「あと5年生きていたら」ノーベル賞を取り逃した科学者たち
今年もノーベル賞が発表される週を迎えている。きのう10月7日には、ノーベル物理学賞を赤崎勇・天野浩・中村修二の3人の研究者に授与するとの発表があった。いずれも発光ダイオード(LED)の実用化に貢献した人たちである。
いまさら言うまでもないことだが、今回の例にかぎらず、自然科学の部門(物理学賞、化学賞、生理学・医学賞)においてノーベル賞は、歴史に画期をなす発見や発明に与えられるものだ。1901年に始まった同賞はそのまま20世紀以降の科学史そのものといっても過言ではない。もっとも、大きな業績を残し、一般的にもその名を広く知られながらもノーベル賞に選ばれなかった人物もけっして少なくない。アメリカの発明王で、電力技術の分野に多大な功績を残したエジソンもその一人だったりする。
■エジソンがノーベル賞を逃したのは共同受賞者が辞退したから!?
私が子供の頃(1980年代)に読んだ本には、エジソンがノーベル物理学賞の候補にあがりながら、結果的に受賞を逃したことが次のように書かれていた。
《一九一二年のノーベル賞がエジソンとテスラに与えられようとしたとき、テスラはエジソンとの共同受賞を拒否したために、業績としては二人にはるかに及ばない人がもらった》(平田寛編著『地球は青かった 科学の名言集』)
ここに登場するテスラというのはクロアチア出身の電気工学者で、19世紀末にアメリカに渡り、エジソンの設立した電灯会社で研究・開発を行なっていた。だが、やがてその会社をやめてしまう。それというのも、発電や送電する方式として交流を主張するテスラに対し、エジソンは直流に頑なにこだわり、真っ向から衝突したためだ。のちにノーベル賞の候補にエジソンとともにあがったとき、テスラが共同受賞を拒否したのは、そうした事情があったからだと説明される。
しかしこの話、もう少しくわしく調べてみると、事実かどうかちょっと疑わしいところがある。ノーベル賞は1974年に規約を改訂して以来、授賞から50年を経た対象については、その選考資料を公開する決まりになっている。いまではノーベル賞の公式サイトから、選ばれなかった者も含め、すべての授賞候補者および推薦者のデータを閲覧することが可能だ。そこでエジソンについて調べてみたところ、彼が候補にあがったのは、1915年の一度だけということがわかった。一方、テスラが候補となったのはやはり一度だけ、しかしそれは1937年とエジソンとは22年も時期がずれている。
そもそも共同受賞者の一人が辞退したからといって、もう一人が受賞できないなんてことはありえるのだろうか。これはノーベル平和賞でのケースだが、1973年にベトナム和平の功績から、当時のアメリカの国務長官キッシンジャーと、ベトナムの政治家レ・ドク・トが選ばれたとき、レ・ドク・トはこれを辞退、結局キッシンジャーの単独受賞となった。ノーベル賞で複数人が選ばれた場合、たとえ誰かが賞を辞退しても、ほかの者の受賞までもがなくなるわけではないという、これは何よりの証しではないか。
こうして見るかぎり、エジソンとテスラの例のエピソードは、二人の確執から同時代か後世の誰かがノーベル賞と結びつけて創作したものではないか、というのが私のとりあえずの推理である。
■“常連候補”野口英世はどのぐらい受賞の目があったのか?
日本から初めてノーベル賞を受賞したのは1949年の湯川秀樹(物理学賞)だが、それ以前より何人かが候補にのぼっていたことが知られている。それはほぼ生理学・医学賞に集中しており、早くも1901年の第1回では北里柴三郎が候補となったほか、野口英世の名前も何度かあがった。
野口英世が初めて候補にあがったのは1913年。アメリカに渡り長らく研究を行なっていた野口はこの年の5月、日本の恩師宛ての手紙のなかで、3つの業績によっておそらく一両年のうちにノーベル賞を受賞するとの噂があると誇らしげに書いている。3つの業績というのは、梅毒の病原体を含む細菌(スピロヘータ)を純粋培養し、さらにその細菌(梅毒スピロヘータ)を梅毒患者の脳と脊髄から確認したことに加え、小児麻痺と狂犬病の原因を突き止めたことだった。ただし梅毒に関する業績はともかく、小児麻痺と狂犬病の病原体発見は今日では完全に否定されている。というのも、これらの病原体は細菌よりもはるかに小さいウイルスであり、電子顕微鏡でしか見えないものだからだ。つまり、光学顕微鏡を使っていた野口がそれを発見することはそもそも不可能だったのである。
だが、野口はこれら業績によって欧米の学界から一躍注目される存在となったことは、まぎれもない事実だ。同じく1913年の秋にはヨーロッパ各国を講演してまわり大歓迎を受けた。翌14年にもノーベル賞に推薦され、以後1915年、20年、21年、24年、25年、26年、27年と、黄熱病の原因解明のため赴いたアフリカ・ガーナで1928年に死去するまでに計9回も候補にあがっている。
とはいえ、実際のところ、野口にはどれだけ受賞する可能性があったのだろうか。これについて科学史家の中山茂は、候補にもいくつかの段階があり、最終段階の候補にとどまったとしても受賞するのはまだ数十分の一の確率であり、それだけでは騒ぐほどのことはないと冷静に考察している。さらには以下のような理由から、野口の受賞はおそらく無理だったろうと推察する。
