ドラえもんに必ずしずかちゃんのお風呂シーンがあるのは何故と問われ、藤子・F・不二雄はどう答えたか
《先生、ドラえもんには必ず、しずかちゃんの入浴シーンが出てくるけど、先生はスケベなの?》
「ドラえもん」の作者・藤子・F・不二雄(藤本弘)にあるとき、こんな質問がぶつけられたことがあった。それは、「大人だけのドラえもんオールナイト」というイベントでのこと。このイベントは毎年春のドラえもん映画の新作の公開にあわせて、過去の作品をいくつか朝まで上映するというもので、1985年より始まった。藤本はそこで原作者としてあいさつに立っていた。
観客はもちろん18歳以上ばかりで、小中学生はいない。集まったなかにはスーツ姿の人やオタクっぽい人もいたものの、それ以上に革ジャンを羽織り、腰から鎖をジャラジャラさせた柄の悪い連中が目についたらしい。先の質問は、あいさつが終わったとき、ふいに客席から飛び出したものだった。それに対し藤本は笑いながら、こう切り返したという。
《君たちと同じです》
それからしばらく観客とのあいだでやりとりが続き、当初10分の予定だった藤本の登壇時間は30分もオーバーした。会場に同行した、アニメ版「ドラえもん」を制作するシンエイ動画の楠部三吉郎(当時、営業担当の専務。のち代表取締役、会長)は、そのとき初めて藤本が破顔するのを見たと、著書『「ドラえもん」への感謝状』に書いている。楠部の記憶に残る藤本は、お茶目だけれども、喜怒哀楽を前面に出すことはなく、いつも柔和な表情で、どんなときでも平然としていた。それだけに、イベントで相好を崩しながら観客と話を交わす姿は意外に感じられたのだ。
藤本はいつもは寡黙ながら、自分の意に沿わないことがあれば、静かに、しかしきっぱりと伝えた。『「ドラえもん」への感謝状』にも、そんな場面がたびたび出てくる。そもそも、楠部がシンエイ動画の設立にあたり、「ドラえもん」のテレビアニメ化を持ちかけたときも、藤本はしばらく黙ったまま即答を避けたという。
シンエイ動画は、東京ムービーの制作部門を請け負うAプロダクションを母体に、楠部と、その兄でアニメーターの大吉郎によって1976年に設立された。楠部は藤本とはそれ以前、テレビアニメ「新オバケのQ太郎」「ジャングル黒べえ」で一緒に仕事をしていた。「ドラえもん」の企画は、何の見通しもない新会社の船出にあたり、わらにもすがる気持ちで持ちこんだものだ。だが、藤本はずっと黙ったまま。ようやく口を開くと一言、《楠部くんがいったいどうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか。原稿用紙3、4枚でいいから、あなたの気持ちを書いてきてください》とだけ言った。
与えられた課題に楠部はいざ取り組もうとしたものの、まったく言葉が出てこない。そこで藤本に数日待ってもらうよう頼むと、かつてのAプロダクションでの同僚・高畑勲の家へと向かった。いうまでもなく、宮崎駿の同志的存在で、このあと「赤毛のアン」や「火垂るの墓」などの名作を残すことになるアニメーション監督だ。
このとき高畑がどんな役割を果たしたかは、本書で確認していただくとして、後日、楠部がレポートを提出したとき、藤本は一読するや、《わかりました。あなたにあずけます》と今度は即答してくれた。ここで楠部は、今後1年間の営業権の代金として、100万円の小切手をこっそり渡そうとする。なけなしのカネを集めてつくったものだったが、これに藤本は怒った。楠部によれば、形相も口調も変わるような怒りを先生が見せたのは、このときが最初で最後だったという。
