「欧米は個人主義、日本は集団主義」は大嘘だ

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ルース・ベネディクトの『菊と刀』によれば、欧米は「罪の文化」で、日本は「恥の文化」とのことだが…(撮影:今井康一)

渋谷のハロウィン騒動、日大アメフト部問題、さらには文書改ざん問題に象徴されるように日本人は権威に弱く、同調主義的であるという見方が根強くある。だが、はたしてそれは本当なのか。
施光恒(九州大学大学院准教授)氏の新刊『本当に日本人は流されやすいのか』を切り口に、中野剛志(評論家)、佐藤健志(作家、評論家)、柴山桂太(京都大学大学院准教授)の気鋭の論客4人が、徹底討議する。

日本型自律性とは

佐藤:施さんは今年、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)を上梓されましたね。この30年余り、わが国は「良くて成果なし、悪ければ弊害だらけ」の新自由主義改革を続けてきましたが、それを「自分に合っていない自己啓発にこだわる人」に例えていたのが印象的でした。

:21世紀の日本を21歳のJくんとすると、戦後の日本を次のように擬人化できます。

彼は19歳のときまでひきこもりがちだったのですが、穏やかな生活を送っていました。19歳になって半年過ぎたころ、遠くから来た乱暴者たちに半ば強引に世間に引っ張り出された。世間に順応しようと懸命になり、どうにかうまくやっていったのですが、20歳の半ばごろ、遠くから来たその乱暴者たちと大ゲンカして結局、負ける。

その際、近所の幼なじみたちにも少々乱暴な振る舞いをしたとして、結局は保護観察処分となり、今後、生活の基本ルールを守って慎ましく行動するよう裁判で言い渡された。そのルールが日本国憲法で、保護観察司がGHQですね。むろん、裁判とは東京裁判です。

その後は勤勉に働いて、経済的には豊かになったけれども、幼なじみから昔の行いを責められたりして、自信満々になったかと思えば落ち込んだり、かなり不安定なキャラクターになっている。

「更生したばかりの元非行少年」という揺らぎやすいアイデンティティを持っているゆえ、自分に自信が持てない。それでJ君は最近、自己啓発にはまっています。

仕事のやり方や生活習慣を改善するための自己啓発に一生懸命で、最近は「英語を身に付けグローバル化に対応しなければ」とか、「プログラミングを勉強しなければ」などと思ったりもしている(笑)。まじめなJ君はやはり懸命に努力し、乱暴者の親分格だったUS君に認められようと日々自己啓発に取り組み続けます。しかし、J君は、自分の基本的なアイデンティティを喪失していますので、的外れな自己啓発を繰り返してますます自信をなくし、やる気も日々失われていっている。

:多くの日本人がもっている戦後から現在にかけての日本のナショナル・アイデンティティのイメージとは、このようなものではないでしょうか。最近、自己啓発にハマっている更生したばかりの元非行少年というわけです。

こういう話を学生にすると、右っぽい学生からは「第2次大戦って本当に非行だったんですか」と言われ、左っぽい学生からは「そんな例え話は不謹慎です」と言われるんですが(笑)。

『菊と刀』の日本人観

佐藤:ルース・ベネディクトの『菊と刀』を、かなり批判されていますね。「西洋人は原理重視で個人主義的、確固たる自己を持っており自律性が高い。日本人は状況重視で集団主義的、協調を重んじるので自律性がない」という有名な主張は間違っていると。


施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院准教授。1971年福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

:今回の拙著のテーマは、「日本文化における自律性」です。特に、前半では、そうした陳腐な日本観を批判しています。

日本の構造改革論の根底には、「日本人は自律性・主体性に欠け、集団主義的・同調主義的で、時として軍国主義にも陥りやすい、劣った文化と倫理観の持ち主である」という自己批判的な認識があると指摘しました。戦後の日本では、特に、進歩的文化人と呼ばれる人たちの間で顕著でしたが、「こうした日本的な集団主義的文化を、よりアメリカ的な自律的で個人主義的な文化に変えなくてはならない」という主張がなされてきました。このような見方は、左派だけでなく、構造改革を推進してきた一部の右派も共有しています。

最近、日本大学のアメリカンフットボール部の反則指示問題がトップニュースになりましたが、そこでもやはり「日本の組織は集団主義・同調主義的で、みなボスの言うことに従うだけ」という論評が見られます。