《受賞者にはコッホ[ドイツの細菌学者。1910年に「結核に関する発見と研究」によりノーベル賞受賞――引用者注]をはじめ、大物ばかりが並んでいるから、英世は候補者どまりで、受賞はまず無理であったろう。(中略)ノーベル賞クラスの世界最大の賞ともなると、個人の名誉以上に国家の威信もかかわっている。そこで各国外交団の裏面におけるロビー活動がしのぎを削ることになる。その点では、東洋の小国育ちの日本人は不利であったろう》(『野口英世』)
もっとも前者については、コッホよりも先に彼の弟子のベーリングが1901年に受賞しているので必ずしもそうはいえないような気もする。ただ、同じコッホ門下で、ベーリングとともに破傷風やジフテリアの血清療法を発表した北里柴三郎が選ばれなかったことを思えば(今日ならきっと共同受賞していたはずだが)、後者の説明にはかなり説得力がある。ノーベル賞の決定の背景には、そうした時代的な事情も見逃せまい。
■受賞の必須条件はずばり“長生き”?
ノーベル賞には受賞対象になりにくい研究分野も存在する。たとえば木村資生という遺伝学者は、「中立説」というダーウィンの進化論を大きく更新するような理論を発表し、ノーベル賞の呼び声も高かった。だが結局は受賞しないまま、1994年に70歳で死去している。これというのも、進化論は評価に時間がかかり、ノーベル生理学・医学賞の対象となりにくいからとの意見がある(朝日新聞社編(『二十世紀の千人5 テクノ時代の創造者』)。本人もそのことは十分自覚していたようで、進化論の分野では最高峰のダーウィン・メダルを授与されたとき、《進化という分野はノーベル賞にはないから、ダーウィン・メダルをもらえば、ノーベル賞をもらったのと同じことになりますかねえ》と語っていた(「サイエンティストライブラリー:特別編 サバイバル・オブ・ラッキエスト 木村資生」)。それでも、亡くなったときには「あと5年生きていたら」と惜しむ声もあがったという(前掲書)。
ノーベル賞の受賞対象が生存者に限定されている以上、できるかぎり長生きするというのは、受賞できるか否かを分けるもっとも重要な要素といえるかもしれない。それはとりわけ評価に時間がかかるテーマにいえる。
一例をあげるなら、体外受精技術は、1978年に初めてその手術を受けた女性が出産して以降、世界中に広まった。しかし倫理面から批判の声も強く、それがノーベル賞受賞を遅らせることになったとの見方もある。実際、この業績によりイギリスの医学者ロバート・エドワーズが受賞したのは2010年と、じつに最初の実践例から32年が経っていた。このときエドワーズは85歳という高齢のため受賞式に出席することができなかった。彼の共同研究者だったパトリック・ステプトーにいたっては、1988年に亡くなっている。
イギリスの女性科学者であるロザリンド・フランクリンも、DNAの二重らせん構造モデルの確立(1953年)に多大な貢献をしながら、1958年に38歳で病死したためノーベル賞の栄誉に浴することができなかった。彼女の共同研究者だったモーリス・ウィルキンズは、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックのコンビとともに1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。二重らせん構造のモデルを最終的に完成させたのはワトソンとクリックであったが、それはフランクリンの手になるX線回折データを、ウィルキンズがうっかり2人に見せてヒントを与えてしまったからだという。
ただ、このときフランクリンはすでにウィルキンズと袂を分かっていた。これというのも、彼女は優秀な研究者であったものの、協調性に乏しい性格でウィルキンズと衝突が絶えなかったからだと伝えられる。なお、ノーベル賞で一度に同時受賞できるのは3人までと決められている。それを考えるだに、たとえ病に倒れることがなくても、彼女が果たして受賞できたのかどうか、疑問は残るところだ。
そんなフランクリンについて、医師でマンガ家の茨木保は次のように書いている。
《彼女が、当時「男社会」であった科学界でもう少し上手く立ち回る術を知っていたのなら、そして病に倒れることがなかったなら…。DNAの歴史は、彼女を中心に回っていたかもしれない》(『まんが 医学の歴史』)
ノーベル賞を受賞できるかどうかは、けっして業績の大きさだけで決まるのではなく、そこにはさまざまな要素が絡み合っていることが、ここにあげた事例からもうかがえよう。受賞をめぐるドラマはいまこのときにも、どこかで静かに進行しているのかもしれない。
(近藤正高)
いまさら言うまでもないことだが、今回の例にかぎらず、自然科学の部門(物理学賞、化学賞、生理学・医学賞)においてノーベル賞は、歴史に画期をなす発見や発明に与えられるものだ。1901年に始まった同賞はそのまま20世紀以降の科学史そのものといっても過言ではない。もっとも、大きな業績を残し、一般的にもその名を広く知られながらもノーベル賞に選ばれなかった人物もけっして少なくない。アメリカの発明王で、電力技術の分野に多大な功績を残したエジソンもその一人だったりする。
私が子供の頃(1980年代)に読んだ本には、エジソンがノーベル物理学賞の候補にあがりながら、結果的に受賞を逃したことが次のように書かれていた。