《いままで自分の作品は、良縁に恵まれてきました。『オバQ』にしても、『パーマン』にしても、みな幸せな家庭へ嫁に出すことができました。でも、『ドラえもん』だけは出戻りなんです。さんざんな仕打ちを受けて戻って来た、かわいそうな娘です。でも僕にとっては目の中に入れても痛くない、かわいい娘なんです。だからもし、もう一度嫁に出すことがあったら、せめて婿は自分で選ぼうと、そう決めていました。それで、失礼は承知の上で、レポートを書いてもらったんです。そして、私があなたを選んだ。私が選んだ婿から、お金を取れますか?》
これが藤本の怒った理由だった。「ドラえもん」が出戻りというのは、それ以前にあるテレビ局でアニメ化されたものの低視聴率で打ち切られたことを指す。その出来にも藤本はそうとう不満を抱いていたのだろう。それにしてもこの藤本の発言は、「ドラえもん」の「のび太の結婚前夜」におけるしずかちゃんの父親のセリフを彷彿とさせる。読んでいて、思わずドラ泣きしそうになった。
楠部は、藤本から一切をあずけられ、さっそく各テレビ局をまわって営業を始める。だが一度アニメ化に失敗している作品だけに、行く先々で門前払いを食らった。「ほかの作品なら」と言ってくれるところもあったが、藤本と約束した以上、変えるわけにはいかない。営業を続けた末に、赤字覚悟でパイロット版をつくり、それを持ってまわるという作戦に変更した。このときアフレコに参加してくれたのは、大山のぶ代をはじめアニメ放送開始時と同じ声優陣だった。結果からいえば、このパイロット版のおかげで、テレビ朝日での放送が決まる。1978年秋のことだ(放送開始は翌79年4月)。この時点で、藤本に話を持ちこんでから1年以上が経っていた。
藤本は楠部にすべてをあずけたとはいえ、後年、2度だけ注文をつけたことがあった。1度目は、テレビで「ドラえもん」が始まって少し経った頃、一言だけ「私のキャラクターでお願いします」と申し入れた。2度目は「ドラえもん」の映画第3作の完成後のこと。このとき藤本は「評判もいいし、私も作品の出来はいいと思います」と前置きしつつ、強い口調で《でも、私の世界を理解していただいていないようです。監督をかえていただけますか》と告げたという。
作品の良し悪し以前に、その映画を「自分の作品だ」と思えない、監督とはどうも相性が合わないと、先生は感じたのだろうと楠部は解釈する。これを受けて、さっそく新しい監督を選ぶことになる。そこで抜擢されたのが1983年から2004年まで、じつに22作もの劇場版「ドラえもん」を手がけることになる芝山努だった。
これ以後、原作の持つ世界観を大事にすることは、楠部の心に銘ずるところとなった。シンエイ動画はアニメ版「クレヨンしんちゃん」というヒットも生み、原恵一の監督したその劇場版「嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲」や「嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦」などは、複数の映画賞を受賞し高い評価を受けた。だが、これに楠部は違和感を抱く。「これはもう、原作者の臼井儀人先生の作品ではない。正直『クレヨンしんちゃん』じゃなくなってる」というのがその理由だ。実際に原を呼んで、《おい、今度、劇場に行って、正面から子どもたちの顔を見てみろ! 特に小っちゃいガキが、どんなにつまらなそうな顔をしているかわかるはずだ》と苦言を呈したという。それだけに、のちに原が本当に子供たちのために「河童のクゥと夏休み」を手がけたときには、楠部は協力を惜しまなかった。
『「ドラえもん」への感謝状』では楠部の半生もおおいに語られている。ときには痛い目にもあいながら、筋を通し続ける彼の姿は痛快ですらある。仕事先でも筋を通そうとするがあまり衝突を繰り返し、アニメ業界に落ち着くまでは転職もしょっちゅうだった。電機メーカーの代理店時代には、営業成績が桁違いにいいのでほかの社員より多めにボーナスをもらったのだが、楠部は「ほかの社員と平等にしてくれ」と経理部に抗議する。小学生のときに教師からえこひいきされ、同級生にいじめられた経験があるだけに、ひいきされることが許せなかったのだ。これを機にその会社はやめてしまう。
