日本人が殺されても憲法9条は守るべきか。激論の書『アは「愛国」のア』
“じゃあ、たとえ他国から攻められようとも、国土が蹂躙され、日本人が殺されようとも、憲法九条の「戦争放棄」は愚直に守るべきだという意見ですか?”
激論の書だ。
森達也『アは「愛国」のア』。
帯の文句はこうだ。
「尖閣・竹島・靖国・従軍慰安婦・死刑制度・原発・捕鯨・憲法9条…について、若者たちと、とことん語り合ってみた! 売国奴VSネトウヨ大激論、勃発!」
ノンフィクション作家の森達也が、6人の若者と語り合ったようすをまとめた本である。
メンバー(編集者のAさん、会社員のBさん、森達也が大学のゼミで教えている学生C君とD君、契約社員として働いているEさん)紹介を兼ねて安倍政権をどう思うかを語るプロローグ。
安倍政権、尖閣と竹島、従軍慰安婦問題、靖国問題、中国と韓国、A級戦犯について語る「PART1 バは「売国」のバ」。
捕鯨、対米感情、手を叩いて笑うこと、集団化、徴兵制、同町圧力について語る「PART2 クは「空気」のク」。
死刑制度、原発、オウム真理教、宗教について語る「PART3 イは「命」のイ」。
そして、森達也が書くエピローグ。
という構成。
さまざまな論点について、多様な角度からの発言が飛び出す。
ときに共感し、ときに対立し、意見を交える。
Aさんは創価学会員であり、その視点から宗教について語り合う。
Bさんは、森達也とくっきりと対立する。
B 森さんとお話ししていると、どうしてそこまで、日本と対抗する側の人たちの味方をするのか、日本を貶めようとするのか、わからなくなるんですよ。
B はっきり言って、お花畑の発想です。中国や北朝鮮の脅威は、以前とは比べものにならないくらい高まっているのに、そういったことにも対応できない憲法九条にしがみついているのはなぜなのかと思う。それにそもそもアメリカからの押しつけじゃないですか。
B 理屈はそうかもしれない。でもね、実際に苦しんでいる家族は、たしかにいるんですよ! 森さんは、自分がその立場になったとき、同じことが言えますか? 理屈だけでは、被害者家族の「殺してやりたい」という心情は、決して消えることはないんです。
B それは愛国心じゃない。「自虐史観」って言うんです。
これらBさんの主張に、森がどう答えるか。どう対話が進んでいくか。
それが本書の読みどころになっている。
冒頭の引用、“じゃあ、たとえ他国から攻められようとも、国土が蹂躙され、日本人が殺されようとも、憲法九条の「戦争放棄」は愚直に守るべきだという意見ですか?”と詰め寄るのはBさんだ。
森は、“その点に触れる前に、ちょっと似た話から始めます”と宣言し、アメリカの銃社会について話しはじめる。
二〇一二年、コネチカット州の小学校で銃の乱射事件が起こる。二〇人の児童と六人の教員が殺害される。
“事件発生後にアメリカ国内では、ほぼ1年にわたって、平均すれば月に二度ほど学校内での銃乱射事件が起きています。ところが結局のところ銃規制は実現しない”。
「銃を持った悪人を止められるのは銃を持った善人だけだ」と全米ライフル協会の副会長が発言する。
全米の学校に銃装備した警察官を配置せよ、とも言う。
そして、多くのアメリカ国民がこの発言を支持するのだ。
“「銃を持った悪人を止められるのは銃を持った善人だけだ」という意見は、日本人には理解できないですね”と司会者が言う。
対話は、こう続く。
森 でも、アメリカ人はそうは思わない。みんなが銃を持っているのに自分が持たないと怖い。だから銃を手放せない。
いま、「日本人はアメリカの銃の論理は理解できない」と言ってくれたけど、本当にそうだろうか。
D もちろんです。日本でよかったと思います。
森 Bさんも?
B 当然です。
森 日本人ならば、ほぼ誰もがそう思う。でも、「銃を持った悪人を止められるのは銃を持った善人だけ」のロジックは、実は世界のスタンダードでもあるんです。
B それは、どういうことですか?
森 軍隊保持の論理です。
A ああ。たしかにそうですね。
森 自分たちの軍隊は侵略などしない。他国に害を及ぼすようなことはしない。でも、悪い国が侵略してくるかもしれない。それから身を守るのは軍隊を持つしかない。理屈は同じです。
被害者遺族の気持ちに関しての議論で、森はこう語る。
“今、この国の第三者が共有しているのは、遺族の表層的な恨みや憎しみです。メディアがこれを増幅します。そこに依拠して裁判が行われる。この流れが、どんどん推し進められている感じがします”。
そして、“遺族への過度の感情移入は違います。何よりもそれは本当の感情ではなない。遺族の憎悪や悲しみを口実にしているにすぎない”と付け加える。
そういった態度について、冷酷だという議論も巻き起こる。
森は冷酷であることを認め、だが、"人は利他性が強い。だから他者に感情移入しやすい。でもその感情移入はとてもご都合主義でエゴイスティックです。その自覚をもっと持つべきです"と主張する。
また、第二章で、民意とメディアと政治が三位一体だという話をした後、森は、こう語る。
“ネット的な不寛容さが社会全体に感染している。その理由の一つは、やはり集団化が進行しているからだと僕は考えます。ならば集団の中の一部でいたほうが安全です。違うことをすると不謹慎だとして叩かれる。政治家やメディアは、今まで以上に風を読むことを要求される。つまり一方向への暴走が起こりやすくなっているわけです。”
表面的な感情移入や、不寛容さによって起こる集団化の暴走をくいとめるために何をすればいいのか?
