新スタジアム建設。これほど好奇心をそそられる話はない。どんなスタジアムになるのやら。よいスタジアムが完成して欲しいとの願いはもちろん抱いているが、日本のスタジアムにまつわるこれまでの経緯を思うと、期待と同じぐらい不安に襲われる。先日、吹田市に建設の意向を伝えたというガンバ大阪の話だ。

よいスタジアムの条件として、よく例えられるのが「劇場」だ。劇場的な空間を演出できるスタジアムがよいスタジアムとは、かつてJリーグのお偉いさんも口にしていた台詞。僕もまったくその通りだと思うが、話は大抵そこ止まりだ。スタジアムの重要性は世の中にまだまだ浸透していない。自称スタジアム評論家を吹聴する人は(僕のように)、けっして多くない。

なぜサッカーなのか、この職業に就いた理由を訊ねられたとき、これまで僕はピッチの中身をいの一番に挙げてきた。「82年のスペインW杯で、イタリア対ブラジルの名勝負を見てしまったからです」と、何度となく述べてきたが、強調したいのは、それをバルセロナのサリアスタジアムという現場で見た点にある。その空間に身を置いた経験が、サッカー、(ひいてはスポーツに)病みつきになった理由だ。名勝負を見たさというより、名勝負、名場面に現場で遭遇したいからが正確な答えになる。

もっとも名勝負の数はけっして多くない。空振りを食らう回数の方が断然多い。忘れた頃に遭遇するのが名勝負。名勝負とはそういうものだ。にもかかわらず、名勝負を追い求めようとすれば、スタジアムを訪れる意欲がなにより不可欠になる。スタジアムを訪れることに喜びを見いだせなければ、名勝負に遭遇することはできない。言い換えればそうなる。

試合内容が平凡でも、スタジアムがよければ名勝負を見たいという動機は維持される。この職業を続けてきた理由と、スタジアムは濃密な関係にある。

スタジアムがよいサッカーを台無しにしてしまう場合さえある。サッカーにおいてスタジアムの果たす役割は、サッカーの試合内容以上に大きい。気がつけば、スタジアムについて一言も二言も言いたくなる自称スタジアム評論家になるのは、当然の帰結だ。

しかし、サッカーの試合内容は改善可能だが、スタジアムは改善不可能だ。どんなダメチームでも、シーズンに1度や2度は必ずよい試合をする。面白い試合をしてくれる。名勝負を演じるのは、世界の一流チームだけではない。レベルに関わらず遭遇することができるが、スタジアムは普遍だ。ダメなスタジアムは哀れにも、それが取り壊されるまで、ダメなままで通ってしまう。一生汚名を返上することはできない。作るならちゃんとしてものを、と言いたくなる所以だ。

スタジアムの建設費用は目茶苦茶高い。いまの世の中を考えると目茶苦茶贅沢な話だ。

お金の使い方にはより慎重になる必要がある。有効活用されなければ罰が当たる。最大限の工夫が求められている。2002年のワールドカップ用に建設されたスタジアムは、そういった意味で大きな問題があった。残念きわまりないとはこのことだ。日本のサッカーは右肩上がりを示しているというのに、それを鑑賞するための「劇場」が、お粗末ではよいサッカーも、よいサッカーには見えにくい。

僕の専売特許である(?)サッカー偏差値論でいえば、日本のスタジアムの偏差値は、プレイの偏差値を大きく下回っているのが実情だ。ガンバ大阪は、ガンバ大阪のサッカーの偏差値を上回るスタジアムを作らないと、ガンバ大阪のトータルなサッカー偏差値は上がらない。

ところで、サッカーの試合が行われていない日にスタジアムを訪れたことがある人はどれほどいるだろうか。ひっそり寂しそうにしているスタジアムもあれば、思いのほか賑やかなスタジアムもある。