賛否両論、Facebookの「ともだち」広告。ともだち地獄はどこから始まったのか
電車を待っていたら、こんな看板が目に入った。
「ともだち/いちばん大切なことは/ともだちでいること/それは 誓い よろこび/だから ともだちでいよう(中略)びっくりさせたい/いっしょにいたい/なんでもシェアしたい/ともだちもあなたと/同じことをしたいはず/ただ そこにいるだけでいい/ともだち/あなたは 誰かのともだち」
Facebookの広告だ。
「あなたは 誰かのともだち」というCMも放送されている。意外なことにFacebookはこれまでTVCMを出したことがなく、これが第1弾なのだとか。第2弾の「Faces」もオンエアされているが、これも「ともだち」を前面に押し出している。
この広告に対して、ネットではネガティブな評価の声が大きい。「ともだち」を連呼するのがしつこく感じたり、一緒の行動を強要されることに違和感を覚えたり、「ともだちなんていないよ!」と嘆いたり……その一方で「感動した!」という意見も見かける。
ネット上では、こうした構図を「ぼっち」対「リア充」としやすい(ちなみに補足しておくと、「ぼっち」はひとりぼっちで友達がいないの意、「リア充」はリアルが充実している人で友達がいっぱいいるという意味で使われることが多い)。
Facebookの広告が「ともだち」を強調するのは、Facebookが「ともだちと交流する」サービスであることを示したいからだ。CMは、まだFacebookを始めておらず(もしくは、始めているけどしばらくアクセスしていない)、ともだちとつながっていたいユーザーに向けて作られている。
Facebookの価値観は「ともだちは大事」。あの広告に違和感を覚えない人の価値観も「ともだちは大事」。そして、あの広告に「どうせぼっちだよ!」と反発する人の価値観も「ともだちは大事(なのに、いない自分はダメ)」だ。
この価値観は、2000年に入ってから加速しているのだという。土井隆義の『つながりを煽られる子どもたち』から引用したい。土井はこの傾向は「新自由主義」をはじめとする価値観の多様化に原因があると指摘している。
〈以前のように社会のパイがまだ拡大していると感じられるとき、新自由主義的な施策によって社会の流動化が進むと、人は新しいチャンスを求めて外へ打って出ようとします。(中略)しかし、すでに社会のパイは膨らんでおらず、むしろ萎みつつあると感じられるときに社会の流動化が進むと、人は現在の生活をなんとか死守しようと防御の姿勢に転じます。不確実性をリスクと捉え、目の前に広がる奈落の深淵に落ち込むまいと、新しい出会いではなく目先の確実な人間関係を重んじるようになります〉
社会が不安定になったから、「絆」を強固にしたいと考える。また、絆をはぐくむ力「コミュニケーション能力」の重要性も増してくる。2004年ごろから朝日新聞の紙上に「コミュニケーション能力」という言葉が急速に増え、日本経団連の新卒採用に関するアンケートでも「コミュニケーション能力を重視する」と答える企業も増え始める。
コミュニケーション能力が低ければ、ともだちがいなければ、社会を生き抜いていけない……そんな不安は「コミュ障」という言葉が(スラングとして)広まったことにも表れる。
〈これは、今日の社会でコミュニケーション能力が大きな比重を占めるようになっていることを示しています。その能力に対する期待値が高ければ高いほど、現実とのギャップは広がり、そこに強い欠落感を覚えるようになるからです〉
「ぼっち」も同じ。この言葉が自虐や反発として用いられるのは、「ともだち」「絆」「コミュニケーション」が生きていく上で必要不可欠だと感じているからこそ。
「ぼっち」と「リア充」は、対立関係にはない。むしろ同じ価値観を共有するものどうしなのだ。
博報堂生活総合研究所は、「孤立することなく無事に生き抜いていくための人的資源」を「インフラ友だち」と称している(すごい言葉だ……)。「クラスメイト」や「ママ友」はまさに「インフラ友だち」。このインフラは管理するのが難しいし、ストレスの原因にもなる。
そのインフラを管理・整備するツールは、メールや電話やSNS。「ともだち」圧力をかけているFacebookもそうだ。電気や水道のメンテナンスをするように、メールやSNSでともだちの動向を把握し、常に繋がっていなければならないという強迫観念がある。
「いっしょにいたい/なんでもシェアしたい/ともだちもあなたと/同じことをしたいはず」
ぎょっとする文章だが、これはある意味、Facebookに要求されている機能なのかもしれない。一緒にいて、なんでもシェアして、同じことをすることを求められる、インフラ友だち。
ともだちは、インフラとして働くだけではない。ともだちが多ければ、「価値のある人間」「能力の高い人間」として認めてもらうことができる。Facebookは「ともだちの数」で目に見えるが、Twitterでもフォロワー数の多い人は少ない人よりも目立って見える(ちょっと前は「アルファ」なんて言葉もあった)。
「いいね!」や「お気に入り(ふぁぼ)」「RT」の数を気にしてしまうのも根は同じだ。
〈他者に囲まれた価値ある人間として自分が見られているかどうか、周囲の人びとの反応を過剰に気にかけるのは、そもそも承認を与えてくれる他者がいるかどうか、自分自身がつねに気を揉んでいるからです。だから、二重の意味で他者からの評価が気になるのです〉
この感覚は私にも根深くある。
