率直に書く、というのは、勢いで書くことの正反対だ『オリーブ少女ライフ』
昭和の後半は、さまざまな雑誌があらわれた時代だった。雑誌は人々の生活のリズムを作ってすらいた。
発売日を楽しみにしている雑誌がある、という人は、いまでもいるだろう。
〈3日と18日の発売日に、朝一番で駅のキオスクに駆け込んで、「オリーブ」をぎゅっと抱きしめる〉という一時期が、山崎まどかさんの中学・高校時代にはあった。
『オリーブ少女ライフ』に収められた表題作で、同誌とともに過ごした1980年代の中盤・後半を、山崎さんは回想している。
世代が近い読者なら、「そうそう! これあった!」という固有名(店名、ブランド名、人名など)がふんだんに含まれていて、その時代を思い出すトリガー──あるいは「地雷」?──みたいで、とても刺戟的だろう。
若い世代には、そういったさまざまな名前とともに、
〈「ブランド物が買えないとダサい」なんていう感覚は、今のティーンにはきっと分からないだろう〉
といった落差の指摘からも、往時の日本文化を垣間見る体験ができる、そういう文章だ。
同誌の変遷とともに、それにのめり込んだり、そのあと少し冷めたりもした、著者の中学・高校時代のできごとが語られている。
中学校に入ると、さっそくモテに走る(いわゆる「色気づく」というヤツですね)人たちと、それよりは自分の世界を作るほうを重視する人たちに、ゆるやかに分離していくものだ。
どちらかというと後者で奥手だったという著者の前に、《Olive》というステキ文化のいわばポータルが登場したところから、この物語は始まる。
同世代の読者モデルたちのこと。中学生で文筆家としてデビューしたときの、クラスメイトたちの反応(〈学校の人気グループの怒りを買った〉そうです。さもありなん)。学校の先輩や年上の男の人との不器用な恋。観た映画、着た服、なくした小物。
そういった記憶や体験が、率直に書いてある。
自分のことを率直に書く、というのは、ほんとうは易しいことではない。それがとくに、若くて一途で迷い多い時期の自分のことなら、なおさらだ。率直に書く、というのは、勢いで書くことの正反対だ。熟慮も必要、技術もいる、だけでなく、じつはとっても勇気のいる作業なのだ。
おまけに、あとがきに書いてあるとおり、《Olive》という雑誌は読者ひとりひとりの思い入れが強く、語ること自体に各自の心の負荷がかかる「めんどくさい」対象でもある。
山崎さんはその難事業をこなしている。大人の仕事だなあ。それは、つぎのような優しくて骨太な文章にも見て取れる。
〈「お金がない」って言うのが恥ずかしいと思っていた自分が、今ではとても恥ずかしい。でも、そんな勘違いをするのが十代だ〉。
彼女の周囲にはいろんな大人の人がいた。早くから文筆活動をしていたこともあるだろうけれど、業界関係者の話だけでなく、さりげなく触れられる両親との関係も読みどころだったりする。
さまよえる元《Olive》読者の気持ちを代弁するような、つぎの一節も印象深い。
〈実際、二十代になってからは長いこと、自分にしっくりくる雑誌がなくて、読むものには苦労した。高校を卒業してからも、「オリーブ」を読み続けている人たちがいるのを知ったのは、大分後のことだ。それを聞いた時、私はとっさに「そんなズルいことが許されるの?」と口に出して言ってしまった〉
「自分はもう(まだ)××だからこの雑誌を読むものではない」という考えかたが、そう、あったんですよ。
でもこれ、「むかしはよかった」と言うような話では必ずしもない。単行本刊行時に書き下ろしで加えられた最終章の、ぷつんと切れて主人公を置き去りにするエンディングには、ふわふわした1980年代とザラッとした1990年代との温度差を感じて、ちょっとドキリとします(主人公って著者自身なんだけど)。
単行本の後半に併録された「東京プリンセス」は、21世紀初頭に一時的に復活した《Olive》に連載されていたものだ。何人かの趣味のいい女子たちが登場する小説仕立てのおはなしで、映画や音楽、本などの情報が自由連想のように数珠つなぎに登場し、アイテムからアイテムへとただただ移行していく彼女たちの会話が、とても楽しい。親切な註が『なんとなく、クリスタル』のパロディみたいでもある。
