『死にたくなったら電話して』李龍徳/河出書房新社

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李龍徳(イ・ヨンドク)の文藝賞受賞作『死にたくなったら電話して』(河出書房新社)。
大阪の十三(じゅうそう)と南森町、京都の河原町が小説の舞台。あと神戸の王子公園と須磨離宮がちょっと出てくる。
主人公の徳山久志はイケメン浪人生だ。大学受験ですべり続け、べつに医学部志望というわけでもないのに、この大学全入時代に珍しく三浪中。今年は予備校に行かずに宅浪中である。
居酒屋のアルバイト以外には勉強しかすることがない──のに、おそろしくものを知らない!ということが、小説を読み進めていくうちにあとのほうでわかる。

バイト先の仲間といっしょに行った早朝キャバクラで、〈淀川区でいちばんの美人〉キャバクラ嬢のミミちゃんこと山仲初美が、営業用でないプライヴェートの連絡先をいきなり渡してくる。
徳山は初美との交際に最初はまったく乗気でなく、なにかたちの悪い勧誘なのではないかと薄気味悪く思って避けていたが、いつの間にか初美の住むタワーマンションに上がりこんでしまう。
初美の本棚に〈並ぶ本のタイトルには「殺人」「残酷」「地獄」「猟奇」「拷問」といった、おどろおどろしい文言が多くひしめいていた。「!」マークがやたら多いし、フォントもいちいち返り血を模したような仰々しさだ〉。スカムカルチャー路線か?
初美はマルクスだの精神分析だのも読んでいる。にっかつロマンポルノが〈侘しくて、切なくて〉好き。聴いてる音楽は村八分とかポンチャック・ディスコ。典型的なサブカル者だ。

徳山は初美の「いかもの喰い」路線に軽く引く(ちなみに初美の食事の好みはかなりヴェジタリアン)。なにしろ細井和喜蔵『女工哀史』(1925、のち岩波文庫)のブラック職場での悲惨、澁澤龍彦『世界悪女物語』(1964、のち河出文庫)のバートリ・エルジェーベト(アンドレイ・コドレスク『血の伯爵夫人』[1995、赤塚若樹訳、国書刊行会]でおなじみ)やバタイユの『ジル・ド・レ論 悪の論理』(1959、伊東守男訳、二見書房)のジル・ド・レや、その他チンギス・ハンだの魔女狩りだの旧ユーゴスラヴィアの収容所だのの残虐史話を、ピロウトークやどうかすると性交中にすら楽しそうに話すのだ。

初美は小説は読まない。安易な希望のフリをしたフェイクを好まない。〈物語や感動は決まって悪用されます〉というのだ。人間にも世界にも、まったく希望を持たず、そしてその絶望すらごく低い温度で保たれている。
当初引き気味だった徳山は、初美にある意味「洗脳」されていく。バイト先の同僚や上司、予備校でつるんでいた仲間、それ以前からの友人、そういった徳山の数少ない係累が、初美に「かぶれた」徳山にはもはや以前持っていた意味を持たなくなっていく。そうして、一歩一歩破滅へと進んでいく。

中盤の読みどころは、徳山の、ネットワークビジネスをやってる友人のボスの世界観──いかにもネットワークビジネス的な「黒意識高い」使命感──を、初美が河原町のバーで個別撃破していく場面だ。おもしろくて目が覚める。
冷え冷えとした終盤では、初美のほうがかえって徳山のなかのどうしようもない部分に感染しているようなところがある。
徳山の冷えきった家庭環境については徐々に明らかになっていくが、初美がどういうバックボーンを持っている人物かということは、小説を読んでも明らかにならない。初美は語らないし、語り手も触れない、というか関知しない。
ここが重要だ。
初美のような、人を破滅させるキャラクターを書くとき、しばしば物語はそこに、その人がそういう人になった原因、その人がそう行動する動機を書いてしまいがちだ。
それは近代法の量刑に犯行の動機が考慮されたり、ワイドショウがスキャンダルや犯罪の当事者の内面を再構成しようとしたりすることからも明らかだ。
小説に出てくるこういう「近づくと危ない、破滅を呼ぶ女」も、通常なら、彼女がどういう事情でそのような行動様式を身につけるにいたったのか、という因果話を書きたがる。だって読者が読みたがるんだもの。
それこそ初美が嫌う〈物語〉なのだ。
『死にたくなったら電話して』の初美には、そういう情報が欠けている。それを書くことを作者が固辞している、というおもむきがある。

俺小説結構読んでるぜっていう自負のあるくらいの読者なら、「感情移入できない」とか「人間としての魅力がない」とか、そういうことを言うだろうな。
でもね、この小説はそこがいいんですよ。「そうかー、ただの美人じゃなくて、そういう人間的な側面があるのね」的な既知の萌えポイントで納得することにこだわってるとね、この小説のおいしい部分を逃してしまう。喰ったことのない国の料理を一口喰っただけで「醤油ない?」って訊いてるようなもんです。
だから「いくら美人でもなんでこんな女にハマるのか納得いかない!」って言うのはこの小説の欠点ではなくて、その納得いかなさにものすごく説得力がある。世のなか「なんであんな女(男)に?」って案件ばっかじゃん。小説の登場人物だって他人なのだから、その納得いかなさを殺さないように。

『死にたくなったら電話して』の魅力はだから、フランスの悪女小説アベ・プレヴォ『マノン・レスコー』(1731、青柳瑞穂訳、新潮文庫)を思い出させるところがある。マノンの物語は映画化もされていて、後世の読者の勝手な願望的解釈でロマンチックな悪女物語と思われているが、虚心に読んでみると
「いくら美人だからって、なんでこんな意味不明な女に?」
という不条理感と、「世のなか、こういうこともある」という諦めに似た感慨だけが残る、そういう味わいのものなのだ。

帯やカヴァー裏表紙に〈至福の「心中」小説〉とか〈現代の「心中もの」〉などと書かれているけれど、これは正確ではないだろう。でもそうやって売るほうがいい小説だし、むしろ僕なんか読者として騙されてナンボくらいに思ってますよ。あれ? こう書くとネタバレになっちゃうかな?
誤解を呼ぶといえばまた、題名自体もそうだ。『死にたくなったら電話して』なんて、自殺を思いとどまらせようとするみたいな題名だけど、そうじゃない。逆だ。死にたくなったら電話してくれ、手伝うからね、という話なのだ。
(千野帽子)