《一九一二年のノーベル賞がエジソンとテスラに与えられようとしたとき、テスラはエジソンとの共同受賞を拒否したために、業績としては二人にはるかに及ばない人がもらった》(平田寛編著『地球は青かった 科学の名言集』)
ここに登場するテスラというのはクロアチア出身の電気工学者で、19世紀末にアメリカに渡り、エジソンの設立した電灯会社で研究・開発を行なっていた。だが、やがてその会社をやめてしまう。それというのも、発電や送電する方式として交流を主張するテスラに対し、エジソンは直流に頑なにこだわり、真っ向から衝突したためだ。のちにノーベル賞の候補にエジソンとともにあがったとき、テスラが共同受賞を拒否したのは、そうした事情があったからだと説明される。
しかしこの話、もう少しくわしく調べてみると、事実かどうかちょっと疑わしいところがある。ノーベル賞は1974年に規約を改訂して以来、授賞から50年を経た対象については、その選考資料を公開する決まりになっている。いまではノーベル賞の公式サイトから、選ばれなかった者も含め、すべての授賞候補者および推薦者のデータを閲覧することが可能だ。そこでエジソンについて調べてみたところ、彼が候補にあがったのは、1915年の一度だけということがわかった。一方、テスラが候補となったのはやはり一度だけ、しかしそれは1937年とエジソンとは22年も時期がずれている。
そもそも共同受賞者の一人が辞退したからといって、もう一人が受賞できないなんてことはありえるのだろうか。これはノーベル平和賞でのケースだが、1973年にベトナム和平の功績から、当時のアメリカの国務長官キッシンジャーと、ベトナムの政治家レ・ドク・トが選ばれたとき、レ・ドク・トはこれを辞退、結局キッシンジャーの単独受賞となった。ノーベル賞で複数人が選ばれた場合、たとえ誰かが賞を辞退しても、ほかの者の受賞までもがなくなるわけではないという、これは何よりの証しではないか。
こうして見るかぎり、エジソンとテスラの例のエピソードは、二人の確執から同時代か後世の誰かがノーベル賞と結びつけて創作したものではないか、というのが私のとりあえずの推理である。
■“常連候補”野口英世はどのぐらい受賞の目があったのか?
日本から初めてノーベル賞を受賞したのは1949年の湯川秀樹(物理学賞)だが、それ以前より何人かが候補にのぼっていたことが知られている。それはほぼ生理学・医学賞に集中しており、早くも1901年の第1回では北里柴三郎が候補となったほか、野口英世の名前も何度かあがった。
野口英世が初めて候補にあがったのは1913年。アメリカに渡り長らく研究を行なっていた野口はこの年の5月、日本の恩師宛ての手紙のなかで、3つの業績によっておそらく一両年のうちにノーベル賞を受賞するとの噂があると誇らしげに書いている。3つの業績というのは、梅毒の病原体を含む細菌(スピロヘータ)を純粋培養し、さらにその細菌(梅毒スピロヘータ)を梅毒患者の脳と脊髄から確認したことに加え、小児麻痺と狂犬病の原因を突き止めたことだった。ただし梅毒に関する業績はともかく、小児麻痺と狂犬病の病原体発見は今日では完全に否定されている。というのも、これらの病原体は細菌よりもはるかに小さいウイルスであり、電子顕微鏡でしか見えないものだからだ。つまり、光学顕微鏡を使っていた野口がそれを発見することはそもそも不可能だったのである。
だが、野口はこれら業績によって欧米の学界から一躍注目される存在となったことは、まぎれもない事実だ。同じく1913年の秋にはヨーロッパ各国を講演してまわり大歓迎を受けた。翌14年にもノーベル賞に推薦され、以後1915年、20年、21年、24年、25年、26年、27年と、黄熱病の原因解明のため赴いたアフリカ・ガーナで1928年に死去するまでに計9回も候補にあがっている。
とはいえ、実際のところ、野口にはどれだけ受賞する可能性があったのだろうか。これについて科学史家の中山茂は、候補にもいくつかの段階があり、最終段階の候補にとどまったとしても受賞するのはまだ数十分の一の確率であり、それだけでは騒ぐほどのことはないと冷静に考察している。さらには以下のような理由から、野口の受賞はおそらく無理だったろうと推察する。
《受賞者にはコッホ[ドイツの細菌学者。1910年に「結核に関する発見と研究」によりノーベル賞受賞――引用者注]をはじめ、大物ばかりが並んでいるから、英世は候補者どまりで、受賞はまず無理であったろう。(中略)ノーベル賞クラスの世界最大の賞ともなると、個人の名誉以上に国家の威信もかかわっている。そこで各国外交団の裏面におけるロビー活動がしのぎを削ることになる。その点では、東洋の小国育ちの日本人は不利であったろう》(『野口英世』)
もっとも前者については、コッホよりも先に彼の弟子のベーリングが1901年に受賞しているので必ずしもそうはいえないような気もする。ただ、同じコッホ門下で、ベーリングとともに破傷風やジフテリアの血清療法を発表した北里柴三郎が選ばれなかったことを思えば(今日ならきっと共同受賞していたはずだが)、後者の説明にはかなり説得力がある。ノーベル賞の決定の背景には、そうした時代的な事情も見逃せまい。
■受賞の必須条件はずばり“長生き”?