経営者となってからも、その姿勢に揺るぎはない。「ドラえもん」映画第1作で予想以上に出た収益も、その制作にかかわったすべての会社に配ることにし、しかも貢献の度合に関係なく公平公正に分けることを経理に厳命した。
そんな楠部を、藤本は自身とあわせて「ふたりのアホ」と呼んだことがあった。それはシンエイ動画によるアニメ化決定と、単行本の1000万部突破を記念したパーティであいさつに立ったときのこと。
《ひとりは、ダメだダメだと言われても、それでも『ドラえもん』しか描けなかったアホな作家、もうひとりは、ダメだダメだと言われ続けても、1年以上も『ドラえもん』だけ持って回ったアホなセールスマン。このふたりのアホがいて、今日があります》
藤本亡きあと、「もうひとりのアホ」はまたしても常識はずれの決断を下した。それが2005年、放送開始から25年にして「ドラえもん」の声優もスタッフも総入れ替えするという、日本のアニメ界では前代未聞のリニューアルだ。そこには、「ドラえもん」は、送り手たちが年をとりすぎ「子供たちのもの」とは言いがたくなってきたとの判断があった。当然ながら不満の声をあげる関係者に対し、楠部は次のように説得したという。
《ドラえもんは藤本先生が遺してくれた大切な宝物です。それを次世代に引き継ぎませんか? ボクも皆さんと同じぐらい、ドラえもんを愛しています。ドラえもんを次に繋げるためには、あえて25年というタイミングで一新したい。どうやって次に繋げるかと悩んだ時に、これしかないとボクは素直に思ったのです》
私としても、原作や放送開始当初のアニメではのび太とドラえもんは同等の友達だったはずなのに、いつしかドラえもんが親代わりのようになってしまい、正直いって違和感があった。だからリニューアルされたアニメを見たとき、「ああ、これが自分の好きだった『ドラえもん』だ!」と思ったものだ。作品の継承のためには、ときには送り手を一新することも必要だと、このリニューアルは示したのである。多くの分野で世代交代がなかなか進まないこの日本にあって、これは大英断といえるのではないか。
(近藤正高)
「ドラえもん」の作者・藤子・F・不二雄(藤本弘)にあるとき、こんな質問がぶつけられたことがあった。それは、「大人だけのドラえもんオールナイト」というイベントでのこと。このイベントは毎年春のドラえもん映画の新作の公開にあわせて、過去の作品をいくつか朝まで上映するというもので、1985年より始まった。藤本はそこで原作者としてあいさつに立っていた。
《君たちと同じです》
それからしばらく観客とのあいだでやりとりが続き、当初10分の予定だった藤本の登壇時間は30分もオーバーした。会場に同行した、アニメ版「ドラえもん」を制作するシンエイ動画の楠部三吉郎(当時、営業担当の専務。のち代表取締役、会長)は、そのとき初めて藤本が破顔するのを見たと、著書『「ドラえもん」への感謝状』に書いている。楠部の記憶に残る藤本は、お茶目だけれども、喜怒哀楽を前面に出すことはなく、いつも柔和な表情で、どんなときでも平然としていた。それだけに、イベントで相好を崩しながら観客と話を交わす姿は意外に感じられたのだ。
藤本はいつもは寡黙ながら、自分の意に沿わないことがあれば、静かに、しかしきっぱりと伝えた。『「ドラえもん」への感謝状』にも、そんな場面がたびたび出てくる。そもそも、楠部がシンエイ動画の設立にあたり、「ドラえもん」のテレビアニメ化を持ちかけたときも、藤本はしばらく黙ったまま即答を避けたという。