中野:「日本」大学だけに(笑)。

:ははは。こうした見方の源流の1つをベネディクトの『菊と刀』とみて、その是非を検討したわけです。私自身はベネディクトの見方は一面的であり、日本にも、欧米とは異なる形のものだが、日本型の自律性、主体性が備わっているという考えです。

佐藤:ベネディクトによれば、欧米は「罪の文化」で、日本は「恥の文化」とのことですが、十分に内面化された恥の意識を、罪の意識と区別するのは不可能です。日本人にも自律性・主体性がないはずはない。具体的な表れ方に違いがあるだけでしょう。

:欧米型の、人をそれぞれが独立した存在とみなし、自己主張とぶつかり合いを前提とする「相互独立的自己観」「原理重視の道徳観」に対し、日本では多様な、さまざまな他者の観点を内面化し、その多様な他者の観点から自分の行いを自己批判的に反省し、他者とよりよき関係を保とうとする「相互協調的自己観」「状況重視の道徳観」が文化の基本となっている。日本人は他者の視点から自分の行動を反省することを通じて他者の多様な観点を内面化し、反省を繰り返す。

日本型の「自律性」とは、このように、多様な他者の観点を内面化し、内面化したさまざまな角度から厳しい自己批判を行い、つねに、幅広い視野の下、真に状況にかなった行為を絶えず追い求めていこうとする姿勢のことだと考えています。

成長するにしたがって、身近な特定の他者の観点のみでは満足できなくなり、より広い世間の観点を意識し始める。ひいては、いわば「お天道様」の観点、つまり状況のすべてを把握している理想的な観察者の評価に沿う行為をとろうと絶えず努めるようになる。周囲の評価はどうあれ、「お天道様」に恥じない行為を目指すのです。日本文化には、こういう「自律性」に至る道がきちんと内在していると見ることができるというのが、拙著の主張です。

日本人は本当に集団主義的か

中野:第2次世界大戦についてのベネディクトの主張は、「集団主義に個人主義が勝った」ということなんでしょうか。実際にはアメリカは物量で勝ったわけで、軍隊のマネジメントを考えても個人主義では成り立たない。アメリカは集団主義で勝ったに決まっていると思いますが。


佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家、作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。戯曲『ブロークン・ジャパニーズ』(1989年)で文化庁舞台芸術創作奨励特別賞を受賞。『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋、1992年)以来、作劇術の観点から時代や社会を分析する独自の評論活動を展開。主な著書に『僕たちは戦後史を知らない』(祥伝社)、『右の売国、左の亡国』(アスペクト)など。最新刊は『平和主義は貧困への道』(KKベストセラーズ)(写真:佐藤 健志)

佐藤:「全体主義に(自由)民主主義が勝った」と言えば、もっと的確でしょうね。なるほど、外的な要因による影響をゼロと見なしてよいのであれば、協調性を重視する国民のほうが、集団主義や全体主義に走りやすい傾向を持つかもしれません。

しかし人も社会も、真空の中に存在するわけではない。国民の気質が個人主義的なら社会システムは民主主義になるとか、協調重視なら集団主義や全体主義になるなどと、安易に断定はできません。社会の置かれた具体的状況、およびその背後にひそむ歴史的な経緯や条件が、大きくかかわってくるのです。

特に重要なのが、19世紀後半以降の第2次産業革命。これによって製造業を中心に「生産規模を拡大し、みんなで助け合うほど、効率よく豊かになれる」状況が成立します。いわゆる「規模の経済」ですが、ならばどの国でも集団主義が魅力的に映るはず。実際、流れ作業による自動車の大量生産を実現したのは、アメリカのヘンリー・フォードでした。

柴山:資本主義の歴史は、個人企業の時代から大組織の時代へと移行してきたわけで、その中で「組織をどう運営していくか」が競い合われることになった。

佐藤:往年のアメリカ自動車産業など、日本的経営をやっていたのか? という感じですからね。ミシガン州にフリントという町がありますが、ここは住民の多くがゼネラル・モーターズ(GM)で働いていた。そのため1950年代には、GMに感謝するパレードを毎年開催しているんです。パレードの横断幕いわく、「チームワークこそ栄光の秘訣、さらなる高みを目指して進もう」。これが集団主義でなくて何なのか。

