ひと目見てセンチュリーとわかるデザインとしながらも、徹底的に最新技術を投入した(写真:トヨタグローバルニュースルーム)

トヨタ自動車が「センチュリー」を21年ぶりにフルモデルチェンジ(全面改良)した。運転手付きで、後席に乗ることを主とした「ショーファーカー」であり、自動織機を完成させた豊田佐吉の誕生から100年を記念して1967年(昭和42年)に発売された初代から数えて3代目となる。


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3代目センチュリーは外観デザインをはじめとして、これまでの伝統を引き継ぎつつもハイブリッド化や先進安全技術など、トヨタの持つ最新技術を余すところなくつぎ込んでいる。

そんなセンチュリーをその歴史とともにひもといていこう。

センチュリー誕生の2年前、1965年には日産自動車からプレジデントが登場している。プレジデントは、初代セドリックのホイールベースを伸ばし、大排気量エンジンを搭載したセドリックスペシャルの後継車で、国産車では最大だった。

トヨタも、2世代目のクラウンにクラウンエイトというV型8気筒エンジンを搭載した車種を1964年に追加するなど、1960年代半ばに日本では、国産車としてより大型の上級4ドアセダンを生み出そうとする機運があった。第2次世界大戦の敗戦から20年が過ぎ、高度経済成長の波に乗って日本の自動車工業が自信を深めはじめた時代である。

輸入車で賄われてきた御料車も国産に

その流れは、「従来、輸入車で賄われてきた御料車(ごりょうしゃ=天皇や皇族が乗車するための車)も国産に」という機運を生み、1967年に日産プリンスロイヤルという国産の御料車を誕生させている。ちなみに、2006年からはセンチュリーロイヤルが後継として御料車を担う。

第2次世界大戦後、トヨタやプリンス自動車は独自の技術で自動車づくりを行った。一方、日産などは海外メーカーのノックダウン方式で量産を始め、それぞれに実績を積むことで、いよいよ国内最上級車種を自らの手で生み出そうとする時代を迎えた。そして日産プレジデントやトヨタ・センチュリーが誕生したのである。

センチュリーの開発を手掛けたのは、初代〜2代目クラウンや、クラウンエイト、初代コロナの主査を務めた中村健也主査であった。中村主査は生産技術に長けた技術者で、1953年から開発主査となり、初代クラウンの開発準備を進め、以後トヨタの乗用車の礎を築いた。


時代を超えた造形は最新の3代目にも継承されている(写真:トヨタグローバルニュースルーム)

15世代目新型クラウンの開発を担った秋山晃チーフエンジニアは、トヨタ自動車創業者である豊田喜一郎の「日本人の腕と頭で世界に誇れる車をつくる」との思いを継承し、もう一度世界を驚かせたいと語り、中村主査も当時、同じ志で豊田喜一郎の思いを実現し、それはクラウンのみならず初代センチュリーにも込められていたと想像できる。

「日本人の腕と頭で世界に誇れる車をつくる」との思いは、センチュリーの外観にもみることができる。ことに顔つきは、世界を見渡してもほかのどの高級車とも異なる造形であり、なおかつそれが初代誕生から約30年にわたってフルモデルチェンジせず継承された。いかに時代を超えた造形であったか、いま振り返ると改めて思い知らされる。

なおかつその基本的な特徴は、2世代目を経て最新の3代目にも継承され、どこから見てもセンチュリーであるとわかる顔つきになっている。

ユニバーサルデザインの視点

センチュリーは、運転手付きで後席に乗ることを目的とした4ドアセダンである。したがって、後席乗員をもてなす快適性や、乗降のしやすさが何より重視される。そこに今日でいう、ユニバーサルデザインの視点をうかがい知ることもできる。

クラウンとは別に独自設計され、乗り心地を極めるため、初代はエアサスペンションの採用を視野に設計された。エアサスペンションは当時、1960年代のメルセデス・ベンツの最上級車種300SEL 6.3など一部の車種にしか採用されていなかったはずだ。その後、エアサスペンションの採用を見送ることもあったが、2世代目もエアサスペンションを想定して開発され、3代目でもエアサスペンションを装備している。保守管理に手間がかかるが、揺れの少ない乗り心地と操縦安定性の両立に一役買うサスペンション形式だ。

あるいは、後席からの乗り降りをしやすくするため、後ろのドア下端の切り欠きを、前のドアより低くして足を外へ出しやすくすることなども初代では行われていた。

さらに、後ろのドア後端の切り欠きを後輪のホイールハウスより前とすることで、座席背もたれから体を横へずらすだけで降りられるようになっている。高齢になると腹筋や背筋が弱り、体を起こすことが難しくなる乗員に対し、座った姿勢のまま外へ出られるようにした配慮である。この構造を採ることにより、実は狭い場所で後ろのドアを大きく開けられない状況でも、乗り降りを容易にする副次的な効果もある。

