アテネ五輪に出場した那須大亮氏(写真左)と小野伸二氏【写真:産経新聞社】

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【2004年アテネ五輪|GL敗退】「別格」小野伸二がオーバーエイジとして与えた衝撃

 4年に1度の大舞台、パリ五輪が間もなくスタートする。

 現在はYouTuberとして活躍する元Jリーガーの那須大亮氏は、2004年のアテネ五輪にU-23日本代表のキャプテンとして出場した。そこで、オーバーエイジ(OA)として参戦した小野伸二の別次元の凄みを体感したという。(取材・文=石川 遼)

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 今回のパリ五輪でU-23日本代表は、2008年の北京五輪以来4大会ぶりにOAなしで戦うことが決まった。今から20年前の2004年アテネ五輪ではGK曽ヶ端準とMF小野伸二の2人がOAとして参戦。同大会でキャプテンを務めた那須大亮は、当時すでに欧州の最前線にいた小野の存在にそれまで味わったことのない衝撃を受けたという。

「伸二さんはあの時に初めてプレーを間近で見たんですけど、天才ってこういう人のことを言うんだなって実感しました。ヤット(遠藤保仁)さんも伸二さんだけは別格だと昔から言っていましたけど、あの圧倒的なスキルを目の当たりにすると、こういう選手って本当にいるんだって思い知らされました」

 小野は初戦のパラグアイ戦(3-4)でPKから2得点を決めるなど、チームを牽引した。那須が先発を外れた第2戦のイタリア戦以降はキャプテンマークを巻いた。

 那須が「自分も初めから伸二さんに(キャプテンを)やってほしいなと思っていました」と語るほどにその存在は際立っていた。ピッチ上で淡々とプレーする印象も強い小野だが、アテネでは先頭に立ってリーダーシップを発揮していたという。

「伸二さんは僕らとも壁を作らずに話してくれました。当時の先輩方は積極的に自分から話しかけるタイプの選手はそんなに多くありませんでした。個性が際立っている選手が多く、どこか近寄りがたいイメージもありましたけど、伸二さんはいろいろな選手に積極的に声をかけてくれました」

 今ほど日本人選手の欧州移籍がまだ当たり前ではない時代に、小野はオランダ1部の名門フェイエノールトで中心選手として活躍し、同じプロ選手からも一目置かれる存在だった。それゆえに“頼り切り”となってしまっていたのは否めなかった。

「今にして思えば、チームとしてOAに依存しすぎてた部分はあったと思います。僕自身もそうでした。(メジャーリーガーの)大谷翔平選手の言葉じゃないですけど、憧れとかそれに近いものがあったんじゃないかなと思います。実際、あの時点でしっかりとした国際経験を持っていたのも曽ヶ端さんと伸二さんくらいでしたからね」

「同級生でも学ぶことばかり」…同世代でも物怖じしていなかった選手とは?

 OAの小野が周囲に“格の違い”を見せていたなか、U-23世代の選手でも個として世界で戦える力を証明した選手たちもいた。

 それを那須が感じていたのは、ストライカーのFW大久保嘉人や、鹿児島実業高時代からの盟友であるMF松井大輔、そしてブラジルから帰化してアテネで日本代表として国際舞台に初めて立ったDF田中マルクス闘莉王の3人だ。

「嘉人、それから松井。あの大会のあとに海外に挑戦するような選手たちっていうのは、U-23においても存在価値、存在意義を示していたと思います。闘莉王はどんな舞台でも全く変わらずで、それはアテネでも一緒でした。予選からあのメンタリティーは凄いと感じていて、同級生ですけど一緒にプレーしていて学ぶことばかりでした。あの生まれ持ったメンタリティーの強さは僕らにはないもので、真似できないなと思いましたけど(笑)」

 大久保はこの大会で小野と並ぶチームトップタイの2得点を挙げ、同年11月にスペイン1部マジョルカへ期限付き移籍。10番を背負っていた松井もアテネ五輪後にフランス2部ル・マンへと移籍し、その後も欧州リーグで活躍を続けた。闘莉王は06年にJリーグMVPを獲得するなど浦和レッズで不動の地位を築いた。

 この3人はいずれもアテネ五輪から2年後の06年ドイツW杯出場こそ叶わなかったが、2010年南アフリカW杯では揃ってレギュラーとしてベスト16入りに貢献した。未来のW杯戦士としてのポテンシャルを当時から十分に示していたようだ。

(文中敬称略)

[PROFILE]
那須大亮(なす・だいすけ)/1981年10月10日生まれ、鹿児島県出身。180センチ・77キロ。鹿児島実業高―駒澤大―横浜F・マリノス―東京ヴェルディ―ジュビロ磐田―柏レイソル―浦和レッズ―ヴィッセル神戸。J1通算400試合29得点、J3通算1試合0得点。2004年アテネ五輪代表で主将を務め、在籍した7クラブではCB、SB、アンカーを遜色なくこなした。2020年元旦の天皇杯決勝を最後に現役引退。2018年夏に開設した公式YouTubeチャンネルは登録者数が47万人以上を誇り、さまざまな形でサッカーの魅力を発信している。(石川 遼 / Ryo Ishikawa)