じっさい、こうやって気になるものたちについて果てしなくおしゃべりしていられたら、人はいくらでもステキな気持ちになれるのだ。
こう書いていてわかるのは──あるいは、思い出すのは──、《Olive》という雑誌の特別さだ。
女性誌にはステキなものが載っているわけなんだけど、《Olive》が提示したものは通常の意味でのステキなものを超えているということ。
ふつう、雑誌に載っているステキなものは、それ自体が憧れの対象であると同時に、所有欲の対象でもある。でも《Olive》で紹介されているライフスタイルやコーディネイトやアイテムは、憧れのヴェクトルがそこで終わらない。
《Olive》の読者は、「ここで紹介されているもの」自体(それ自体ステキなものだけど)というより、それを超えてその背景にある世界に、なにかプラトン的な憧れを持ってしまう。《Olive》の読者の視線は誌面によってせき止められずに、ページを突き破って、その背景にきっと存在するに違いない「もっと素敵な世界」にまで届いていく。あの雑誌はそういう編集になっていたのだ。
そして山崎さんのように、ほんとうにその「もっと素敵な世界」をレポートする書き手になった人もいるのだ。
最後にもうひとつ、率直さに胸を打たれた箇所を紹介したいです。
さて、『オリーブ少女ライフ』の〈私〉は、10年生(高校1年生)にもなると、着るものに〈自分のスタイルが出来上がりつつあった〉。〈その頃は私はもうお洒落な女の子だとみんなから思われていた〉。
〈でも心の底では、私はまだ図書室のストーブの前で児童書を読みふけっている以前の私のままで、何かあったら、本当は周囲の空気も読めず、センスもないダサい女の子だってみんなにバレるんじゃないかと思っていつもドキドキしていた。きっと、今も、そうだ〉。
けど、どんなアイテムよりもまぶしくてプレシャスなのは、ほんとはこういう率直さなんだってこと、きっと山崎さんはわかってるんだと思う。
1980年代は、女の子がいろんな美しいなにかに「憧れる」という形で励まされるということが許された時代だったことがわかる。ほんとはいまでもそうであってほしいのだけど!
(千野帽子)
発売日を楽しみにしている雑誌がある、という人は、いまでもいるだろう。
〈3日と18日の発売日に、朝一番で駅のキオスクに駆け込んで、「オリーブ」をぎゅっと抱きしめる〉という一時期が、山崎まどかさんの中学・高校時代にはあった。
『オリーブ少女ライフ』に収められた表題作で、同誌とともに過ごした1980年代の中盤・後半を、山崎さんは回想している。
世代が近い読者なら、「そうそう! これあった!」という固有名(店名、ブランド名、人名など)がふんだんに含まれていて、その時代を思い出すトリガー──あるいは「地雷」?──みたいで、とても刺戟的だろう。
若い世代には、そういったさまざまな名前とともに、
〈「ブランド物が買えないとダサい」なんていう感覚は、今のティーンにはきっと分からないだろう〉
といった落差の指摘からも、往時の日本文化を垣間見る体験ができる、そういう文章だ。
同誌の変遷とともに、それにのめり込んだり、そのあと少し冷めたりもした、著者の中学・高校時代のできごとが語られている。
中学校に入ると、さっそくモテに走る(いわゆる「色気づく」というヤツですね)人たちと、それよりは自分の世界を作るほうを重視する人たちに、ゆるやかに分離していくものだ。
同世代の読者モデルたちのこと。中学生で文筆家としてデビューしたときの、クラスメイトたちの反応(〈学校の人気グループの怒りを買った〉そうです。さもありなん)。学校の先輩や年上の男の人との不器用な恋。観た映画、着た服、なくした小物。
そういった記憶や体験が、率直に書いてある。
自分のことを率直に書く、というのは、ほんとうは易しいことではない。それがとくに、若くて一途で迷い多い時期の自分のことなら、なおさらだ。率直に書く、というのは、勢いで書くことの正反対だ。熟慮も必要、技術もいる、だけでなく、じつはとっても勇気のいる作業なのだ。
