間のトータルで言えばスワローズもライオンズも7勝7敗でした。両チームの決着は着いたのでしょうか?

杉浦 うーん、互角でしょうね。西武はすでに完成されたチームで、一方のヤクルトは伸び盛りのチームでした。その両チームが真正面からぶつかり合って、最初は西武が勝ったけど、次の年はヤクルトが急成長して見事に勝った。やっぱり、互角だったと思います。僕自身はすでに引退を決意していたし、体もボロボロだったのであまり戦力にはなれなかったけど、野球人生最高の思い出ができました。悔いはまったくありませんが、ひとつだけ欲を言えば、あと10年遅く生まれて、古田たちと同じぐらいの年代で一緒にプレーしてみたかったですね。