シンエイ動画は、東京ムービーの制作部門を請け負うAプロダクションを母体に、楠部と、その兄でアニメーターの大吉郎によって1976年に設立された。楠部は藤本とはそれ以前、テレビアニメ「新オバケのQ太郎」「ジャングル黒べえ」で一緒に仕事をしていた。「ドラえもん」の企画は、何の見通しもない新会社の船出にあたり、わらにもすがる気持ちで持ちこんだものだ。だが、藤本はずっと黙ったまま。ようやく口を開くと一言、《楠部くんがいったいどうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか。原稿用紙3、4枚でいいから、あなたの気持ちを書いてきてください》とだけ言った。
与えられた課題に楠部はいざ取り組もうとしたものの、まったく言葉が出てこない。そこで藤本に数日待ってもらうよう頼むと、かつてのAプロダクションでの同僚・高畑勲の家へと向かった。いうまでもなく、宮崎駿の同志的存在で、このあと「赤毛のアン」や「火垂るの墓」などの名作を残すことになるアニメーション監督だ。
このとき高畑がどんな役割を果たしたかは、本書で確認していただくとして、後日、楠部がレポートを提出したとき、藤本は一読するや、《わかりました。あなたにあずけます》と今度は即答してくれた。ここで楠部は、今後1年間の営業権の代金として、100万円の小切手をこっそり渡そうとする。なけなしのカネを集めてつくったものだったが、これに藤本は怒った。楠部によれば、形相も口調も変わるような怒りを先生が見せたのは、このときが最初で最後だったという。
《いままで自分の作品は、良縁に恵まれてきました。『オバQ』にしても、『パーマン』にしても、みな幸せな家庭へ嫁に出すことができました。でも、『ドラえもん』だけは出戻りなんです。さんざんな仕打ちを受けて戻って来た、かわいそうな娘です。でも僕にとっては目の中に入れても痛くない、かわいい娘なんです。だからもし、もう一度嫁に出すことがあったら、せめて婿は自分で選ぼうと、そう決めていました。それで、失礼は承知の上で、レポートを書いてもらったんです。そして、私があなたを選んだ。私が選んだ婿から、お金を取れますか?》
これが藤本の怒った理由だった。「ドラえもん」が出戻りというのは、それ以前にあるテレビ局でアニメ化されたものの低視聴率で打ち切られたことを指す。その出来にも藤本はそうとう不満を抱いていたのだろう。それにしてもこの藤本の発言は、「ドラえもん」の「のび太の結婚前夜」におけるしずかちゃんの父親のセリフを彷彿とさせる。読んでいて、思わずドラ泣きしそうになった。
楠部は、藤本から一切をあずけられ、さっそく各テレビ局をまわって営業を始める。だが一度アニメ化に失敗している作品だけに、行く先々で門前払いを食らった。「ほかの作品なら」と言ってくれるところもあったが、藤本と約束した以上、変えるわけにはいかない。営業を続けた末に、赤字覚悟でパイロット版をつくり、それを持ってまわるという作戦に変更した。このときアフレコに参加してくれたのは、大山のぶ代をはじめアニメ放送開始時と同じ声優陣だった。結果からいえば、このパイロット版のおかげで、テレビ朝日での放送が決まる。1978年秋のことだ(放送開始は翌79年4月)。この時点で、藤本に話を持ちこんでから1年以上が経っていた。
藤本は楠部にすべてをあずけたとはいえ、後年、2度だけ注文をつけたことがあった。1度目は、テレビで「ドラえもん」が始まって少し経った頃、一言だけ「私のキャラクターでお願いします」と申し入れた。2度目は「ドラえもん」の映画第3作の完成後のこと。このとき藤本は「評判もいいし、私も作品の出来はいいと思います」と前置きしつつ、強い口調で《でも、私の世界を理解していただいていないようです。監督をかえていただけますか》と告げたという。
作品の良し悪し以前に、その映画を「自分の作品だ」と思えない、監督とはどうも相性が合わないと、先生は感じたのだろうと楠部は解釈する。これを受けて、さっそく新しい監督を選ぶことになる。そこで抜擢されたのが1983年から2004年まで、じつに22作もの劇場版「ドラえもん」を手がけることになる芝山努だった。