おまけに、あとがきに書いてあるとおり、《Olive》という雑誌は読者ひとりひとりの思い入れが強く、語ること自体に各自の心の負荷がかかる「めんどくさい」対象でもある。
山崎さんはその難事業をこなしている。大人の仕事だなあ。それは、つぎのような優しくて骨太な文章にも見て取れる。
〈「お金がない」って言うのが恥ずかしいと思っていた自分が、今ではとても恥ずかしい。でも、そんな勘違いをするのが十代だ〉。
彼女の周囲にはいろんな大人の人がいた。早くから文筆活動をしていたこともあるだろうけれど、業界関係者の話だけでなく、さりげなく触れられる両親との関係も読みどころだったりする。
さまよえる元《Olive》読者の気持ちを代弁するような、つぎの一節も印象深い。
〈実際、二十代になってからは長いこと、自分にしっくりくる雑誌がなくて、読むものには苦労した。高校を卒業してからも、「オリーブ」を読み続けている人たちがいるのを知ったのは、大分後のことだ。それを聞いた時、私はとっさに「そんなズルいことが許されるの?」と口に出して言ってしまった〉
「自分はもう(まだ)××だからこの雑誌を読むものではない」という考えかたが、そう、あったんですよ。
でもこれ、「むかしはよかった」と言うような話では必ずしもない。単行本刊行時に書き下ろしで加えられた最終章の、ぷつんと切れて主人公を置き去りにするエンディングには、ふわふわした1980年代とザラッとした1990年代との温度差を感じて、ちょっとドキリとします(主人公って著者自身なんだけど)。
単行本の後半に併録された「東京プリンセス」は、21世紀初頭に一時的に復活した《Olive》に連載されていたものだ。何人かの趣味のいい女子たちが登場する小説仕立てのおはなしで、映画や音楽、本などの情報が自由連想のように数珠つなぎに登場し、アイテムからアイテムへとただただ移行していく彼女たちの会話が、とても楽しい。親切な註が『なんとなく、クリスタル』のパロディみたいでもある。
じっさい、こうやって気になるものたちについて果てしなくおしゃべりしていられたら、人はいくらでもステキな気持ちになれるのだ。
こう書いていてわかるのは──あるいは、思い出すのは──、《Olive》という雑誌の特別さだ。
女性誌にはステキなものが載っているわけなんだけど、《Olive》が提示したものは通常の意味でのステキなものを超えているということ。
ふつう、雑誌に載っているステキなものは、それ自体が憧れの対象であると同時に、所有欲の対象でもある。でも《Olive》で紹介されているライフスタイルやコーディネイトやアイテムは、憧れのヴェクトルがそこで終わらない。
《Olive》の読者は、「ここで紹介されているもの」自体(それ自体ステキなものだけど)というより、それを超えてその背景にある世界に、なにかプラトン的な憧れを持ってしまう。《Olive》の読者の視線は誌面によってせき止められずに、ページを突き破って、その背景にきっと存在するに違いない「もっと素敵な世界」にまで届いていく。あの雑誌はそういう編集になっていたのだ。
そして山崎さんのように、ほんとうにその「もっと素敵な世界」をレポートする書き手になった人もいるのだ。
最後にもうひとつ、率直さに胸を打たれた箇所を紹介したいです。
さて、『オリーブ少女ライフ』の〈私〉は、10年生(高校1年生)にもなると、着るものに〈自分のスタイルが出来上がりつつあった〉。〈その頃は私はもうお洒落な女の子だとみんなから思われていた〉。
〈でも心の底では、私はまだ図書室のストーブの前で児童書を読みふけっている以前の私のままで、何かあったら、本当は周囲の空気も読めず、センスもないダサい女の子だってみんなにバレるんじゃないかと思っていつもドキドキしていた。きっと、今も、そうだ〉。
けど、どんなアイテムよりもまぶしくてプレシャスなのは、ほんとはこういう率直さなんだってこと、きっと山崎さんはわかってるんだと思う。
1980年代は、女の子がいろんな美しいなにかに「憧れる」という形で励まされるということが許された時代だったことがわかる。ほんとはいまでもそうであってほしいのだけど!
(千野帽子)