Facebookの広告を見た瞬間、「地獄だ!」と思った。けれど本当の地獄はFacebookではなく、つながりと承認にすがる気持ちにある。
土井隆義『つながりを煽られる子どもたち ネット依存といじめ問題を考える』(岩波ブックレット)
(青柳美帆子)
「ともだち/いちばん大切なことは/ともだちでいること/それは 誓い よろこび/だから ともだちでいよう(中略)びっくりさせたい/いっしょにいたい/なんでもシェアしたい/ともだちもあなたと/同じことをしたいはず/ただ そこにいるだけでいい/ともだち/あなたは 誰かのともだち」
Facebookの広告だ。
「あなたは 誰かのともだち」というCMも放送されている。意外なことにFacebookはこれまでTVCMを出したことがなく、これが第1弾なのだとか。第2弾の「Faces」もオンエアされているが、これも「ともだち」を前面に押し出している。
ネット上では、こうした構図を「ぼっち」対「リア充」としやすい(ちなみに補足しておくと、「ぼっち」はひとりぼっちで友達がいないの意、「リア充」はリアルが充実している人で友達がいっぱいいるという意味で使われることが多い)。
Facebookの広告が「ともだち」を強調するのは、Facebookが「ともだちと交流する」サービスであることを示したいからだ。CMは、まだFacebookを始めておらず(もしくは、始めているけどしばらくアクセスしていない)、ともだちとつながっていたいユーザーに向けて作られている。
Facebookの価値観は「ともだちは大事」。あの広告に違和感を覚えない人の価値観も「ともだちは大事」。そして、あの広告に「どうせぼっちだよ!」と反発する人の価値観も「ともだちは大事(なのに、いない自分はダメ)」だ。
この価値観は、2000年に入ってから加速しているのだという。土井隆義の『つながりを煽られる子どもたち』から引用したい。土井はこの傾向は「新自由主義」をはじめとする価値観の多様化に原因があると指摘している。
〈以前のように社会のパイがまだ拡大していると感じられるとき、新自由主義的な施策によって社会の流動化が進むと、人は新しいチャンスを求めて外へ打って出ようとします。(中略)しかし、すでに社会のパイは膨らんでおらず、むしろ萎みつつあると感じられるときに社会の流動化が進むと、人は現在の生活をなんとか死守しようと防御の姿勢に転じます。不確実性をリスクと捉え、目の前に広がる奈落の深淵に落ち込むまいと、新しい出会いではなく目先の確実な人間関係を重んじるようになります〉
社会が不安定になったから、「絆」を強固にしたいと考える。また、絆をはぐくむ力「コミュニケーション能力」の重要性も増してくる。2004年ごろから朝日新聞の紙上に「コミュニケーション能力」という言葉が急速に増え、日本経団連の新卒採用に関するアンケートでも「コミュニケーション能力を重視する」と答える企業も増え始める。
コミュニケーション能力が低ければ、ともだちがいなければ、社会を生き抜いていけない……そんな不安は「コミュ障」という言葉が(スラングとして)広まったことにも表れる。
〈これは、今日の社会でコミュニケーション能力が大きな比重を占めるようになっていることを示しています。その能力に対する期待値が高ければ高いほど、現実とのギャップは広がり、そこに強い欠落感を覚えるようになるからです〉
「ぼっち」も同じ。この言葉が自虐や反発として用いられるのは、「ともだち」「絆」「コミュニケーション」が生きていく上で必要不可欠だと感じているからこそ。
「ぼっち」と「リア充」は、対立関係にはない。むしろ同じ価値観を共有するものどうしなのだ。
博報堂生活総合研究所は、「孤立することなく無事に生き抜いていくための人的資源」を「インフラ友だち」と称している(すごい言葉だ……)。「クラスメイト」や「ママ友」はまさに「インフラ友だち」。このインフラは管理するのが難しいし、ストレスの原因にもなる。
そのインフラを管理・整備するツールは、メールや電話やSNS。「ともだち」圧力をかけているFacebookもそうだ。電気や水道のメンテナンスをするように、メールやSNSでともだちの動向を把握し、常に繋がっていなければならないという強迫観念がある。
「いっしょにいたい/なんでもシェアしたい/ともだちもあなたと/同じことをしたいはず」
ぎょっとする文章だが、これはある意味、Facebookに要求されている機能なのかもしれない。一緒にいて、なんでもシェアして、同じことをすることを求められる、インフラ友だち。
ともだちは、インフラとして働くだけではない。ともだちが多ければ、「価値のある人間」「能力の高い人間」として認めてもらうことができる。Facebookは「ともだちの数」で目に見えるが、Twitterでもフォロワー数の多い人は少ない人よりも目立って見える(ちょっと前は「アルファ」なんて言葉もあった)。
「いいね!」や「お気に入り(ふぁぼ)」「RT」の数を気にしてしまうのも根は同じだ。
〈他者に囲まれた価値ある人間として自分が見られているかどうか、周囲の人びとの反応を過剰に気にかけるのは、そもそも承認を与えてくれる他者がいるかどうか、自分自身がつねに気を揉んでいるからです。だから、二重の意味で他者からの評価が気になるのです〉
この感覚は私にも根深くある。
Facebookの広告を見た瞬間、「地獄だ!」と思った。けれど本当の地獄はFacebookではなく、つながりと承認にすがる気持ちにある。
土井隆義『つながりを煽られる子どもたち ネット依存といじめ問題を考える』(岩波ブックレット)
(青柳美帆子)