「新潟と群馬県境の三国峠を切り崩すッ。そうすれば日本海の季節風は太平洋側に抜け、越後に雪は降らなくなる。皆が、大雪に苦しむことはなくなるのであります! 崩した土砂はどうするか。ナニ、日本海を埋め立て、新潟と佐渡を陸続きにさせる手もある!」
 人任せの前回選挙に懲りた田中角栄は、この昭和22年3月31日公示の戦後第2回総選挙では徹底した“自前選挙”、同時に“言論戦”に力点を置くなど戦法を大きく変えた。何とも壮大、大ボラも交えた冒頭の演説がそれを象徴していた。

 一方で、運動の拠点といえば長岡など選挙区の中心部でなく、山奥などわずかな戸数の「陸の孤島」「辺境の地」がほとんどであった。中心部は先輩議員に押さえられ票の獲得が難しかったが、単に票のためということではなかった。「田中政治」の原点である。筆者が取材した当時の選挙参謀の弁がある。
 「田中には“辺境の地”を見るにつけ、雪の犠牲を伴う新潟を何とかしなければの想いが強かった。大雪で山を越さなければならない小学生は学校にも行けず、隣村へ出るため住民が自らツルハシをふるって隧道を掘ったが、異常出水、落盤に見舞われ、働き盛りの若い衆の犠牲も多く出た。塩谷地区の雨乞山もその一つだった。そういう地を見れば見るほど、田中の気持ちの高ぶりがあったということだ。『雪は都会人にはロマンだが、新潟では生活との戦いだ』という田中の一貫した口癖が、それを物語っている。田中はわれわれが『あんな所は票にならん』と言っても、ゴム長靴を履き『行ける所まで行くぞ』で率先して入って行ったものだ。運動員は付いて行くのがやっとだった。このときの選挙で塩谷地区から出た票はわずか2、3票だったが、その後も田中はこの塩谷地区を見放すことはなかった。やがてこの地区は田中支持一本になり、総理大臣になったときには隧道を立派なコンクリートの“新塩谷トンネル”建設に手を付け、住民は長く田中を神様扱いで感謝したものだった」

 バイタリティーの固まりだった田中は、寝食を忘れ、1日9会場も駆けずり回った。このときの田中の“元気ぶり”を、一方でこう苦笑した柏崎の古老支援者がいた。
 「選挙戦で駆け回る中『親方、アンタ寝なくて大丈夫なのかね』と聞くと、田中はシャアシャアとして言っていた。『ナニ、ノミや蚊に食われん所で一杯ひっかけ、2時間も熟睡すれば平気だッ』と。また、1日の選挙戦が終わると反省会があるのだが、場所は決まって柏崎駅裏手の女郎屋。酒が入り、まぁ田中の独演会で終わるのだが、反省会の結びによくこう言っておった。『さあ、皆さん、そろそろ帰ってええですよ。明日もまたよろしくッ』。運動員を追い返し、田中のみ、そこにお泊まりというワケだ。バイタリティーは、当時から相当なモノがあった」

 この選挙戦、どうしたものかこの地ではいささか異様なザブトン帽に詰め襟姿の学生たちが、田中陣営の応援に加わっていた。早稲田大学雄弁会の学生たちであった。実は、早大生と田中には接点があった。戦後間もなく、早大の校舎は荒れ果てていたが、『田中土建工業』に工事を頼むと安価で二つ返事で引き受けてくれた。その社長が選挙に出るなら今度はお返しということで、雄弁会の学生がわざわざ応援に駆け付けてくれたということである。
 学生たちの演説は、なかなか気の利いたものであった。他の与野党候補が多く語る「農村改革」「議会主義の必要性」などといったカタイものではなく、「皆さん! 今まさに国破れて山河あり。これからの日本にとって大事なことは、何より家族ということであります。家族の延長線に民族があり、その象徴として天皇制があるッ」といったようなことをブッていた。これを見た田中はこの混沌の時代に「家族」という言葉を使う学生に大いに感心、早速、次のように自らの演説に取り入れたのであった。感覚のスルドさは、田中の持ち味である。