愚直に、ていねいに、対話し、考え、行動することが大切だろう。
『アは「愛国」のア』で、森達也と若者が語り合ったように。
(米光一成)
激論の書だ。
森達也『アは「愛国」のア』。
帯の文句はこうだ。
「尖閣・竹島・靖国・従軍慰安婦・死刑制度・原発・捕鯨・憲法9条…について、若者たちと、とことん語り合ってみた! 売国奴VSネトウヨ大激論、勃発!」
ノンフィクション作家の森達也が、6人の若者と語り合ったようすをまとめた本である。
安倍政権、尖閣と竹島、従軍慰安婦問題、靖国問題、中国と韓国、A級戦犯について語る「PART1 バは「売国」のバ」。
捕鯨、対米感情、手を叩いて笑うこと、集団化、徴兵制、同町圧力について語る「PART2 クは「空気」のク」。
死刑制度、原発、オウム真理教、宗教について語る「PART3 イは「命」のイ」。
そして、森達也が書くエピローグ。
という構成。
さまざまな論点について、多様な角度からの発言が飛び出す。
ときに共感し、ときに対立し、意見を交える。
Aさんは創価学会員であり、その視点から宗教について語り合う。
Bさんは、森達也とくっきりと対立する。
B 森さんとお話ししていると、どうしてそこまで、日本と対抗する側の人たちの味方をするのか、日本を貶めようとするのか、わからなくなるんですよ。
B はっきり言って、お花畑の発想です。中国や北朝鮮の脅威は、以前とは比べものにならないくらい高まっているのに、そういったことにも対応できない憲法九条にしがみついているのはなぜなのかと思う。それにそもそもアメリカからの押しつけじゃないですか。
B 理屈はそうかもしれない。でもね、実際に苦しんでいる家族は、たしかにいるんですよ! 森さんは、自分がその立場になったとき、同じことが言えますか? 理屈だけでは、被害者家族の「殺してやりたい」という心情は、決して消えることはないんです。
B それは愛国心じゃない。「自虐史観」って言うんです。
これらBさんの主張に、森がどう答えるか。どう対話が進んでいくか。
それが本書の読みどころになっている。
冒頭の引用、“じゃあ、たとえ他国から攻められようとも、国土が蹂躙され、日本人が殺されようとも、憲法九条の「戦争放棄」は愚直に守るべきだという意見ですか?”と詰め寄るのはBさんだ。
森は、“その点に触れる前に、ちょっと似た話から始めます”と宣言し、アメリカの銃社会について話しはじめる。
二〇一二年、コネチカット州の小学校で銃の乱射事件が起こる。二〇人の児童と六人の教員が殺害される。
“事件発生後にアメリカ国内では、ほぼ1年にわたって、平均すれば月に二度ほど学校内での銃乱射事件が起きています。ところが結局のところ銃規制は実現しない”。
「銃を持った悪人を止められるのは銃を持った善人だけだ」と全米ライフル協会の副会長が発言する。
全米の学校に銃装備した警察官を配置せよ、とも言う。
そして、多くのアメリカ国民がこの発言を支持するのだ。
“「銃を持った悪人を止められるのは銃を持った善人だけだ」という意見は、日本人には理解できないですね”と司会者が言う。
対話は、こう続く。
森 でも、アメリカ人はそうは思わない。みんなが銃を持っているのに自分が持たないと怖い。だから銃を手放せない。
いま、「日本人はアメリカの銃の論理は理解できない」と言ってくれたけど、本当にそうだろうか。
D もちろんです。日本でよかったと思います。
森 Bさんも?
B 当然です。
森 日本人ならば、ほぼ誰もがそう思う。でも、「銃を持った悪人を止められるのは銃を持った善人だけ」のロジックは、実は世界のスタンダードでもあるんです。
B それは、どういうことですか?
森 軍隊保持の論理です。
A ああ。たしかにそうですね。
森 自分たちの軍隊は侵略などしない。他国に害を及ぼすようなことはしない。でも、悪い国が侵略してくるかもしれない。それから身を守るのは軍隊を持つしかない。理屈は同じです。
被害者遺族の気持ちに関しての議論で、森はこう語る。
“今、この国の第三者が共有しているのは、遺族の表層的な恨みや憎しみです。メディアがこれを増幅します。そこに依拠して裁判が行われる。この流れが、どんどん推し進められている感じがします”。
そして、“遺族への過度の感情移入は違います。何よりもそれは本当の感情ではなない。遺族の憎悪や悲しみを口実にしているにすぎない”と付け加える。
そういった態度について、冷酷だという議論も巻き起こる。
森は冷酷であることを認め、だが、"人は利他性が強い。だから他者に感情移入しやすい。でもその感情移入はとてもご都合主義でエゴイスティックです。その自覚をもっと持つべきです"と主張する。
また、第二章で、民意とメディアと政治が三位一体だという話をした後、森は、こう語る。
“ネット的な不寛容さが社会全体に感染している。その理由の一つは、やはり集団化が進行しているからだと僕は考えます。ならば集団の中の一部でいたほうが安全です。違うことをすると不謹慎だとして叩かれる。政治家やメディアは、今まで以上に風を読むことを要求される。つまり一方向への暴走が起こりやすくなっているわけです。”
表面的な感情移入や、不寛容さによって起こる集団化の暴走をくいとめるために何をすればいいのか?
愚直に、ていねいに、対話し、考え、行動することが大切だろう。
『アは「愛国」のア』で、森達也と若者が語り合ったように。
(米光一成)