アメリカ社会は今も集団主義的

中野:アメリカ社会は今も集団主義的ですよ。日本人でもアメリカをよく知っている人ほどそう言います。


柴山 桂太(しばやま けいた)/京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。専門は経済思想。1974年、東京都生まれ。主な著書にグローバル化の終焉を予見した『静かなる大恐慌』(集英社新書)、エマニュエル・トッドらとの共著『グローバリズムが世界を滅ぼす』(文春新書)など多数(撮影:佐藤 雄治)

しばらく前にはやった「忖度(そんたく)」という言葉について、「そういうことはアメリカにはない。英語にはない」なんて言っていた人がいましたが、うそを言ってはいけません。忖度なんてものはアメリカでも普通にありますよ。むしろ映画などで組織に従わない個人がヒーローになっているのは、その反動じゃないかと。

構造改革論者は「個人主義でなければだめ」と言いたがりますが、それは個人主義を称揚するアメリカメディアのプロパガンダを真に受けているからです。実際はアメリカ人が個人主義なのではなくて、アメリカ人の理想が個人主義ということにすぎない。

佐藤:だいたい、わが国では「個を確立しよう」と説く人ほど没個性的と相場が決まっている。アメリカ化への同調を強いているのですから、当たり前の話です。

中野:多様性が大事なら、みんなで「ダイバーシティ」なんて口をそろえて言うなということですよ。そういうのを見ていると、施さんの本とは逆になるけれども、「日本人ってやっぱり流されやすいのかな」という気もしてしまうんです。

柴山:集団主義という言葉はあいまいなところがありますね。人と違うことをやるという意味での個性を認めるのが自由社会だというのがジョン・スチュアート・ミルの古典的な自由論でしたが、集団主義はその反対ということなのか。

佐藤:福田恆存は「個性は強制と禁止によってしか生じない」と喝破しています。いわく、人間は強制や禁止の下で初めて、何を強制されたり禁止されたりするのがいちばんつらいかを自覚する。つまり本当にしたいことが見えてくるわけで、それこそが個性確立の出発点である、と。

柴山:あえて禁止されていることを行うエキセントリックな人間を個性的と考えるわけですね。しかし日本にも「数寄者」「傾奇者」というように、そういう人間を認める文化もありましたね。

佐藤:「歌舞伎」は、「自由奔放に振る舞う」「異様な身なりをする」という意味の「かぶく」が語源です。個性を尊ぶ伝統は、わが国にもちゃんとあるわけですよ。

中野:おそらく日米双方に「集団主義はカッコよくない。個人主義がカッコいい」というバイアスがあるんでしょうね。実際はどの国にも両方の側面があって、時々によって、どちらにより強いハイライトが当たっているかが違うだけでしょう。

佐藤:『菊と刀』を理解するカギは、第2次大戦中の敵国研究として始まったことです。アメリカは当時すでに、日本占領を視野に入れていました。全体主義に走った日本人を矯正するつもりだったのですが、そのためには条件があります。

つまり日本人を「今のところは異質で『悪』だが、正しく導けばアメリカ的な『善』にめざめる存在」と位置づけること。すなわち、この点を矯正したら日本人もよくなるというターゲットを見つけだす(ないし、でっち上げる)ことが求められていたのです。ベネディクトはそれを「恥の文化」や集団主義として提示したのではないでしょうか。

アメリカ型個人主義の裏側

柴山:ミシェル・フーコーが50年前に、近代社会は規律訓練型権力で成り立っていると指摘しましたが、アメリカを見ていると本当にそう思います。表向きは自発的に行っているように見える行為でも、実際にはそうするよう強制され方向づけられている権力の働きは、たとえばアメリカの大学文化によく表れている。授業の前に大量の文献を読ませ、出席を取り、レポートを提出させ、ゼミでは発言しないと点をやらないとか、こういう仕組みをよく思いつくなと感じますね。


中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』『世界を戦争に導くグローバリズム』(ともに集英社新書)、『国力論』(以文社)、『国力とは何か』(講談社現代新書)、『保守とは何だろうか』(NHK出版新書)、『官僚の反逆』(幻冬舎新書)などがある。(撮影:今井 康一)