ノーベル賞には受賞対象になりにくい研究分野も存在する。たとえば木村資生という遺伝学者は、「中立説」というダーウィンの進化論を大きく更新するような理論を発表し、ノーベル賞の呼び声も高かった。だが結局は受賞しないまま、1994年に70歳で死去している。これというのも、進化論は評価に時間がかかり、ノーベル生理学・医学賞の対象となりにくいからとの意見がある(朝日新聞社編(『二十世紀の千人5 テクノ時代の創造者』)。本人もそのことは十分自覚していたようで、進化論の分野では最高峰のダーウィン・メダルを授与されたとき、《進化という分野はノーベル賞にはないから、ダーウィン・メダルをもらえば、ノーベル賞をもらったのと同じことになりますかねえ》と語っていた(「サイエンティストライブラリー:特別編 サバイバル・オブ・ラッキエスト 木村資生」)。それでも、亡くなったときには「あと5年生きていたら」と惜しむ声もあがったという(前掲書)。
ノーベル賞の受賞対象が生存者に限定されている以上、できるかぎり長生きするというのは、受賞できるか否かを分けるもっとも重要な要素といえるかもしれない。それはとりわけ評価に時間がかかるテーマにいえる。
一例をあげるなら、体外受精技術は、1978年に初めてその手術を受けた女性が出産して以降、世界中に広まった。しかし倫理面から批判の声も強く、それがノーベル賞受賞を遅らせることになったとの見方もある。実際、この業績によりイギリスの医学者ロバート・エドワーズが受賞したのは2010年と、じつに最初の実践例から32年が経っていた。このときエドワーズは85歳という高齢のため受賞式に出席することができなかった。彼の共同研究者だったパトリック・ステプトーにいたっては、1988年に亡くなっている。
イギリスの女性科学者であるロザリンド・フランクリンも、DNAの二重らせん構造モデルの確立(1953年)に多大な貢献をしながら、1958年に38歳で病死したためノーベル賞の栄誉に浴することができなかった。彼女の共同研究者だったモーリス・ウィルキンズは、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックのコンビとともに1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。二重らせん構造のモデルを最終的に完成させたのはワトソンとクリックであったが、それはフランクリンの手になるX線回折データを、ウィルキンズがうっかり2人に見せてヒントを与えてしまったからだという。
ただ、このときフランクリンはすでにウィルキンズと袂を分かっていた。これというのも、彼女は優秀な研究者であったものの、協調性に乏しい性格でウィルキンズと衝突が絶えなかったからだと伝えられる。なお、ノーベル賞で一度に同時受賞できるのは3人までと決められている。それを考えるだに、たとえ病に倒れることがなくても、彼女が果たして受賞できたのかどうか、疑問は残るところだ。
そんなフランクリンについて、医師でマンガ家の茨木保は次のように書いている。
《彼女が、当時「男社会」であった科学界でもう少し上手く立ち回る術を知っていたのなら、そして病に倒れることがなかったなら…。DNAの歴史は、彼女を中心に回っていたかもしれない》(『まんが 医学の歴史』)
ノーベル賞を受賞できるかどうかは、けっして業績の大きさだけで決まるのではなく、そこにはさまざまな要素が絡み合っていることが、ここにあげた事例からもうかがえよう。受賞をめぐるドラマはいまこのときにも、どこかで静かに進行しているのかもしれない。
(近藤正高)