このドア後端の切り欠きと、後席背もたれの位置関係については、スバル1000も同様であった。1966年5月に発売されたスバル1000は、日産サニーやトヨタ・カローラと並ぶ国産大衆車の1台として誕生した。国産車では当時まだまれな前輪駆動(FF)の4ドアセダンであり、後輪へエンジンからの駆動力を伝えるプロペラシャフトが不要であったことから、床を平らにし、室内空間を広げることができた。また後輪を後ろへ配置することもできたためであろう、後席背もたれが後輪のホイールハウスより前にあり、後ろのドアを開けるとセンチュリーと同じように乗り降りしやすくなっていたのである。

最新の3代目センチュリーでは、サイドシルに飾られるスカッフプレートと床との段差を減らし、フロアマットを用いれば床とドア開口の下部が平らになり、足を持ち上げなくても外へ足を下せるようにしている。

また3代目に引き継がれているのが、中央のドア支柱の内側に設けられた靴ベラの差し込み口だ。長時間の移動で靴を脱ぎたくなったとき、降りる際に革靴をすぐ履けるようにする配慮である。

自動車の評論は、操縦安定性や運転の面白さなどを語ることが多いが、実は、家族や仲間と出掛ける際には同乗者の乗り心地や快適さが重要な評価対象であり、乗り降りのしやすさもそこに含まれる。スバル1000や歴代センチュリーの後席の乗降性は、今日でいうユニバーサルデザインの一例であり、運転手付きで乗るクルマに限らず、高齢化社会を迎える日本にとって見習うべき姿でもある。

1台ずつ手作りされているセンチュリー

センチュリーの生産は、初代から手作りである。

センチュリーは、トヨタ自動車東日本(元関東自動車工業)の東富士工場で製造されている。組み立て工程は、作業者4人が1組となり、3万点近い部品をすべて組み付ける。部品点数が多いだけでなく、機械部品から電気部品まで多岐にわたり、それらを適切に組み立てる広範な知見も求められる。またプレス機械で成形された外板も、一点一点職人が出来上がりを点検したうえで組み付けられる。


大量生産と対極にある製造法を今日なお継続するセンチュリーの生産現場(写真:トヨタグローバルニュースルーム)

トヨタといえば、均質な製品を大量に生産するトヨタ生産方式や、カイゼンといった言葉が有名で、まさか手作りされるクルマがあるとは多くの人が想像していないだろう。ところがセンチュリーに関しては、まさに人が手で組み立てているのである。

その様子は、ガソリンエンジン自動車というものが誕生して間もない19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツで行われていた、ロッド生産を見るかのようだ。ロッド生産とは、製造工程ごとに熟練した職人がおり、その下の工員を使いながら部品を製造し、出来上がった部品を組み立てていく方式である。

アメリカのヘンリー・フォードが考案したとされる流れ作業による製造が始まるまで、自動車の製造は世界的にこのロッド生産を主体としてきた。作業者の修練と、作業の手間がかかるため価格は何倍も高く、したがって裕福な人しか手にできない乗り物であった。

正しくは、当時の作業と異なるが、わずか4人の熟練工が出来上がった部品を丁寧に組み立てていくさまは、とても現代の自動車生産工場とは思えない。

1日に3台しか作れないからこその価値

なぜ、トヨタは大量生産と対極にある製造法を今日なお継続することができるのか。答えは、圧倒的な生産台数の少なさである。センチュリーは、3代目においても1日に3台しか作れない。月販目標はたった50台だ。そのために、自動化し流れ作業を行う生産設備はかえって投資に見合わないのである。

同時にまた、100年も前に行われていたような自動車製造の仕方を今日まで残すことにより、物づくりの原点を見直す機会をもたらす。大量生産によって物が氾濫すると、物のありがたみが忘れられがちになる。新型センチュリーの価格は1960万円だが、高価という以上に、人が手で作った物のありがたみをその価格に見ることができるのである。

今日、100円ショップで手に入れられるもので事足りることもあれば、高価でもよい物を永く使い続ける喜びもあることをブランド品は教えてくれる。トヨタという自動車メーカーの中に、そうした対極の価値を知る機会が残されていることは、世界でもまれにみる状況であろう。

生活を満たす物と、人生に彩りをもたらす物とは違う。そのことを教えてくれるクルマがあっていい。そしてそれぞれに意味がある。

トヨタ1社に限らず、日本人にとって、センチュリーの存在は、物の価値を測るうえで掛け替えのない宝といえるのではないだろうか。