日本の大学は、もともとそういうシステムとは相性が悪い。一昔前の京都大学が典型ですが、そもそも「大学に行くこと自体が格好悪い」という考え方がまかり通っていましたし、大学側にも「期末試験は知人のネットワークでノートを集めて対策を立てろ、あとは好きなことをやってくれ」という緩さがあった。

中野:日本型自由主義ですね(笑)。

柴山:その日本型自由主義は、アメリカ型の規律訓練型個人主義とはずいぶん違うんですよね。その意味でも、個人主義や自由主義については表面だけではなく裏側を考えたほうがいい。

アメリカ型自由主義で秩序が成り立つのは、裏で権力装置が巧妙に働いているからです。日本を個人主義社会に変えるということは、日本人を徹底したパノプティコン(全展望監視)権力の下に作り直すということになりますが、はたしてそれが可能でしょうかね。

佐藤:社会的関係と言えば、アメリカはちょっとしたことでも必ず契約を交わします。しかもそれが細かい。条項に記されていないことは好きにやっていいはずですが、何も勝手にできないよう、思いつくかぎりの点をすべて明文化しておくんですね。

中野:みんながフェイスブックやインスタグラムで自由に発言しているように見えて、実はすべての書き込みがグーグルやフェイスブックの管理下に置かれている。

佐藤:これを「エアコンの自由」と言います。つけるかどうかは任されているし、温度設定も好きに決めていい。ただし窓は開かないようになっている、という次第。

柴山:アメリカ人はそういう規律訓練装置を発明するのが抜群にうまいと思いますね。個人的自由の裏側で、徹底した社会的訓育が行われている。近代的主体ってそういうことなんで、その意味でもアメリカは近代のフロントランナーです。

中野:先の大戦で日本が負けた理由はそこですよ。しかもそれを個人主義だと周囲に思わせている。

佐藤:国民の文化的バックグラウンドが多種多様なだけに、「どんなヤツでも制御できる規律」が必要になります。行き着く先は「エアコンの自由」。それを自己責任で選び取ったかのごとく構えるのが、アメリカの個人主義なのです。

西洋的統制と日本的統制

:教育史学者の江森一郎氏に『体罰の社会史』という本がありますが、それによると日本では昭和の初めごろ、軍事教練が学校に入ってくるまで体罰は決して一般的ではなかったそうです。武士でも子どもを殴ったりはしなかったんです。逆に西洋の小学校では、昔から教室の後ろにムチが置いてあった。

なぜ日本では体罰なしで40人学級がうまく運営できるのか。実は小学校の先生は生徒との間に心理的絆や一体感を最初にうまく作り、子どもたちが信頼を裏切るような行為をすると、その絆を切ってしまうぞ、と暗黙裡に半ば脅してやめさせているんです。たとえば、子どもたちがあまりにもいうことを聞かないとき、教師がよく使う手は、子どもたちに「もういい、勝手にしなさい」と言って職員室に引き上げてしまうというものです。そうなると子どもたちは、徐々に不安になり、シュンとなって、「皆で先生に謝りに行こうよ」ということになる。


中野:天の岩戸だ。

:心理的な絆を先に作り、言うことを聞かないとその絆が損なわれますよと暗黙裡に語り、子どもを統制しようとするこのような手法は、日本ではよく見られます。どの世代の人にもそういう経験がある。

たとえば親は好き嫌いをする子に野菜を食べさせるために、「じゃあもう食べなくいい」とお皿を引き上げてしまう。これも心理的絆を切るという脅しなんですね。企業でも昭和の時代には「ノミニケーション」などといって、新人が来たらまず飲みに行き、先に親密な関係性を作ってから指導するというやり方をしてきた。ただそういう手法は欧米人には理解しにくい。「伝統的な技芸だ」とアメリカから来た教育学者が感心していました。

西洋の場合、法律や規則を作って外面的に統制するけれども、日本の場合は集団の和を大切にすることを教え、共感力を利用して内面的に統制しようとする。文化によって統制の手段が違うんです。だから日本の教育においては「人の気持ちがわかるようになる」という共感能力、感情移入能力の獲得が第一の目標になっています。

中野:おっしゃるとおり、日本では人に共感する能力が高いことが、人格的に成長している証しとなっている。その意味では日本的見方からすれば、日本人はほかの外国人より人として高い位置にあるはずなんですよね。それなのに「日本人は遅れている。個が確立されていない」となぜ自分たちから言うのか、不思議ですね。