これ以後、原作の持つ世界観を大事にすることは、楠部の心に銘ずるところとなった。シンエイ動画はアニメ版「クレヨンしんちゃん」というヒットも生み、原恵一の監督したその劇場版「嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲」や「嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦」などは、複数の映画賞を受賞し高い評価を受けた。だが、これに楠部は違和感を抱く。「これはもう、原作者の臼井儀人先生の作品ではない。正直『クレヨンしんちゃん』じゃなくなってる」というのがその理由だ。実際に原を呼んで、《おい、今度、劇場に行って、正面から子どもたちの顔を見てみろ! 特に小っちゃいガキが、どんなにつまらなそうな顔をしているかわかるはずだ》と苦言を呈したという。それだけに、のちに原が本当に子供たちのために「河童のクゥと夏休み」を手がけたときには、楠部は協力を惜しまなかった。
『「ドラえもん」への感謝状』では楠部の半生もおおいに語られている。ときには痛い目にもあいながら、筋を通し続ける彼の姿は痛快ですらある。仕事先でも筋を通そうとするがあまり衝突を繰り返し、アニメ業界に落ち着くまでは転職もしょっちゅうだった。電機メーカーの代理店時代には、営業成績が桁違いにいいのでほかの社員より多めにボーナスをもらったのだが、楠部は「ほかの社員と平等にしてくれ」と経理部に抗議する。小学生のときに教師からえこひいきされ、同級生にいじめられた経験があるだけに、ひいきされることが許せなかったのだ。これを機にその会社はやめてしまう。
経営者となってからも、その姿勢に揺るぎはない。「ドラえもん」映画第1作で予想以上に出た収益も、その制作にかかわったすべての会社に配ることにし、しかも貢献の度合に関係なく公平公正に分けることを経理に厳命した。
そんな楠部を、藤本は自身とあわせて「ふたりのアホ」と呼んだことがあった。それはシンエイ動画によるアニメ化決定と、単行本の1000万部突破を記念したパーティであいさつに立ったときのこと。
《ひとりは、ダメだダメだと言われても、それでも『ドラえもん』しか描けなかったアホな作家、もうひとりは、ダメだダメだと言われ続けても、1年以上も『ドラえもん』だけ持って回ったアホなセールスマン。このふたりのアホがいて、今日があります》
藤本亡きあと、「もうひとりのアホ」はまたしても常識はずれの決断を下した。それが2005年、放送開始から25年にして「ドラえもん」の声優もスタッフも総入れ替えするという、日本のアニメ界では前代未聞のリニューアルだ。そこには、「ドラえもん」は、送り手たちが年をとりすぎ「子供たちのもの」とは言いがたくなってきたとの判断があった。当然ながら不満の声をあげる関係者に対し、楠部は次のように説得したという。
《ドラえもんは藤本先生が遺してくれた大切な宝物です。それを次世代に引き継ぎませんか? ボクも皆さんと同じぐらい、ドラえもんを愛しています。ドラえもんを次に繋げるためには、あえて25年というタイミングで一新したい。どうやって次に繋げるかと悩んだ時に、これしかないとボクは素直に思ったのです》
私としても、原作や放送開始当初のアニメではのび太とドラえもんは同等の友達だったはずなのに、いつしかドラえもんが親代わりのようになってしまい、正直いって違和感があった。だからリニューアルされたアニメを見たとき、「ああ、これが自分の好きだった『ドラえもん』だ!」と思ったものだ。作品の継承のためには、ときには送り手を一新することも必要だと、このリニューアルは示したのである。多くの分野で世代交代がなかなか進まないこの日本にあって、これは大英断といえるのではないか。
(近藤正高)